勿 来 の 関

                              ▼ いわき市勿来町
                              ▼ 常磐線勿来駅下車バス九面行勿来入り口下車15分

 福島県の太平洋沿岸はふつう「浜通り」といわれるが、古代・中世には「海道」あるいは「東海道」と言われました。『常陸国風土記』には、この海道の多珂国(たかのくに)を653(白雉四)年に二分して、多珂郡と石城郡としたとあります。『続日本紀』によれば、718(養老二)年に、陸奥国のうち海道の石城・標葉(しねは)・行方(なめかた)・宇太(うた)・亘理(わたり)の五郡と、多珂郡北部の210烟を割いて菊多郡とし、あわせて海道六郡を石城国としたとあります、そして719年には、石城国に「役家一十処」が新設されました。菊多関(勿来関)はこのときにその名前が与えられたと思われます。
   

 バス停から常磐線をこえて山の手に進むと、勿来関があります。勿来関は古くは菊多関と言われ、勿来関と呼ばれるようになるのは、江戸時代の文人たちが文学的修辞からその呼称をつけたことに始まります。『吹く風をなこその関と思へども、道もせにちる山桜かな』は十一世紀前九年・後三年の役に有名をはせた源義家が、ここで詠んだものとしてあまりにも有名です。
 
 799(延歴十八)年の太政官符には「擬郡司十八人、白河、菊多関守六十人」と記されており、坂上田村麻呂の征夷軍の北上の時期における菊多関の機能が想像されます。しかしその後、蝦夷地への進出が北に進むにつれ、その主体が白河関と山道にうつされ、十世紀の初め頃には関の役割は終わりました。

 現在の勿来関跡の場所は、葛山為篤(かつらやまためあつ)の『磐城風土記』(1670年)や中山信名の『新編常陸国誌』などによって比定されたものですが、この場所が菊多関であったかどうかは疑問とされています。しかし、以来、頼山陽・菅茶山・幸田露伴・徳富蘆花・長塚節・斎藤茂吉らが訪れ、もっぱら文学上でもてはやされてきました。

 

 

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