福島県の古代 会津若松市の大塚山前方後円墳から、三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)・素環頭太刀(すかんとうたち)など数々の副葬品が発掘されました。この古墳は4世紀末の築造であり、副葬品は畿内から入ってきたもので、会津地方は、早くも四世紀後半の古墳時代前期には、大和政権の支配をうけ、同化されていたことがわかります。 大化改新前代から同化政策が進んで、七世紀末頃には陸奥国が設けられ、八世紀初めの県内には菊多(きくた)・石城(いわき)・標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇多・白河・石背(いわせ)・安積・信夫・会津十郡が置かれました。 780(宝亀十一)年、伊治の君砦麻呂(いじのきみあざまろ)らの抵抗に端を発した征夷軍との抗争は三十年に及びました。796(延歴十五)年、坂上田村麻呂が陸奥出羽安察使(あぜち)兼陸奥守兼征夷大将軍となり、802年、胆沢城(水沢市)を築いて鎮守府を多賀城(多賀城町)から移し、この地方の開発と同化に大きな役割を果たしました。安倍信夫臣東麻呂(あべしのぶのおみあずまろ)・阿部安積臣継守(あべあさかのおみつぐもり)・磐城臣雄公(いわきのおみおきみ)らは兵糧を献上し、磐城郡丈部善理(はせつかべのよしまろ)・会津高田道成・会津壮麻呂(たけまろ)らは、兵士を率いて征夷軍に加わり、戦死しました。この抗争は、けっきょく東北の人々を相互に戦わせた悲運のドラマともいえます。 平安時代の中期、藤原氏の摂関政治の全盛期から院政の開始の時期に、陸奥安倍氏の反乱を契機に前九年の役(1051−62)と後三年の役(1083−87)との2度にわたる侵攻をうけ、後三年の役で陸奥の国府軍に加担した藤原清衡は(ふじはらきよひら)は、平泉を本拠にして大きく成長しました。この地方では、信夫の地頭大内季春(すいはる)・信夫庄司佐藤基治・磐城の岩城隆行らの豪族が現れ、いずれも平泉藤原氏の勢力下におかれました。藤原氏の娘徳尼が亡夫岩城則道(のりみち)の供養のため1160(永歴元)年に建立したいわき市内郷の白水(うちごうしらみず)阿弥陀堂は、藤原期の御堂建築の数少ない遺産です。また福島市飯坂町の西にある大鳥城や、同町の医王寺の遺物、遺跡から、両氏が平泉藤原氏の前進基地の役割を担いつつ、勢力をはった様子が忍ばれます。 |