福島県の古代           

 会津若松市の大塚山前方後円墳から、三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)・素環頭太刀(すかんとうたち)など数々の副葬品が発掘されました。この古墳は4世紀末の築造であり、副葬品は畿内から入ってきたもので、会津地方は、早くも四世紀後半の古墳時代前期には、大和政権の支配をうけ、同化されていたことがわかります。
 六世紀後半になると、大規模な開田が行われ(相馬市長老内の大森永田遺跡)、その経済力を背景に大和古墳文化をとりいれていきました。いわき市平神谷作かべやさく)の天冠埴輪といわき市平沼の内の中田横穴・相馬郡小高町泉沢の浪岩横穴・原町市太田の羽山横穴・双葉郡双葉町新山の清戸迫(きよとさく)横穴・西白河郡泉崎村の泉崎横穴などの彩色壁画には、先進文化の優美さと土着文化の呪術性が同居していて特徴的です。

 大化改新前代から同化政策が進んで、七世紀末頃には陸奥国が設けられ、八世紀初めの県内には菊多(きくた)・石城(いわき)・標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇多・白河・石背(いわせ)・安積・信夫・会津十郡が置かれました。
 645年大化改新によって、東北地方は陸奥国(みちのく)として正式に諸国のうちに編入(七世紀末頃からは陸奥国(むつ) と改められる。)された当地方は、白河関勿来関が設けられ、関外の地陸奥国の表玄関として位置づけられました.。この両関所は、蝦夷(えぞ)の地と国のうちとをさかいし、蝦夷(えぞ)人の進入にたいし、勿来(来る勿かれ)の関だったのです。大化前代までに国造(くにのみやつこ)が置かれるなど大和政権下に入っていたにもかかわらず、関外の地とされ、728(神亀五)年に白河軍団がおかれ、東北経営の前進基地にされたことは、その後のこの地方の歴史に暗い影を落とすことになりました。奈良時代にはいると、蝦夷の地との境界線が仙台以北にまで前進したことにより、両関所の役割は次第に弱まり、平安時代の九世紀初め頃には有名無実のものとなっていました。

 780(宝亀十一)年、伊治の君砦麻呂(いじのきみあざまろ)らの抵抗に端を発した征夷軍との抗争は三十年に及びました。796(延歴十五)年、坂上田村麻呂が陸奥出羽安察使(あぜち)兼陸奥守兼征夷大将軍となり、802年、胆沢城(水沢市)を築いて鎮守府を多賀城(多賀城町)から移し、この地方の開発と同化に大きな役割を果たしました。安倍信夫臣東麻呂(あべしのぶのおみあずまろ)・阿部安積臣継守(あべあさかのおみつぐもり)・磐城臣雄公(いわきのおみおきみ)らは兵糧を献上し、磐城郡丈部善理(はせつかべのよしまろ)・会津高田道成・会津壮麻呂(たけまろ)らは、兵士を率いて征夷軍に加わり、戦死しました。この抗争は、けっきょく東北の人々を相互に戦わせた悲運のドラマともいえます。
 
 中通りの安達郡が安積郡から独立し《906(延喜六)年》、慈覚大師円仁が霊山寺(霊山町)《859(貞観元)年》や妙林寺(須賀川市)などを創建し、天台宗をひろめ、徳一大師が惠日寺(磐梯町)《807(大同二)年》を創建して、法相宗をひろめ、同化と開発に努めたのもこの頃です。

 平安時代の中期、藤原氏の摂関政治の全盛期から院政の開始の時期に、陸奥安倍氏の反乱を契機に前九年の役(1051−62)と後三年の役(1083−87)との2度にわたる侵攻をうけ、後三年の役で陸奥の国府軍に加担した藤原清衡は(ふじはらきよひら)は、平泉を本拠にして大きく成長しました。この地方では、信夫の地頭大内季春(すいはる)・信夫庄司佐藤基治・磐城の岩城隆行らの豪族が現れ、いずれも平泉藤原氏の勢力下におかれました。藤原氏の娘徳尼が亡夫岩城則道(のりみち)の供養のため1160(永歴元)年に建立したいわき市内郷の白水(うちごうしらみず)阿弥陀堂は、藤原期の御堂建築の数少ない遺産です。また福島市飯坂町の西にある大鳥城や、同町の医王寺の遺物、遺跡から、両氏が平泉藤原氏の前進基地の役割を担いつつ、勢力をはった様子が忍ばれます。
 
 この頃、信夫郡が平泉藤原氏、岩瀬郡が源有仁(ありひと)の荘園となり、白河郡も荘園となり、郡司層が莊官として事実上の領主となっていきました。1063(康平六)年には、河内源氏出身の石川有光(ありみつ)が石川地方にとどまり、1080(承歴四)年から1171(承安元)年の間に伊達郡が置かれるなどし、阿武隈山地の開発が進みました。

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