二 宮 仕 法

 

 二宮尊徳は1787(天明七)年小田原在の栢山(かやま)村に生まれました。長じて小田原藩家老家の再興、次いで宇津家桜町領・日光神領の復興を手がけ、さらに相馬の復興を指導しました。これらの興国安民の法を二宮仕法と呼びます。その基本は、勤労・倹約・推譲(他人のためにゆずる)・分度(生活にわくをつくる)にあります。

 天明・天保の大飢饉(1783・1833年)で壊滅的打撃をうけた相馬中村藩は、この二宮尊徳の「報徳の訓」をもって興国安民をはかる二宮仕法に取り組み、荒廃した農村を復興し、深刻化していた財政難を切り抜けました。相馬ではこれを御仕法とよんでいます。

 相馬藩では、尊徳が180年間の藩記録を調査して査定した藩の分度(藩の経済能力に対する藩財政の限度枠)を堅く守り、これ以外の収入はいっさい農業復興の原資金に当てました。この資金で窮民救済・村の公共事業・水利土木事業などの農村復興改善事業を村ごと実施しました。一方農民に対しては、農民の投票によって表彰し、家屋や農具を与え、復興営農資金を無利息で貸し付けました。また、縄なえを奨励してその縄を仕法役所が預かって預金し、のちに倍額にして戻すなど、働く喜びと、「やる気}を起こさせる環境をつくりながら、勤労の大切さを教え、勤労意欲を盛り立てました。

 まず効果の上げやすい成田・坪田両村(相馬市街から西南へ2.3km)から始め、順次藩内各村に及ぼし、相馬領226ヵ村のうち101ヵ村で実施し相馬の村々はみごと再生しました。とくに692ヶ所に及ぶ溜池の築造、溝渠開削はいまにその多大な恩恵を及ぼしています。

 

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