福島県の近世 豊臣秀吉の全国統一事業のもとで、1590(天正十八)年6月、伊達政宗は秀吉の平和令に反した罪を持って、会津・安積・岩瀬・石川・白川を没収され、豊臣政権のもとに屈服させられました。このいわゆる「奥州仕置」によって配置された蒲生・伊達・相馬・岩城の4氏の支配によって、近世がスタートしました。 1591(天正一九)年第2の奥州仕置きで伊達氏が姿を消し(信夫・伊達・田村・安達などを米沢(山形県)とともに没収され、玉造郡岩出山に移る)、県内の大名は蒲生・伊達・岩城・相馬の四氏となりました。1592(文禄元)年、会津に入った蒲生氏郷は本拠の黒川を若松と改めました(氏郷の郷里、近江の国蒲生郡の若松の森にちなんだものといわれている)。またおなじころ氏郷は、信夫郡杉の目を福島と改めました。 1598(慶長一三)年氏郷の子秀行が宇都宮に移った(家中不和などの理由)のち、上杉景勝が越後春日山から会津(120万石)に入ってきました。1601(慶長六)年、景勝は秀吉の死後、五大老の徳川家康と反目するところとなり、石田三成に呼応した関ヶ原の戦いの後、会津九十万石(信達2郡を残し)を削られ、米沢三十万石に移封され、会津には再び蒲生秀行が入りました。また、関ヶ原の処分(佐竹氏に密着し西軍側につき参戦しなかった)で岩城氏は姿を消し(出羽国亀田(秋田県岩城町)に移封)、磐城には鳥居忠政が入りました。鎌倉時代以来の由緒を誇る相馬氏は、いったんは改易の厄にあいましたが、旧領を回復し、連綿幕末までに及びました。 その後の南奥諸大名の動きをみますと、平には山形に移った鳥居氏にかわって上総から内藤政長が、棚倉には常陸から丹羽長重が、また会津には蒲生忠郷の死によって伊予松山から加藤嘉明が入部しましたが、十数年後、山形から将軍秀忠の第三子、保科正之が入部したことによって、会津松平藩の基礎が固められました。 会津には、豊臣政権以来腹心の武将が配置され、江戸幕府開設以後は、南奥全体が江戸城を取り囲む治安体制の周縁部として位置づけられ、親藩・譜代の大名たちで占められました。1661(寛文元)年当時は、本多(白河)・内藤(棚倉)・内藤(平)・内藤(泉)・土方(窪田)・相馬(中村)・秋田(三春)・松平(保科、会津若松)・丹羽(二本松)の各氏が配置され、信達2郡は、1664(寛文四)年の「寛文の削封」によって米沢藩上杉氏の支配を離れました。この後も岩瀬・浅川・石川・桑折・梁川の諸藩が興っては消え、守山・湯長谷・福島・下手渡(しもてと)の諸藩が創設されました。このほかに分領・幕領があり、錯綜した景観をみせていました。南山御蔵入(南会津郡)のように、幕領(田島陣屋)と大名預所(会津藩)に交互になるという異常な所もありました。 このように、江戸幕府下の南奥は、大名或いは幕僚の変動はまことに激しく、この点で南奥福島県の江戸時代史は、同じ東北でも他県ときわだって異なっています。それは譜代大名の石高が少額なことと、奥州のおさえとしての福島県の位置と、さらに県内の地理的錯雑との諸条件のためです。こうして県内には数多くの大名が配置され、頻繁な変動とともに、幕僚の変動も多様でした。そして小藩の分割統治は、江戸時代の福島県に、統一的な社会と文化経済の形成を不可能にしただけでなく、中通り・浜通り・会津と多様な県民性を今に残す要因ともなりました。 近世南奥の産業では、保科氏の土田堰(はにたせき)、上杉氏の西根堰、丹羽氏の二合田用水などによる開田が有名です。相馬氏が二宮仕法によって692ヶ所の及ぶ溜池・溝渠(こうきょ)を開削したのも注目されます。阿賀川・阿武隈川の治水事業や舟運事業も重要です。会津の蝋と漆、磐城の石炭、信達のおける養蚕製糸、三春の葉タバコや馬匹の生産、桑折の半田銀山などは、いずれも近代に連結される伝統産業の誕生といえるものでした。こうした産業の勃興には、豪農の啓蒙と小農の夜昼ない精励とがありました。なかでも佐瀬与次右衛門が1684(貞享元)ねんに著した『会津農書』は、宮崎安貞の『農業全書』より13年早く世に問われ、広く後世まで農業の指針となりました。 いずれの領主も財政逼迫に財源を求めて、しばしば領民と衝突しました。そうして引き起こされた一揆には、1720(享保五)年の南山御蔵入(南会津郡)騒動、1738(元文三)年の磐城騒動、1749〜50(寛延二〜三)年の寛延の一揆、1798(寛政十)年の浅川騒動が知られています。このう寛延の一揆は中通りと会津のほぼ全域で発生した大規模なもので、多数の犠牲者を出しました。 また、天明(1781〜89)と天保(1839〜44)の二度にわたって冷害凶作に見舞われ、多数の餓死者を出し、特に阿武隈山地東部から中村藩にかけてはひどいものでした。 思想的な面では、吉川神道をを学んだ山崎闇斎が垂加(すいか)神道を唱え、瀬ノ上の内池家の仲介で本居太平(もとおりたいへい)の国学思想が伝えられましたが、それよりも平田派の国学が神主・修験・武士・農商の間にひろまったことや、幾人もの徂徠学者が育ちながら、守山藩しかそれを受容できなかったことは、この地方の思想的風土を考えるうえで重要です。やがて幕府も諸藩もどのような改革によっても再建の見込みがたたない状況に追い込まれ、1866(慶応二)年の信達騒動、1868年の戊辰戦争、ヤーヤー一揆によって、幕府体制は崩壊していきました。 |