世良修蔵のさいご

 福島市街の中心、福島稲荷神社境内の東北の隅に、奥州鎮撫使下参謀・長州藩士世良修蔵の墓があります。慶応四年(1868)、世良修蔵は、仙台・米沢両藩周旋の会津藩と奥州列藩からだされた謝罪嘆願書を却下し、会津攻撃の続行を命じさせました。二日後の閏四月一九日、この強固策に憤慨した仙台藩は、攻撃軍を説き、奥州軍事局詰めの仙台・福島両藩士と攻撃軍の仙台藩士の一部が客自軒に集合し、福島の金沢屋に投宿していた彼をとらえ、翌朝、阿武隈川隈畔で斬首しました(時に三四歳)。これをきっかけにけに西軍阻止のための列藩同盟が結ばれました。

 彼の碑は、年あらたまった明治二年(1869)に長州藩士らによって建てられ、後年、品川弥三郎・高崎正風による献燈もあり、墓前の献歌は「しのぶればその五月雨の夕まぐれなみだの川のなみならぬかな」。

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