奔流の如く

 いつもにもまして暑さが厳しかった2001年の夏,恵那の各務周海氏の陶房を訪れました。いつもは新幹線と中央本線を利用して恵那に向かうのですが,このときはツーリングをかねてカワサキの900ccで高速をとばしました。お昼過ぎに周海さんのお宅につくと「ようきなすったねえ。」と懐かしい笑顔が迎えてくれました。シャワーをお借りしたあと,さっそく新しい作品を拝見しましたが,違うぞと感じました。これまでの周海さんの作品とは。
 以前から周海さんのろくろの巧みさは知っていましたが,それとは明らかに違う印象をうけたのです。秋にもう一度窯を焚き11月の展示会に備えると言うことでしたので,必ず上京し作品を見なくてはと心に決めて恵那をあとにしました。
 
 展示会の準備が整った頃,図録が届きました。目を見張りました。夏に感じたあの印象が平面の写真からでさえ明確に伝わってきました。展示会初日は平日でしたので,夕方の新幹線に飛び乗り周海さんのもとに向かいました。着いたのは残念ながら会場がしまったあとでした。そこで,周海さんの作品に出会えるのは翌日に持ち越しになりましたが,周海さんとともに会場に入ったとき,はっきりと認識したのです。周海さんの作陶技術が自在の境地に達したということを。

 サクラマスと言う魚を釣るために,川幅が100mを越えるような大河に胸まで立ち込むことがあります。ほとりから見ると,一見流れが止まっているような流れ・・・。しかし立ち込むと,力強く押し出す太いうねりと,多くの生き物をはぐくむ豊かさを感じます。太古の昔から一時も眠ることなく,静かに,力強く,時には激しく繰り返されてきた循環。

 周海さんの作品に,同じような奔流の力強いうねりを感じました。静かに見えるようでいて自由,繊細なようでいて大胆。自在なろくろ引きによって形づくられたボディーと,穴窯での酸化焼成によって深い奥行きを感じさせる黄瀬戸の油揚げ肌。
 
 夏目漱石の「夢十夜」の第六夜に運慶の話が出てきます。男があまりにも無造作に見事な木仏を彫るものだから,通りがかりの町人がどうしたらそのように彫ることができるのか尋ねます。すると男は答えます。木を彫って仏像をつくっているのではない,木の中に元々隠れている仏様を彫りだしているだけだと。

 さて,縄文以来面々と受け継がれてきた焼き物の美,その奔流の中で周海さんはいかなる作品をめざしているのでしょうか。自在の境地に達したと思われる自らの作品にいかなる美を見いだしているのでしょうか。運慶は木の中に元々隠れている仏様を彫りだしているだけだと言いましたが,周海さんは土の中から何を彫りだしているのでしょうか。
 恵那を訪れ周海さんの話を聞くたびに感じる,原始的なものへのあこがれ,土や釉薬へのこだわり,焼成への情熱から推察することしかできませんが,それはもしかすると周海さん自身なのかも知れません。









志野茶碗 銘「氷瀧」 
径14.1 高8.5  高台径7 
 周海氏と言えば黄瀬戸が有名であるが,志野における釉調,火色も絶品である。
黄瀬戸旅茶入れ
口径2.3 高5.2
 掌にすっぽり収まるような大きさの茶入れにみられる口づくりにも卓越したろくろ技がうかがえる。 
黄瀬戸輪花鉢
24.4 
 端正な器形に対して,焦げや釉薬の濃淡,タンバンが絶妙のバランスをとっている。古作を超える逸品である。

黄瀬戸茶碗
径12.7 高7.3  高台径6.7
 緩やかにうねる口づくり,釉薬が織りなすグラデーション,周海氏の焼き物がまさに自在の境地に達したことをしめす茶碗である。