焼き物雑感
 先日あるお寿司やさんで食事をしたときのことです。友人が注文したお酒が,備前の人気作家の徳利に入って出てきました。あまり手にする機会がない作家のものでしたので,手にとってじっくり見てみました。豪快にしのぎが入り,現代的な造形が印象的でした。備前は焼き締めですから,新たな何かを創造していこうと思えば,造形へと着目することは当たり前なことなのかも知れません。しかし,焼き物が焼成という過程を経る以上,焼きに表情,美しさが無くてはならないような気がしてなりませんでした。斬新な造形は人々の目を引きますが,それだけで普遍的な焼き物の美として長い間愛され続けることができるのかな,と思います。

 骨董市やインターネットオークションを見ていると,近代陶芸の巨匠の作品と銘打った贋作と思われる作品に出会うことがあります。明らかに怪しいと思われるものもありますが,中にはかなりそれらしいものも見受けられます。それらは,たいがい法外な値段で取り引きされています。贋作者の腕がいいのか,それとも,巨匠とよばれはしたものの,結局贋作を容易に許してしまうレベルであったのか・・・。

 各務周海氏,賢周氏の作品を紹介してきましたが,奥深さと自由な精神に支えられた周海氏の黄瀬戸の贋作をつくり出すことができる贋作者は出てくるでしょうか。もし,そんな人が現れたら,贋作者ではなく,まさに巨匠とよばれるのがふさわしいかも知れません。
 
 しかし,周海氏の黄瀬戸を超える作品がつくり出されることがなければ,美濃の焼き物の美の流れは,どこかか細いものになっていくような気がします。賢周氏の近作を見ると,その流れを受け継いでゆくのが賢周氏であることをはっきりと実感できます。
 
 最近,S氏のご厚意により石黒宗麿の天目釉平茶碗を手に入れました。形態こそ違いがありますが,根底に流れる作陶への思いは,周海氏と似ているのではないかと考えています。そういえば,賢周氏の刷毛目徳利,何となく見覚えがあるような気がしてあれこれ考えました。出羽桜美術館で見た李朝陶器だったかな・・・。
 思い出しました。何が似ているのかと言われればそれまでですが,石黒宗麿の刷毛目扁壺とイメージが重なります。もちろん,片や人間国宝ですから,ファンとしてのひいき目もあるのでしょうが・・・。

 焼き物の美について考えてきましたが,何をもって美と言えるのか,はっきりとしたことは言えません。しかし,一つだけ言えることは,やきものの美は絵付けの華やかさだけでは,造形の斬新さだけでは,釉薬の発色だけでは語れないと言うことです。土と薬と造形と,そして焼きが一体となり,一つ一つの総和を超える作品としての美を生み出すのではないでしょうか。創作活動を通して土の良さを作者が引き出し,作品を通して作者が自らの良さを表現する中にやきものの美は生まれてくるのかも知れません。陶芸という,力強く流れる大河のような奔流の中で・・・。 

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各務周海
 黄瀬戸小服茶碗
径10.4 高7.3 高台径6.2
各務周海
 黄瀬戸茶入れ
      銘「古湊」

 高9.3
石黒宗麿
 天目釉薬平茶碗

径15.6 高5.7 高台径6.2
各務周海
 黄瀬戸茶碗 

径11.3 高8.9 高台径6.1