トップに戻る

岩元平八郎恒成の章
 

HEI1

岩本平八『大日本人名辞典』

西南役西郷党,第一番砲隊の長となり,屡々戦功あるを以て擢でられて大隊長に挙られたり再び薩摩に入り自ら切隊と称し本営を福山国府に設け賊軍熊本に敗るるや 壮士を募り防戦せり或は自ら一隊の長を撰び之をして諸隊の応援を為さしむ又日州に赴き嚮ふ所先登せざるはなし宮崎の役に兵士皆尽く後西郷隆盛に従て鹿児島に 入り城山に戦歿すと云

岩元平八郎伝『西南記伝』(黒龍会編)

岩元平八郎,名は恒成薩摩の人。岩元清蔵の子。弘化四年,鹿児島高麗町に生まる。世,島津氏に仕え,其藩士たり。戊辰の役,薩藩砲隊分隊長として軍に従い, 奥羽に転戦して功あり,明治二年,薩藩陸軍砲兵半隊長と為り,四年,出て,近衛砲隊大尉に任じ,六年,職を辞し鹿児島に帰る。十年の役,薩軍に応じ,一番砲隊 半隊長と為り,吉次方面に戦ひ,三月十九日,二番砲隊に代り,転じて熊本城を砲撃す。後,各地に転戦して鹿児島に入り,九月二十四日,城山陥いるに及び,奮戦 して之に死す,年三十一。
 平八郎人と為り,身材肥大性温厚にして気骨あり。東郷氏に就て示現流の剣技を学び,得る所あり。吉次の戦,敵弾に中りて,左手の自由を失いしも屈せず,奮闘し て遂に之を破る。
 河野主一郎の,使節と為りて,官軍に至らんとするや,平八郎,之を聞き,倶に行かんことを請ふ。時に山野田一輔,亦,使節の候補者たり,主一郎,乃ち平八郎と 共に邉見十郎太の営に至り,議して曰く『余は,山野田,岩元の二人に就いて是非する所なし,顧ふに,平八郎は竹馬の友たり,川村純義は舊友たり,故に平八郎と 共に純義を訪ふに於て,應對固より私を容れざるも,外間の猜疑,亦,慮らざる可からず。故に平八郎と同行せんよりは,寧ろ一輔と共にするを以て可とせん』と, 十郎太も亦之を然りとす。平八郎,其言の理あるに服し,後繼を以て自ら任じ,復争わずして止みしとい云ふ。

岩元恒成(平八郎)の墓は南州墓地西郷隆盛墓碑と同列右側にある。

岩元恒成関連資料
項   目 項   目 内   容
<説明> 岩元平八郎恒成は,岩元清蔵の子,岩元基の実弟である.上記の文献にあるように西郷隆盛に殉じて,城山にて戦没した.兄岩元基は十年の役の後,実子の祐を 平八郎の養子として家督を継がせた.なぜ平八郎を岩元別家として,わざわざ祐を養子にしたのか?その間の事情は今のところよく分からない
写真 岩元平八郎 まだ、髷があるが、洋装で片手に蝙蝠傘と本を持ち、帯刀し、足袋にわらじ履きという出で立ちである。この写真を見ると「身材肥大」とあるが、大きいようには見えない。むしろ小柄な感じがする。

岩元家トップに戻る