ドストエフスキー記念館 ドストエフスキーが1878年から亡くなる1881年まで住んでいた家が記念館になっています。 「カラマーゾフの兄弟」はそこで書かれました。 記念館は当時の生活そのままに残されています。 子供部屋には子供たちにプレゼントしたというお人形と木馬が。 家庭ではドストエフスキーは子煩悩な、いいパパだったようです。 今回の旅行の目的の一つがこの記念館だったのですが、開館が11時からなので、その前に他のところを見に行くことにしました。 かつてエカテリーナ運河と呼ばれたラスコーリニコフにもゆかりの運河です。 今は、グリバエードフ運河と言います。非常に言いにくいです。 もうひとつの運河、モイカ運河に合流する場所の近くにこの建物は建っています。 血の上の教会、もしくは復活キリスト教会です。 アレクサンドル三世が暗殺された場所に建てられたのが名前の由来です。 建てられたのはドストエフスキーが亡くなってからです。 つまり、ドストエフスキーはこの建物を見ていないということですね。 もっと近づいてみましょう。 ここは出口です。 以前、中に入ったことがあるので、今回は入りませんでした。 それに、時間が早いのでまだ開いていません。 右手にまわってみます。 すごくいい天気ですが、空気が冷たかったです。 道路の反対側にある礼拝堂。 玉ねぎのアップ。 正面から見るのとはまた違った趣です。 この教会はカザン寺院をはさんで反対方向にあるバンク橋からの眺めが面白いです。 今回は時間がないので行きませんでしたが、よく絵葉書になっています。 これは運河ではなくて川です。 対岸にペトロパヴロフスク要塞が見えます。これも言いにくいです。 ドストエフスキーは政治犯としてシベリアに送られる前、あのペトロパヴロフスク要塞に収監されていました。 橋です。 いかにも外国な雰囲気の街灯。 近くの建物です。 そしていよいよドストエフスキー記念館へ。 階段を上って左側がドストエフスキーの住んでいた部屋です。 当時の傘とトランクです。 「悪霊」の中でヴェルホヴェンスキー先生が出奔した時、傘と旅行鞄を持っていたのを思い出しました。 子供部屋。 ドストエフスキーの書斎。部屋の外から見るだけで、中には入れなかったのですが、机の横に書棚とソファがありました。 時計はドストエフスキーが亡くなった時間、8時38分で止まっています。 文字盤の下に「середа」「28」「янваль」の文字があります。 「янваль」は1月のことなので、1月28日なのはわかるけど、「середа」はなんでしょう。 ウクライナ語なら水曜日ということらしいですが、ロシア語だと水曜日は「среда」のはずですし。 食堂の窓からの眺め。おそらく、ドストエフスキーが眺めていたのと、そう変わらないのではないでしょうか。 なんだかもっと質素な暮らしをしているのかと思いましたが、少し意外でした。 子供部屋は片づけられていて生活感がない感じでしたが、実際にはすごく温かい家庭だったんだろうなと思います。 向かいの部屋は資料館になっていて、当時の街の写真や原稿などが展示されていました。 絵葉書セットを買いました。 左は「罪と罰」のラスコーリニコフの住んでいた場所やかかわりのある場所、右はドストエフスキーの住んでいた建物の写真です。 時間があれば絵葉書に載っている地図をたよりに歩いてみたいのですが、午後には飛行場に向かわないといけないので、その前に食事をすることにしました。 途中で見た景色など。 木々が色づいて、まさに秋という感じです。 上の建物は有名な貴族のお屋敷です。 何をした人かは知らなくても、みんな名前を聞いたことがあると思います。 その名はストロガノフ伯爵。 中にレストランがあってビーフ・ストロガノフが食べられるそうですが、そこで食事をするのではありません。 そのはす向かいのこちらのカフェです。 窓からストロガノフさんのお屋敷が見えます。 運河と橋も見えます。 偶然だったのですが、座った席はプーシキンが座ったのと同じ席だということでした。 一番上のプレートにプーシキンの名前が刻まれています。 額に入っているのはプーシキンの肖像です。 奥の右側の席にドストエフスキーが座っていたそうです。 上のプレートにドストエフスキーの名前があります。 平日の昼間だったからか、客は他に一組だけでしたが、夜は観光客で貸切になったりするようです。 文豪が利用したというのを売りにしているカフェだけに、撮影には寛容でした。 クレジットカードも使えましたよ。 窓の外には船着き場があって、ちょうど遊覧船が来ています。 サラダは量が多かったです。 ボルシチです。おいしくいただきました。 その後、ホテルに帰って預けてあった荷物を受け取り空港へ。 空港でこんな自販機をみつけました。 iphone用のカバーです。 ロシアらしく、マトリョーシカの絵柄もあります。 空港へは道路がすいていたので早く着いて、チェックインカウンターを探すと、案内板に1階との表示が。 そっか、ここはヨーロッパでグランドフロアが1階だから、1階とは2階のことかと納得してエレヴェーターに乗ると、エレヴェーターの階数表記は1、2、3となっているので、結局2階で降りました。 同じ空港内でこれって、どういうことですか? ともあれ、手続きはスムーズにできました。 いつから止まっているのかわからないエスカレーターを歩いて降りたり(階段は見当たりませんでした)、動かない動く歩道のわきの未舗装の道を延々歩いたり、機内持ち込みの荷物をひっかきまわされたりはしましたが。 検査のおにいさんはデジカメや携帯電話のアダプタが気になったようです。 けれど、搭乗時間になっても一向にアナウンスがありません。 周りはロシア人とかロシア人とかその他の外国人やロシア人ばかりで、慣れているのか誰も動きません。 さすがに出発の時間になると集まってきて、係りの人に問いただしたりしているみたいでしたが、相変わらずなんのアナウンスもなくそのまま2時間ほど待つことに。 やっと搭乗が始まって、遅れた原因がわかりました。 外は吹雪です。確かに日本での天気予報では雪でしたけど、空港に来るまではものすごく晴れてたんですよ。 ゲートから飛行機までわずかな道のりを雪まみれになりながら機内へ。 雪の積もり始めたタラップが滑りやすくて、前を行く外人さんが滑ってました。 そのあと、さらにありえないようなことが機内で起きるわけですが、さすがはロシアとロシア人だと思えるような出来事でした。 追記 ドストエフスキーは角部屋がお好き サンクトペテルブルクにはドストエフスキーが住んでいた家がいくつもあって、右側の建物がその中の一つです。聖イサク寺院のそばにあります。 1847年から49年まで住んでいたということは、「白夜」はここで書かれたということでしょうか。そして、1949年にドストエフスキーは政治犯として逮捕されています。 実は、ラスコーリニコフが住んでいたといわれる家もひそかに見に行きまして、たまたまそこの住人の方が帰ってきたので中庭に入れてもらいました。建物はドストエフスキーが生きていた時のままなのに、暗証番号式のドアロックがミスマッチで素敵でした。 |