今日もいい天気だ。朝からギラギラした太陽が照りつけている。
今日は涸沢(からさわ)小屋から北穂を往復してくるだけなので荷物も少ない。アタック・ザック一つをテルさんが背負い、他のメンバーはみんな空身だ。私もカメラをぶら下げ、長袖のシャツを腰にくくり付けて歩き始める。
(写真右は涸沢小屋と北穂高)
涸沢小屋のすぐ脇から直登となる南稜(なんりょう)の道。そこは高山植物が咲き誇っていた。白いハクサンイチゲや黄色いシナノキンバイ、紫色のチシマギキョウやイワギキョウなどが、まるで咲き競っているようだ。
それらの花々を眺めながら登っていると、昨年の秋にこの道を登った時の苦労がまるでアホみたいに思えてきた。
昨年の11月中旬、それも小屋が終るという前日だった。弟と2人でこの南稜を登ったが、その時は新雪が20センチ以上もあった。アイゼンとピッケルという完全武装で登ったが、それに比べると今日は一体どうだろう。このギラギラした太陽と一面の高山植物。それに重い荷物もなければ張りつめた緊張感もない。まるで花から花へ飛び交う蝶のように心が浮き浮きしてくる。
「ゆっくり行こう」
と声をかけても浮かれた者の足取りは軽く、のんびりと花を眺めながら登っている私は、つい仲間から離されてしまう。
「そんなに急ぐこたぁねぇ……。ゆっくり行こう、ゆっくり」
と、はやる仲間を制しながら、のんびりとしんがりを登って行く。
鼻歌を歌いながら登っている時、道端に咲いていた薄紫色のオダマキを見つけ、
「オーイ、オダマキが咲いているぞ」
と声をかけると、前にいたトマリさんが駆け下りて来た。
そして、その花を見てガッカリしたように、
「これ、オダマキじゃあないわよ」
と言われて、私もガックリきた。
しかし、その薄紫色の蝶のような可憐な花を見た時は本当にうれしかった。南稜を登って行くといたる所に咲いていた。この花を小屋へ戻ってから本で調べたところ、オダマキではなくハクサントリカブトと書いてあった。この花は人を殺すほどの猛毒だそうだ。
それにしても実に可憐な花だ。こういう可憐な花々こそ夏山の最大の魅力だろう。
(写真左がオダマキ、右がトリカブト)
北穂のクサリ場を過ぎテント場近くまで来ると、焼き付くような肌にすがすがしい風が吹き渡って来た。汗ばんだ身体には実に気持ちがいい。
「おお、すばらしい眺めだ」
と誰かが振り返る。すると全員が振り向いて、足元のはるか下にある涸沢と、その向こうにそそり立つ穂高の岩峰を見比べる。扇を広げたような涸沢は、圏底の白い雪渓を囲むように、この北穂の正面に前穂高北尾根がある。ここから見るとノコギリの歯のようにズラリと並び立って見える。この北尾根の岩峰群こそ穂高の最大の魅力だろう。
その北尾根のすぐ右隣に日本第3位の標高を誇る奧穂高がある。どっしりとした山容はまるで軍艦のようだ。
私は常々友達に、「一度でいいから穂高へ連れて行きたい。だましてでも3,000メートルの頂きに立たせてみたい」と言っていた。
山などに全く感心のないマージャン仲間にさえ、この3,000メートルの壮観な光景を、一度でいいから見せてやりたいと何度思ったか知れない。
今回初めて来たアラキ君とトマリさんに、
「私が穂高を好きになった気持ちが分かるかな?」
と聞くと、二人とも納得そうにうなづく。
「それにしても、だんだん寒くなって来たなあ……。まるで冷蔵庫の中へでも入っているようだ」
と誰かが言った。
さっきまで、すがすがしく感じていた風も、長く休んでいると冷たく感じてくる。
「東京は連日30度を超す猛暑だそうだ。山はこんなに寒いというのに……。幸せ者だよ俺達は……」
と言いながら、長袖のシャツを着込んだ。
*
標高3,100メートルの北穂の山頂からは、前穂や奧穂がくっきりと見えた。しかし、槍ケ岳が見えない。空はあくまでも晴れているのだが、滝谷の谷底から湧きだしたガスが煙突から出る煙のように流れ、槍ケ岳の穂先を隠してしまったのだ。
我々はここでガスが切れるまで待つことにしてティータイムにした。
湯を沸かしている間にも、登山者が続々と登って来る。しかし、誰一人として下山する者はいない。みんな槍ケ岳の雄姿を一目見たいと願っているのだろう。
時々、ガスの裂け目から槍が姿を見せる。するとすごい歓声が沸き上がる。しかし、その歓声が止む前にまたガスに隠れてしまう。
コーヒーを飲みながら、歓声が上がるたびにコーヒーカップとカメラを持ち替える。だが、シャッターは切れない。せめて4、5秒でもいいから雄姿を見せて欲しいのだが……。
でも、あわてることはない。時間はたっぷりある。まだ昼前だし、雨雲が出て来たわけでもない。ここは北アルプスの中でも、最もガスが湧き出しやすい所なのだ。谷が深いため谷底と上空の温度差があり過ぎるのだろう。午後から発生するガスと違い、そのうち晴れてくるに違いない。
ここからは、眼下の滝谷が見下ろせた。この山頂から飛騨側へ1,000メートルも垂直に切れ落ちている。昔から『鳥も止まれない』と言われる絶壁である。
その絶壁を二人のクライマーが登っているのが見えた。我々はそのクライマーの登攀を見物するため、山頂から少し下った岩陰に腰を降ろした。
ここから見ると、黒々とした岩壁にアリがへばり付いているようにしか見えないが、アリは少しずつ確実に登っている。そのアリが燃やす闘志が、見物している私の胸にも伝わって来た。
一つのハングを登りきると、思わずホッとして、
「サア、次はあのハングだ!」
と、まるで自分が登っているような錯覚にとらわれた。
しばらく登攀を眺めているうちに、今まで見えなかった笠ケ岳が見えるようになって来た。しかし、この春、燕岳から見たような頭が丸く、いかにも編み笠のような山容ではない。笠の面影はなく、なんとなく不格好だ。
その笠ケ岳を眺めているうちに、次第にガスが切れて、ついに待望の槍ケ岳が姿を出した。
周りから一斉に甲高い歓声がわき起こった。青い空を突き刺すような尖峰。それはまさに日本アルプスの象徴であり、アルピニストの限りなき憧れであろう。