錠二おじい様の先祖は初代から5代までが気多大社の宮司でしたがその記録は「思い出の数々」の系図に役職名と隠居または没年が記載されていて、僅かな家系説明があるだけでそれ以外は本家の房記大伯父様家にも残こされていません。加賀藩では何代にも亘り現代の戸籍に相当する「先祖由緒一類附帳」を提出させていましたが、金沢の何度かの大火により大部分が消失してしまったようです。当家は明治3年房記大伯父様が出された「由緒一類附帳」が前田育徳会尊経閣文庫から寄贈された藩政文書として金沢市立玉川図書館 近世史料館に保存されていますが、第7代弘次郎までしか記録されていませんので天正時代まで遡るものがありません。大宮司時代の資料としては気多大社に関する文書が昭和15年頃と50年代に編纂され「気多神社文献集」「気多神社文書1〜3巻」があり、その中に含まれる「大宮司櫻井家文書」は、それまで8家から20家もあった櫻井姓を名乗る社家一族が、明治新政府による神職の世襲制を排除された時、わずか1家だけ生き残った元、大宮司家が保存されていた文書が公開されています。明治時代には内務省から派遣された役人が神職を務め組織も縮小されたそうです。アマチュアの気多神社研究家の櫻井正範氏からご連絡があり遠い祖先(300年位昔)を共にする事を知らされました。氏の研究テーマである『古代まで辿る櫻井家のルーツ』は著書「気多の祝<ハフリ>」に詳しく載っています。たまたま不詳だった権宮司家が当家の家系である事を今回実証されました。最初はきつねにつままれたような感覚でしたが、私も色々な文書の存在を氏から教えられ、検証を進めています。下記リストは「思い出の数々」に記載された事と明治3年房記大伯父様が出された「由緒一類附帳」を元に先祖を表に現したものです。(表1)また正範氏が突き止めた当家の宮司時代を系図に現したものを次ページに示します。(PDF系図)

(表1)

備   考  死亡又は
隠居の年号
同 西暦
初代 監 物 能登国 能登国羽咋郡位一宮村に居住・気多神社(大正4年11月10日国弊大社となる)の大宮司として代々同神社奉仕神職の首班であった。4代の大監物は従五位下の高位にいた。5代甚兵衛は大監物の三男で父の跡目を相続したが病弱なため、羽咋郡大念寺新村に引退して大宮司の職をその子甚太夫にゆずる。  天正 5年  1557
2代 監物丞  慶長 4年  1599
3代 監物丞  寛永16年  1639 
4代 大監物  正徳 3年  1713
5代 甚兵衛  正徳 5年  1715
6代 甚太夫 加賀国
(金沢)
馬術に長けていたので前田家に仕えるようになり、9代甚太郎に至るまで代々加賀藩士として乗馬役を務めるようになった  天明 8年  1718
7代 弘次郎 甚太夫の養嗣子で高橋宅右衛門の二男  寛政 5年  1793
8代 甚太夫 弘次郎の長男、勤務精励につき知行百石を賜る。妻は熊野兵右衛門の娘  嘉永 6年  1853
9代 甚太郎 甚太夫の長男、先代の跡目を継ぐが48歳で病没(享年48歳)  文久 3年  1863
10代 先之丞 甚太郎と先妻(福田姓・1850没)との二男(長子喜三郎夭折)品行不正、家宝什器売払い放蕩し、放禄。明治30年金沢にて没、享年53歳 明治元年隠居  1868 
11代 房 記 東京 甚太郎・八百の長子。(嘉永5年(1852)8月25日金沢馬場一蕃丁で誕生異母兄放禄即日新たに俸禄40俵を賜る。享年76歳  昭和 3年  1928
(分家初代) 省三(安政元年(1854)8月28日生 享年90歳  昭和19年  1944
     竹吉(夭折)  安政  4年  1856
(分家初代) 錠二  昭和14年  1939
     大次郎(夭折)  文久 2年  1862
     梅子(夭折)  文久 3年  1863
12代 俊 記 房記の長男  昭和45年  1970
権大宮司ご先祖の足跡を訪ねて (1) 能登羽咋・一宮気多大社 2006/11/4〜6