甚太夫家の復元系図(PDFにつき開くのに少々時間が掛ります) | 櫻井正範氏編集(2006年11月) |
2.甚太夫家系図の復元
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甚太夫家の2代は、天正5年(1577)から慶長4年(1599)まで大宮司であった。気多神社櫻井家文書よれば、52代肥後守監物丞基威は、慶長5年(1600)に社中の混乱のお咎めを受け、所口(七尾)の牢舎で亡くなったことが確認される。この時代の大宮司職は、この基威ひとりだけなので、甚太夫家の2代監物丞は、大宮司家52代監物丞基威のことであろうか。
・・・甚太夫家3代の監物丞は、・・・・権大宮司家 清吉盛忠
慶長5年(1600)から寛永4年(1627)まで大宮司職とある。基威から正大宮司職を相続した53代正大宮司家監物基納は、慶長6年に跡目を相続し、寛永7年に死去するが、それ以前に実質的に大宮司職を補佐して活躍していた。甚太夫家の3代監物丞とは、ほぼ時代が一致するので、この53代正大宮司基納の可能性もある。しかし本文では、甚太夫家3代は、権大宮司家を興した弟系統の清吉盛忠であると推定した。
清吉盛忠は、兄の監物基納同様に慶長6年(1601)に正式に権大宮司家を興した。父監物は、兄の清七郎基納よりも、弟の清吉を評価していたので、一時は基納を廃嫡し、清吉に跡目相続を行う遺言を残していた。天正15年(1587)には、父大監物基威は、断絶している権大宮司職に、清吉をたてることを一宮惣中神主に知らせている。弟の清吉盛忠は、権大宮司家を再興したが、先に紹介したように盛忠には、男子が無く、婿養子の兄基納の3男善兵衛成忠が権大宮司を相続している。
参考までに、元和2年(1616)12月25日、正大宮司清七郎基納から息子たちへの米の配分は、次の様になっている(長福院・櫻井監物基納の配分日記・気多神社文書319)。このときに大宮司家からは、権大宮司家以外に正禰宜家と権権惣行事家(わが家=櫻井正範家の祖先)にも養子が行われていたようだ。
嫡男 権丞殿(基勝)(正大宮司相続) 14俵4斗5升4勺6才
次男 清七殿(不詳) 2俵5合
三男 清十殿(基行)(正禰宜家養子) 2俵5合
四男 善兵殿(基末)(権大宮司家養子) 2斗4升1合
五男 亀世殿(基直)(権権惣行事家養子) 2斗4升1合
・・・甚太夫家4代の大監物は、・・・・権大宮司家 大監物 基明
寛永16年(1639)から正徳3年(1713)まで、74年間大宮司職にあった。
正徳3年に亡くなり、大監物を名乗るのは、権大宮司家の大監物基明しかいない。大監物基明は、正徳3年3月病死したことが、櫻井基延文書に記載されていて、職名・死亡年代ともに大監物基明と甚太夫家4代大監物と一致する。
・・・甚太夫家は、一代欠落か?・・・・
甚太夫家4代の大監物が権大宮司大監物基明だとすれば、権大宮司家先代の善兵衛成忠(基末)は、甚太夫系図から欠落していることになる。甚太夫家4代の在位期間が74年間と異常に長いのは、この一代欠落が原因ではないだろうか。
善兵衛成忠の兄は、54代大宮司清七郎基勝である。大宮司家文書には、基勝は、監物権之丞とあるので、善兵衛成忠が監物または大監物を名乗っていた可能性がある。
・・・甚太夫家5代の甚兵衛は、・・・・権大宮司家 冶部孝基ではと?
甚兵衛は、先代大監物の3男に生まれ、正徳3年(1713)に大宮司となる。しかし、3年後の正徳5年(1714)に、病弱ゆえに大念寺新村(羽咋郡志賀町高浜)に引退したとされている。甚兵衛と権大宮司家4代治部孝基とは、就任した時期が一致し、死亡した時期にも整合性が見られる。
権大宮司家4代櫻井治部孝基は、正徳3年(1713)3月に権大宮司家3代監物基明の病死により、権大宮司を相続するが、5年後の享保3年(1718)8月に病死した。
基明の子供には、治部孝基、惣八正基、多仲、女の兄弟が確認できる。甚大夫家の5代甚平衛とは、同一時代に生存した人物である。
生存期間がほぼ重なる4代権大宮司冶部孝基と甚太夫家の5代甚兵衛は、同一人物だとすれば、甚兵衛と5代権大宮司監物正基は兄弟ということになる。
・・・甚大夫は、寛保3年(1743)2月に、加賀藩士に・・・・
甚兵衛の息子の甚太夫は、正徳5年(1715)大念寺新村に父に従って移っていたので、治部孝基の大宮司職は、弟の監物惣八正基が跡職を相続した。おそらく甚太夫は、まだ成人に達していなかったので、叔父の惣八正基が権大宮司家の跡職を相続されたのではないだろうか。
だが成人に達しても甚太夫は、大宮司職を継ぐことはなく、加賀藩士への道を選んだ。甚大夫は、寛保3年(1743)2月、加賀藩江戸表において10人扶持で召しだされた。(役替加増等記録・加越能文庫16.30−40)
・・・その後の権大宮司家は ?・・・・
監物惣八正基は、権大宮司職を相続し、監物を名乗った。寛保元年(1741)に病死した。基延文書によれば、寛保元年(1741)8月、監物惣八正基の権大宮司家を相続するものがいなかった。
そこで、正基の従兄弟の櫻井主馬・中太夫は、監物惣八正基の甥で加賀石川郡寺中村神主河崎出羽の舎弟清太夫を担ぎ出し、寺社奉行所に願い出て、大宮司監物を名乗らせた。
つまるところ、本来の大宮司適格者は甚太夫であったが、甚太夫が馬術で身を立てる決心を固めたため従兄弟の監物清太夫(河崎出羽舎弟)が大宮司職を継ぐことになったものではないだろうか。