大念寺新村(福野村)<現・石川県羽咋郡志賀町福野> | 2007年9月8日 櫻井正範氏調査による |
江戸時代から十村役(庄屋)を務める雄谷家の分家、善興家、その分家と言われる 桜井甚平家を訪ねる |
錠二家ご先祖第5代・大宮司・甚兵衛は正徳5年(1715)大念寺新村に引退する。と「思い出の数々」に書かれています。生存次期から気多神社櫻井家文書(明治維新まで代々大宮司を継いだ家系)による権宮司第4代冶部孝基ではないかと櫻井正範氏は推測しています。その文書には3人の息子と女子1人が確認でき、神職へと繋がっています。大宮司・権大宮司家では代々諱は「基」が使われていますが、神職を追われた甚兵衛家は諱に「甚」を使うようになったのではないか。また当時は勝手に転居や転職は出来ない背景から、福野の大庄屋であり気多神社の氏子総代でもある雄谷家の庇護を受け、気多神社宮司の身分を伏せて生き延びたのではないかという推論を検証する機会を探がしていました。気多大社最大のお祭り「平国祭、通称おいで祭り」巡行のお休み処として提供されていた雄谷家は、現在でもその威厳と風格ある御屋敷がそのまま残されていて、現在もご子孫がお住まいである事をつきとめられた正範氏が直接お目に掛り、上品な面立ちの老ご夫妻からお話を伺う事が叶い、いくつかの推論を実証する機会が得られました。 福野雄谷家は広壮な屋敷と千石百姓と言われた豪農の名に相応しい佇まいとで広く知られた名家である。天正十年(1562)の「福野村水帳」(前田利家が能登に入って早々に実施した検地の記録)で明らかのように、近世初頭に田、十ニ町余り、畑四段歩(反歩)余りをようし、中世以来の地侍的豪農としてその卓越した地位を誇っていた。加賀藩主前田利家や利常からの書状が保有されていることからもうかがわれる。鶴見氏を苗字とし、左門・長右衛門・長太夫などと名乗ったようだが代々助太夫と称した。大念寺新村を含む十六の村落を治めていた記録等が保存されている。同家が近世三百年を常に抜きんじた地位を保って生き続け明治後百年を経た今日もなお旧家としてその声望を保ち得ているのは基盤としての経済力ときわめて堅実な経営、特に家政の切盛りにあったといえる。<近世浦方資料から引用> 昭和30年代に雄谷家遺物と文献の調査・整理を実施したのが櫻井甚一氏であり、昭和36年には鹿町の文化財指定となりました。甚一氏は、石川県考古学協会の会長をされ、平成元年(1989)1月19日に亡くなっています。享年66歳ですから大正12年生まれ、石研協から追悼集が出されています。 甚一氏の父・甚平家は代々甚平を名乗り年代は不明ですが雄谷家初代の分家の善興家から分家したと善興家ご当主夫人(写真ご参照)から伺う事ができたそうです。戦後福野一帯で大火があり善興家も甚平家も被災したそうです。 当時の世襲制では長男が宮司を継ぐと次男・三男は農民になるしかなく盛んに養子があったと正範氏は述べられていますが善興家ご当主夫人によると権宮司家からの姻戚関係はなかったとおっしゃっていたそうです。 「雄谷家文書」に、安政2年(1855)には甚兵衛が年貢を完済した記録が残っています。甚平・甚一家との繋がりは不確証ですが、年代から錠二家直系とは思われません。寛保3年(1743)加賀藩士となった甚太夫(錠二家第6代)と福野村甚平の先祖は権宮司家、同族の可能性が極めて高いとの正範氏の見解です。 根拠その1 <錠二家先祖第五代甚兵衛の大念寺新村への移住>が全てのキーワードだと思います。 根拠その2 明治初年まで残った気多大社の大宮司家には、<近年の>貴家との家系上のつながりは確認できません。基生さんとも考えが一致しましたが、加賀騒動に連座して消えた「権大宮司」系統だと推定するほうに妥当性があります。 根拠その3 「権大宮司」の娘が『本郷屋敷の老女(奥の家老職)』に就任したのと、甚太夫の仕官が同時代であることは、二番目のキーワードです。 根拠その4 福野の櫻井甚兵家も、錠二家甚太夫も、共通するのが<馬の扱いに秀いでて、気多大社に関係すること>これが、第3のキーワードです。簡単ですが以上を総合して、福野の櫻井甚平家と、貴家のご先祖第五代甚兵衛様は、両者ともに、消えた権大宮司家のご出身だと、推定する根拠です。(櫻井正範氏記) |
昭和45年には甚平氏・甚一氏もご健在。甚一氏は大正12年生まれ。 甚平氏の年齢は不詳につき甚一氏の30歳年長とすると明治26年頃の生まれであろうか。 |
甚一家とは三代前の分家とか。福野甚兵衛家であろうか? |
雄谷家と善興家の旧墓地・カメの底に小さな穴を開け地中に埋葬ふたをするだけ。地上から上部がのぞいている。
善興家ご当主(ご養子)と夫人御歳90歳