気多大社の歴史と現況 2008/11/13

 石川県羽咋市に鎮座する気多大社は
大己尊命(オオナムチノミコト) (大国主命)を祀る神社である。
出雲から舟で能登に入り、人々を苦しめていた怪鳥や大蛇を退治し、港の建設や潟の開拓をはじめ、能登、旧羽咋郡辺りを統一した後に守護神として鎮まったとされる。奈良時代には、喜延式神名帳に能登一宮とされていて京にまで名が伝わっていた。

 戦国時代には焼き打ちなどで社殿や記録が焼失しているが、畠山氏・前田各領主から手厚い保護を受けていた。
 前田利家が織田信長から能登国を拝領すると戦乱で荒廃した能登の寺社修復、特に一宮気多神社には社領・社頭修理の寄進などの保護を行い深く関わりを持っていた。当時は神社とお寺の複合共同体で天平時代に賜った気太君と櫻井の複性を持つ八家の大床職をはじめ二十家もの社家と僧坊などの寺家とを合わせて約五十家が代々世襲し祭祀と寺社運営に当たっていた。基盤となる社領は神田・免田が一宮村、滝村を主体に、旧羽咋郡・鹿島郡内に広く散在し祭事などに供御する農民・漁民などが惣中組織の下で従事していた。

 慶応4年(1865)に神仏分離令が出され、明治新政府により世襲制も廃止しされた事により多くの寺家・社家が能登から離れていった。代って内務省から国選宮司が派遣されるようになり、規模も縮小された。その後着任した宮司も地元氏子や近隣の関係神社とも協力体制が続いていた。大正4年(1915)国幣大社に列せられている。

 第二次大戦後は神社本庁の被包括宗教法人となり、神社組織も更に縮小された。平和憲法が施行された戦後初代の宮司には、伝統を受け継いだ櫻井基俊宮司が選任された。基俊宮司が逝去され時、次の三井宮司が選任された際に交わされた『宮司の交代に関する覚書き』の不履行を発端に氏子や地元崇敬者との反目が10年以上続いていて裁判沙汰にもなっている。最近では『神社本庁からの離脱』や『神社庁から派遣された新宮司との引継ぎ拒絶』などで、『国指定重要文化財の神門や拝殿の荒廃』が補修されずに放置され、深刻な問題となっている。
 祭事に協力しなくなった氏子や地元崇敬者の代わりにインターネットを通して若い女性をターゲットに『縁結び』を売り物に神社本来の姿からかけ離れた神社運営に批判が増している。大型バスでやってくる観光客はこの異常な状況を恐らくは知らずに参拝しているのであろう。         

 我が家の先祖は天正の頃から約200年に亘り宮司をしていた記録が残されていた。このもめ事を何も知らずに伺った平成14年には参拝をやんわり拒絶されて以来、平生にお参りがためらわている状況が現在も続いている。当ホームページ掲載の『大宮司・権大宮司家の墓参』には大床職の家系だった櫻井正範さんから紹介された元・気多神社禰宜櫻井基生さん(現・羽咋神社宮司)のご案内で念願が叶った次第である。櫻井基生さんこそ正統な気多大社宮司を継ぐべき方である。

     
気多大社に、心安らかに参拝できるよう一日も早い解決を願って!


     今日の状況を如実に知ることが出来る地元のマツシマ天文台H/Pから

     http://www.nsknet.or.jp/~ice2/ 「気多神社掲示板」をご覧下さい。



参考資料・文献
「早く気多神社に春を」松島昌幸氏管理掲示板
「気多神社文献集」石川県図書協会・国幣大社気多神社(昭和15年)
「気多神社文書(一)」続群書類従完成会(昭和52年)
「気多神社文書(二)」続群書類従完成会(昭和55年)
「気多神社文書(三)」続群書類従完成会(昭和59年)
「旧神職由緒帳 羽咋郡分」加越能文庫(明治6年)
「渚の祈り」 櫻井正範著 私家本(1992年6月/非売品)
「気多祝の源流」櫻井正範著(2003年7月/個人書店)
「思い出の数々」九和会編(昭和15年/非売品)
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