加賀藩士喜多岡如兵衛の三女として生まれる
甚太郎の後妻となり房記・省三・錠ニが誕生する
夫病没後息子達の将来は教育、しかも洋学の重要性を見越し、親類の猛反対を押して上京する。本郷の加賀藩邸内の一小屋を無償借用の恩恵に浴し(*)困窮生活の中、三人の息子達は母の苦労に応えてそれぞれ東大に進む。房記は教育者(理学士)第五高等学校校長を長年務めた。省三は造船(工学士)、錠ニも理学士と、それぞれ分野は異なるが選ばれて西欧で勉学する機会を与えられた。母の先見の明に違わず「櫻井三兄弟」は日本の近代化に大いに貢献した。
晩年の八百は和歌を嗜み、西片町の房記家と省三家の間に隠居所を建て(*)漸く安楽を得た。苦楽を供にし、意思は疎通しているので自ら進んで「結婚した息子とは同居しない」という持論を実践する。(*)時勢を見る目と決断力に優れ、当時としては珍しく自立した女性であった。三人の息子が夫々活躍した背景には聡明で偉大な母があった。
明治28年12月1日永眠 享年67歳


染井の墓所には三兄弟の妻達からの献燈が母への思いを偲ばせる。
(*)櫻井房記自叙伝より(櫻井俊記氏編)
母 八百(明治16年頃撮影)
省三はフランス留学中の下宿先で料理を習得、後年「仏蘭西式料理の分析表」「フランス式料理の理論と応用」など執筆する。西片町の自宅では料理教室も開かれた。曙町の邸とよく似た雰囲気が当時の面影を残したまま現在の持ち主がフレンチレストラン”ル・リス・ダン・ラ・バレ”を営んでいた。(平成18年春閉店)
写真 岩村緑氏所蔵

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