年齢 | 和暦年 | 西暦 | 事 項 | リンク | |||||
数え年 | 安政 | 5 | 1858 | 8月18日 金沢馬場一番丁で加賀藩馬方御用 櫻井甚太郎・八百の六男として誕生 幼名・錠五郎 | 家系図 櫻井家ゆかりの気多大社 生誕地 古地図と加賀藩士時代 |
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6 | 文久 | 3 | 1863 | 父 甚太郎病没 享年四十八歳 | |||||
12 | 明治 | 2 | 1869 | 長兄房記(17歳)次兄省三(15歳)は藩費生、後には貢進生として東京へ遊学する | 櫻井錠二が受けた教育 恩師 三宅 秀 |
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13 | 3 | 1870 | 藩立英語学校「致遠館」へ入学する 七尾語学所で英語による教育を英人オズボーンから受ける |
オズボーン(畝源三郎氏Web) | |||||
14 | 4 | 1871 | 4月 母と徒歩で上京する 9月 大学南校へ入学する |
母 八百 | |||||
16 | 6 | 1873 | 校名が開成学校と改わる 専門部設立後は化学を専攻する | ||||||
19 | 9 | 1876 | 東京開成学校2年終了(後2年を残し)ロンドン大学へ国費留学する 途中米国フィラデルフィアで開催の「独立百年記念万国博覧会」を観る ウィリアムソン教授に化学を、物理をフォスター、ロッジ両教授に師事する |
留学前の家族(母八百・長兄房記・次兄省三と錠二 ウィリアムソン博士と我が学界 |
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20 | 10 | 1877 | 化学・物理合同試験で百数十人中第1位で金牌を授賞する(国立科学博物館所蔵) | ロンドン大学留学中の下宿先NOTTING HILL |
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21 | 11 | 1878 | 奨学金を二年間に千ポンド授与される | 21歳ロンドンで撮影の肖像写真 | |||||
東京化学会発足する | 櫻井錠二と東京化学会・歴代会長一覧 | ||||||||
22 | 12 | 1879 | 有機化合物に関する論文でロンドン科学会員に推挙される | ||||||
23 | 13 | 1880 | 留学中に英国人に親しみ易い「錠ニ」と改名する |
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24 | 14 | 1881 | 留学期間満了になり帰国する 9月 東京大学理科講師に任命される(年俸千二百円) |
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25 | 15 | 1882 | 8月 東京大学教授に就任する(年俸千五百円) | ||||||
12月 加賀藩士岡田 棣・節の二女三子(さんこ) と結婚する | 岡田 棣 略歴 | ||||||||
28 | 18 | 1885 | 羅馬字会に標準式ローマ字を提唱する | ||||||
29 | 19 | 1886 | 帝国大学と改称する。 数学科、星学科、物理学科、化学科、動物学科、植物学科、地質学科の7学科を置く。 |
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30 | 20 | 1887 | 東京女学館設立準備委員会「女子教育奨励会」の評議員になる | ||||||
31 | 21 | 1888 | 3月 東京化学会正会員に推挙される | 若き教授時代の肖像写真 | |||||
6月 理学博士の学位授与される | |||||||||
11月 東京女学館開校する | |||||||||
32 | 22 | 1889 | 帝国大学教授陣一覧表/(医)=13名/(理)=19名/(工)=13名/(法)=7名/(文)6名/総長=1名/本部=2名/図書=2名/計63名 | 理科大学物理学教室前にての集合写真 | |||||
35 数え年 |
明治 | 25 | 1892 | 溶液沸騰点の新側定法を考案する (日本人化学者による最初の世界的研究として注目される) ラムゼー著「化学理論の実験証明」の邦訳をする |
化学実験室にて | ||||
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