Ham Radio JA1LZ Homepage
私の家の本棚にずーっと前からあった古びた
黒表紙の本、「無線の研究」とあります。これは
「無線之研究」という雑誌の1925年9月号
(第4巻第3号)から翌1926年6月号
(第5巻第6号)までの合本です。
父が若い時買ったものでしょうか、うら表紙に
1927.4.20 H.Kimura のサインがありました。
発行所は東京市麹町区の無線之研究社、
伊藤永止氏が主幹です。各号50頁位で内容は
丁度1925年に東京、大阪、名古屋でラジオ放送が
始まったので、受信機の製作、放送の受信などの
記事が主で、広告には海外の受信機、部品に
ついてのものが目をひきます。
1926年にはぼつぼつ短波に関する記事、
海外のアマチュア局の受信レポートが出てきます。
当時日本ではまだ個人の電波発射は許可されて
なく受信のみでした。
このような時代に先駆して短波の研究に努力
された先輩諸氏に頭がさがります。
ここではこれ等のOMが書かれた記事をご紹介します。
短波長無線の話 神戸市 笠原 功一
我親愛なる読者諸君は、このごろ急に短波無線が
云々されだしたのにお気がつかれているだろう。
貧弱ながら私の経験をとりまぜて此事につき申し
あげよう。
短波長とはつまり一般の物に比して波長が短い
から出来た名で、何米以下と限定されたものでない。
どなただったか某雑誌に100mを限界にする様に
話されていたが先良い分け方と思う。まあ2桁を
短波長、1桁以下を超短波長と云えばよいだろう。
所で未だ私は1桁の波長には手がとどかないので
お話出来ないが、2桁の方について少し述べる。
一般に2桁の短波を80m帯、40m帯、20m帯と
分けている。勿論大凡の分け方だが、今もし37mの
発信機を所持する時には其人の受信機は40m
前後から30m程迄受けられるものを要する。37mの
放送には80m帯や20m帯の受信は来ないのである。
さて世界の文明国中、日本以外の国は皆常識的な
限界をつけて、いわゆるアマチューアを養っている。
アマチュアを訳せば素人となる。しかし本職以上で
ある。只職業ならざる所に身上がある。
米国ではこのごろ80m帯で電話をやることを許したとか聞いたが、とも角一般に電信全盛時代である。だから昨年来東京J1PPの電話は全世界のアマチュアに非常なショックを与えたのだった。私は其当時何時も太平洋を越えてオーストラリヤと北米、南米のアマチュア達がJ1PPのうわさ話を盛んにやっているのをきいた。
今凡そ42mから30mくらい迄の電波をとらえ得る(再生式低周波増幅1段附)受信機を
組立て聴くとしよう。2段増幅はほとんど不必要である。
アメリカの40m帯の局は42mからあるのだが、42m附近は少ないのか聞こえないのか兎に角
甚だ少ない。40mという波長は数がキッチリしているせいか、或時私は3つの局が同時に丁度
40mで混信し合っているのを聞いたことがある。此内の一つは我国最古の短波送信所J1AA
岩槻局であった。同局は目下も春洋丸相手の定期試験送信に、又或時はアマチュアのお仲間
入りをして、遠く日本の名をとどろかせている。波長は40m丁度であるが私共の所では近いせい
か可成ブロードにきこえる。この辺の波長から次第に下げていくとハワイの局が先強く耳に入る
だろう。次で北米合衆国のシグナルが聞こえる。私共が夕方から夜にかけて聞き得るものには、
南米諸国、オーストラリア、ニュージランド及近くはフィリッピン、印度支那等々中々
沢山ある。ダイアルをだんだん廻して33mくらいに来ると急に信号の数が減ってくる。即我々は
今40mバンドを一順探したわけである。受信機のバリコンにもよるが大凡1mの波長変更は
ダイアルの5度から10度位である。だから40mの下には39.5mの送信が行われ得るわけである。
僅か7m位の範囲に十数の局が活動しているのがこれでお解かりと思う。
短波長のシグナルは怪物である。ほとんど信ぜられない程の電力で思切った遠方に達する。
私の知っている範囲でも単に201Aバルブ1個で3000kmの送信に成功したもの、5Wで6000km
と云ったようなのがザラにある。J1PP 1基の送信は18000kmのアルゼンチンでR8と応答して
いる。所が其応答がR6で日本できこえている。其時彼の送信機は50Wの球を用いていた。
何と云う素晴らしい「談話」であろう。しかしてアルゼンチン以上に遠い地点は地球上には
ない。即完全に地球をカバーした様に見える。世界中どこでも同時にきこえたか?これが問題で
ある。大阪放送局の放送が京都できこえない。否ききにくい。そんなケチな問題ではない。
ハワイできこえたか、ドイツではどうであったか、と云う程度である。現におひざ元の当地で
さえ或時は大変聞こえにくくなったのだった。この問題を解決するためには全世界の
アマチュアは協力して事に当たるだろう。只日本だけは例外!何と淋しい事だろう。否私は
国辱だとさえ考えている。アメリカの素人無線雑誌QSTにはJ1AAとJ1PPの写真が出たーー
しかも日本の素人なる標題は遂に今以って出現しない。我国のアマチュアは眠れるか?
否眠らされているのか? 私は短波長以上の奇怪事だと思う。 (1926年5月号)
短波長に就きてのことども ツエー・モル生
第2次大戦後アマチュア無線が再開されましたが、それより僅か30年前にいろいろな
制約や困難のなかで先人達がパイオニア精神を発揮して短波の研究に挑戦した事が
今日の隆盛につながったと感じます。
1926年(大正15年)6月、日本アマチュア無線連盟が設立されたが、このあたり
わが国の短波事情は・・・
*1925年4月逓信省岩槻無線局(J1AA)、80m CWでU6RW(アメリカ)と交信、日本と
外国と 最初の短波通信
*1925年12月 逓信官吏練習所(J1PP)、35m(8.6MHz) A3でサイゴン、ブラジル、
北米と交信成功 (CQ出版社 アマチュア無線の歴史より)
またその頃東京のJ1TS仙波氏、関西のJ3WW 谷川氏、その他赤字の局のシグナルが
広くワッチされていたのも興味深いですね。
私は小学4年から中学1年まで当時の岩槻町に住んで居りましたラジオ少年ですが、
J1AA局が何処に在ったのか興味がわきます。
この時代0-V-1程度の受信機で内外のアマチュア局の微弱なシグナルをワッチ出来た
のも驚きです。この時期は太陽活動の具合で伝播状態が良かったのでしょうか。
JA1KKB笠原氏よりお父上のJ3AA OTのアルバムからHistorical photo series
として
作成されたQSLカードを頂きましたのでご紹介いたしました。
読者の頁(1926年4月号)
短波長受信記録
@Calls Heard, Feb. 1926 40M Band, Koichi Kasahara, 880 Tennoji cho, Osaka, Japan
U 6akx, 6bpg, 6cgw, 6dag, 6hm, 6ji, 6od
A 2ar, 2cg, 2ds, 2tm, 2yi, 3ad, 3ap, 3bi, 3ef, 3kb, 3wm, 4an, 4rb, 5ay,
5hr., 6ag
Z Iax, Ifn, Ifq, Iio, 2ac, 2ae, 4ac, 4ai, 4as
pi Iau, Icw, IdI, Ihr, 3aa
Hu 6aff, 6buc, 6clj, 6dbi, 6def, fxi
Bz Iib
R bai
M Iaa
Fe 8zw
ACalls Heard (Feb. 14......Mar. 9) 40m Band 原宿 宮崎 清俊
受信空中線 H13m, L15m, 受信機 0-V-1 (Capacity Peedb)
(A) 3KB, 3HS, 3QQ, 3HL, 2BK
(HV) 6VF, WCY
(J) JOAK(7one) 京城逓信局(7one) JHBB J1AA J3WW J1TS JSH JKK JOC
(PI) 3AA 1AV
(V) 2KV 6JS 6XI 6TT 6BON 6CT 6IIM 6BIL 6DAH 6ZR 6LA
U.S. Nacal NKF NPV KET CEVT
J3WW、 J1TS君 貴局の送信機の詳細 お知らせください。
3/3 7:15pm JOC 落合 R9
3/4 6:50pm J1AA 岩槻 R9
3/5 7:00pm 6VF ハワイ R5
3/5 7:55pm KET R4
3/5 8:00pm ANF R6
3/5 8:15pm 6XI ポリナス R5
3/7 6:25pm WCY ハワイ R5
3/7 7:00pm 3HL オーストラリア R4
3/7 8:20pm 6BIL 米国 R4
3/7 9:15pm 2BK オーストラリア R4
B神戸 山口 慶吉
受信機 ハートレートサーキット 低周波1段 受信空中線 高さ 40尺 斜全長
50尺
共に僕が聞いた日本の局名中ことに強く入ったものです。 QRAのわからぬこと多し。
J3AA R9 未知の電信のみ、J3AZ R9、 J8AA R9、 JOC 落合 R9、 J1TS R7、
J1AA 岩槻 R8、 J3WW R9、 J3QQ R?、 J1RP 東京 R9 電話電信、J1KK R9
JARL 日本アマチュア無線連盟設立の頃
この状況については、福島 雄一(JA8BO/JA1BZM)著「にっぽん無線通信史」(朱鳥社
発行)の第2章大正編 短波とアマチュア無線の項中に書かれているのでご紹介いたします。
さて、先駆者達の当時の状況を眺めてみよう。まず関西では、梶井謙一(大阪市此花区・
当時のコールJAZZ)と笠原功一(神戸市・当時のコールJFMT)ーこれらのコールは勿論
自分でつけたもの一が、両者の自宅間20kmを波長300m(これは中波)で、送受信に成功
していた。大正14年の秋ごろのことである。梶井は、住友電線に勤める若い技術者、
一方の笠原は関西学院高等部の学生で、2人は同年の春、「ラジオ好きの少年がいる」
との話を会社で聞いた梶井が、笠原を訪問する形で知り合うことになった。最初は相互
通信でなく、笠原側から送信したものを梶井が受け、その報告を翌日に電話で行うという
形だったが、やがて相互通信と短波帯への移行も済ませ、2人は翌年の春、北海道・
落石局との交信を行った。(落石は業務用であるが、この開拓期にはプロ・アマ間の
交信も内外でおこなわれた)
一方、このころ関東でも同好者が相互間で交信を始めていたが、その周波数は40m
付近、これに対し、当時の関西側は38m付近と異なっていたので、互いにその存在に
気付くことがなかった。大正15年の春、東京の仙波(1TS・当時東京帝国大学の学生)
が、たまたま少し短い波長を聴いたところ、関西の3WW(神戸の谷川譲)の信号を
キャッチして、ここに関東・関西の交信が実現したのであった。その日付は、3月5日と
されている。
ここに東西の交流が始まり、同時に交信の対象もフィリッピンあたりから、北米、オースト
ラリア、ニュージーランド、さらに南米、南アフリカと順調に進んでいった。そして4月に
上京した関西側の草間貫吉、梶井謙一、笠原功一の3名は、関東側の仙波猛、磯英治、
宮崎清俊と会談、日本におけるアマチュア無線団体の結成を計ることにし、早速準備に
とりかかる。名称をどうするかなど、若干の検討点は出たものの、作業は順調に運び、
設立宣言文が6月12日の夜、各メンバーの送信機から、世界に向けて打電された。
その内容は、次のような英文である。
We have the honor of informing that We amateurs in Japan have organized
today
the Japanese Amateur Radio League. QST to all stations.
(QSTは「通告」の意のアマチュア用語)
この電文は、受信した局から更に転送されて、世界中に伝えられていった。当初のメンバ
ーは37名、東京・大阪地区が大半を占め、他地域では名古屋ほかが2名のみであった。
これが、今日世界一の局数に達した我が国のアマチュア無線と、その中で活動を続けて
いる日本アマチュア無線連盟(略称JARL、昭和34年に社団法人化)の出発点となった
のである。しかし、ここに新たな、かつ重大な問題が生じてきた。それは、先のメンバー
達も気付いていたのであるが、日本にはまだアマチュア局を対象にした規定はなく、
逆に言えばこれらの局は、すでに無免許での運用だったからである。
また、ラジオ放送開始の項では放送聴取は許可制で東京では許可番号第1号には
皇族の伏見宮家、聴取料は月額2円その後減額されて1円になった。
当時の受信機は鉱石式が最も多く10円程度、真空管式は東京電気のUV199を2本使用
したものが約90円、電池を加えると120円、当時の大卒の初任給50〜60円に比べて
かなり高価であった。外国品では5〜6球式で4〜500円、8球スーパーでは約1000円
などの記載も見られる。
アマチュア無線50年を記念して発行された
50円切手
発行日 昭和52年9月24日、意匠は昭和初期の
ホーン型スピーカーと電鍵を描き電波を配す
原画作成者 山野内 孝夫、発行枚数 30,000,000枚
JA1KKB局のQSLカード
写真はJ3WW 谷川 譲氏のシャック
米国のアマチュア局 2AGW (右の写真)
5ワット40メーターで全合衆国に聞える。
送信機は天井裏にとりつけられ、コンデンサー
はアンテナリードにぶらさがっている。
然し受信機は下にある。 (1926年5月号)
2AGWとARRLのキーワードで検索すると・・・・
Howard W. Wolfe was first licensed in Brooklyn, NY as 2AGW in 1926
His first DX QSO....
と出てきました。どうも後のW2AGWで有名なDXerの様です。
*One of the founders of the New Jersey DX Association *Atop the DXCC Honor
Roll for many years* "Last Man Standing" at the South West Ohio
DX Association's DX Dinner in Dayton every year
VT. トランスミッター
この送信機は電話でもICWの
電信でも何でも送信できる。
5ワット球を用い、プレート
回路に300ボルト掛け、
ICWで200哩聞えた。
電話ではアンテナ電流は
0・4アンペアで18哩聞えた。
コイルは16番線を55回巻き、
一方から5回宛(S2)他方から
3回宛(S1)タップを10個作る。
3回毎のタップがプレート
回路のタップである。
(1925年10月号)
この受信機は30mから70m位迄を
とることが出来る様に設計した。
材料
1. VC 9枚物 0.0002MFD
2. VC 11〃 0.00025MFD
3. コイル BS#16 15尺で直径
4吋で16T アンテナコイルは2T
4. チョークコイル
ハネカム100回巻
5. レオスタット 20 ohm
6. グリットリーク 2-9 meg
7. グリットコンデンサー
0.00015-0.00025MFD
使用
これに用いるアンテナはどんな
ものでもかまいません。とにかく
オスシレートしさえすれば入ります。
この前の平磯の試験の時などは
アンテナを外してもガン
ガンラッパがなりました。
何時聞いて見ても五つ以上
十位の大小の電信が入ります。
短波長受信機を作るには 坂本 新
JA1KKB局のQSLカード
写真はJ3AA 笠原功一氏のシャック
(JARL NEWS 2016年春号より)
W1AW/KL7 ARRL Centennial Station -June 18-24, 2014 Alaska Week 1- KL7RA, Organizer - 31,944 QSOs