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多文化共生教育資料
日本に来てからのこと
6年  (ブラジル)
 僕の家族は、僕が一歳のときにブラジルから日本に来ました。今から十一年前のことです。  
 僕が保育園に通っていた頃、お父さんは昼勤と夜勤で、お母さんは朝の七時ごろに仕事に行き、夕飯を支度するころに帰ってきました。だから、僕を保育園に通わせてくれたのは、その時小学生だったお兄ちゃんでした。時々、お母さんが迎えにきてくれたけど、ほとんどはお兄ちゃんでした。
 お母さんは、仕事から帰ってくると、夜ご飯の支度をしたり、洗濯をしたりしていました。お父さんは、昼勤のときは、家に帰ってからいつもお母さんの手伝いをしていました。お父さんは、夜勤の時は次の日に帰ってきたので、昼間は家で寝ていました。  
 お母さんは僕が保育園に通っていた時、がんで病院へ入院しました。その時、お父さんは、昼勤の時はいつも帰りにお母さんの所へ看病に行っていました。ぼくたちは土曜日と日曜日にお母さんの所へ見舞いに行っていました。だから、家で料理を作る時間が無かったので、夕ご飯はいつも弁当を買って食べていました。
 お母さんが入院をしていたので、小学校の入学式に来てくれたのはお父さんでした。しばらくすると、お母さんは退院してもいいと言われて、家に戻ってきました。でも、次の日に体調を崩して、再び入院することになりました。その頃は、お父さんが毎日病院で泊まっていたので、僕たち兄弟は、病院とおじさんの家に交互で泊まっていました。それで、病院に泊まっていた日、僕が朝早く起きたらお母さんが、僕の起きた十分ぐらい後亡くなりました。その時、通訳の人をお父さんは呼びました。それで、お母さんが亡くなったと通訳の人にポルトガル語で言いました。その時、ぼくは何か知らなかったのでお父さんに聞きました。その後、お兄ちゃんは着きました。僕が、一年生の冬のときでした。
 お母さんが亡くなった後、お母さんがしていた洗濯やご飯の支度はお父さんがするようになりました。家の掃除は、僕たち兄弟がするようになりました。米を洗い炊く仕事は僕の仕事になりました。お兄ちゃんの手伝いなどもしていました。ときどき、お父さんは仕事場からお土産をもらったりしてきました。たくさんの人たちからお土産をいただいたそうです。
 お母さんが亡くなってから、もうすぐ五年になります。お父さんは、会社の人数削減のために、一度仕事をクビになりました。この一学期のことです。しばらくは仕事が見つからなかったのですが、リフトを運転する免許を持っていたので再就職することができました。前とは違う内容の仕事だそうです。残念ながら給料は下がってしまいました。
 お兄ちゃんには彼女ができ、子どももできました。子どもはもうすぐ一歳です。二人は、本やパソコン、電話や仕事場へ直接行くなど、いろいろな事をして仕事を探しています。だけど、まだ見つかっていません。だから、家に一緒にいます。早く仕事が見つかって欲しいと思っています。
 ご飯の支度は、お父さんが続けています。とても忙しそうです。お兄ちゃんには喘息があります。薬が必要なのでお父さんにたのんでいます。お兄ちゃんの喘息がよくなって欲しいです。
 ぼくは、一歳の時に日本に来たので、ブラジルのことは何も覚えていません。ブラジルに住んでいる親戚やいとこ、おじいちゃんやおばあちゃんには、写真で見たり電話やパソコンで話したりしたことしかありません。将来、お父さんは、ブラジルに住みたいと言っています。ぼくは、日本で働いてお金を貯めて、一度ブラジルへ帰ってみたいです。お父さんと一緒にブラジルのことをくわしく知りたいです。そして、またお金を貯めてブラジルに戻りたいです。お金をいっぱい貯めてお父さんを手伝って生きたいです。ブラジルにもお金を送りたいです。