昔話 by 神保雅人


CERNへの派遣 (2008/09/13)

 1991年の夏に,当時の南建屋グループの代表者である清水韶光先生により, ジュネーブの素粒子物理学の研究所 CERN(現地音:セルン)へ 3週間に渡って, 文部省の科学研究費補助金で派遣していただきました。

 これに続くロシア・グルジアへの2週間に渡る出張(この話題は当分の間 お預けです)と合わせて合計5週間の出張申請を認めていただくために提出した 藤田学園総長宛ての伺い書の決済が降りた直後,村田学園から藤田学園宛てに 私の移籍に関する割愛願いが届くなど,この年は個人的に何かと慌ただしい年 となりました。

 この当時は,電子メールと言えば,BITNETという一部の大学と研究所を 繋いだ汎用機のネットワーク上で使えるものくらいでしたが,先ずはCERNの John Ellis先生にメールで手紙を送って,滞在許可をいただき,その返信を 貼り付けて宿舎(Hostel)の予約もメールで申し込んだところ,直ぐにOKを もらい,仲間内からは「賢いやり方だ」と言われたものです。今では当たり前 の手法だと思いますが。因みに,夏場のCERNにはヨーロッパ中の学生が集まる ので,既に職に就いていて,其処に居つくことはなく,宿舎費の支払いも問題ない ということが証明できないと,宿舎の予約も認めてもらえないと経験者に言われた ため,このような措置を取りました。

 CERNに滞在していた3週間のうち2週間はInternational Lepton-Photon Symposium という国際会議とEurophysics Conference on High Energy Physicsというヨーロッパ 全体の高エネルギー物理学の会議とがジュネーブで合同開催されていましたので,この 会議にも参加しました。これには日本人の物理屋も多数参加されていましたので, 1日のセッションが終わると,一緒に食事に行ったり,会議のsocial programmeとして 用意されていた国際連盟の本部跡の見学に行ったりしました。また,現在LHCに再利用 されているトンネルも当時の電子・陽電子衝突型加速器LEPのために掘られたものですが, 会議のsocial programmeの中には,LEPの実験サイトの一つであるALEPHの見学があり, コントロールルームにはシフトの際に飲んだと思われるワインの空瓶が多数飾られて いるのを目撃しました。

 会議以外の期間は,南建屋グループの駐在員として,セミナーを聴いたり,最新の論文を 読んだりして,最新情報が得られたと思うときは日本向けにメールを送っていました。 また,グルジア行きではトビリシ大学のセミナーで話すことになっていましたので, その準備もしました。ある晩,図書館の端末から汎用機に繋いで文献検索をしていると, 女子学生が近づいてきて,「それはどうやって使うのか」と訊くので,検索したいものは 何か尋ねると,「シューパーシュトリンゲ」と答えたので,頭をひねりましたが, superstringのことだと合点し,この単語を使って利用法を教えました。どこの国の人かは 尋ねませんでしたが,我々日本人も英語の発音にばかりとらわれなくてもよいのではないか と思いました。

 宿舎にはクーラーはなく,シャワーはあってもバスタブはなく,暑い夏でしたが, 外に出て木陰に入れば何とか過ごせるのが,蒸し暑い東京や名古屋とは違うところです。 食堂には昼食時からビールやグラスワインが置いてありました。一週間分のメニューも 貼ってあって,日本から持参したフランス料理の名前をフランス語で表記している書籍 で調べることができました。もっとも,コピー機のガイドコメントもフランス語表記だっ たりするので,市街地に出たときに書店でラルースの仏英辞典のポケット版を購入しました。 ジュネーブではバスにもクーラーはついていませんが,次の停留所の名前を録音された 音声で告げてもらえるので,文字と見比べて実践的な発音の勉強が出来ました。(今では すっかり忘れていますが)

 或る日,食堂に向かうとウイーン大学理論物理学研究所のA. Bartl先生がドイツ人の物理屋 仲間と歩いてこられ,私を見つけ,「一緒に飲み食いしよう」と仰るので,付き合いましたが, 途中から彼らの間で延々ドイツ語会話が始まり,専門用語の一部は聞き取れて,B-Physics の話しをしていることは分かりましたが,私が退屈そうな顔をしていると見て,そのうちの 一人が「今の話は分かるか」というので,「大学生の頃,第2外国語で僅かに勉強しただけ なのでドイツ語は幾つかの文が思い浮かぶだけです。"Heute ist warm. Ich bin müde."」 と言ったら,大うけでした。恐らく,本当はよく分かっているくせに冗談を言っていると 思われたのでしょう。なお,文法的には"Es ist warm heute."が正しいのでしょうが,教科書で 昔見かけたと記憶していた表現を用いました。

 因みに,南建屋グループの宗久知男氏が日本物理学会の世話人をされていた関係で Bartl先生に日本物理学会での講演を依頼され,それに関連して,Bartl先生より,この前年に KEKで私が行ったレビュートークのOHPシートのコピーを請求されました。これを送付し,前年末に ウイーン大学理論物理学研究所を訪ねた折には,地元民でないと行けないようなレストランに連れて 行ってもらって,とても美味しいウイナーシュニッツェルをご馳走になりました。Bartl先生が春先に 来日された折には,私はロシアのD.V. Shirkov先生に掛かりっきりで,学会会場でもKEKでもゆっくり 話すことが出来ず,偶々Bartl先生のKEKから東京駅に向かう日程が,私のものと一致しましたので, 約束していた返礼のお鮨屋でのご馳走は東京駅に着いてからという有様でした。その夏に偶然CERNで 再会した次第です。

 CERNに滞在していた期間中,平日は食事やトイレ休憩,シャワーを浴びるといった時間以外, 起きている十数時間の間どっぷりと研究に浸っていましたので,休日には僅かに休息をとることにし, 親に頼まれた時計博物館を見学に行き,フラッシュを焚かなければ撮影してもよいと言われて, 展示物を一通り写真に収めました。また,母親に頼まれたルイヴィトンのバッグを買いに直営店に 行ったこともありました。其処には日本人スタッフもいました。お土産用には『世界にチョコレート 送ります』と日本語で外壁に書かれていた店に入り,チョコレートを買って,親許に送って保管して もらおうとしましたが,店員はフランス語しか話せず,日本語はともかくせめて英語の片言くらいは 話せないものかと思いました。それでもこちらは買いたい,向こうは売りたいということで方向は 一致していましたので,品物と宛先を渡して航空便で送ってもらおうとしたら,相手に異論があるようで, フランス語は分かりませんでしたが,何故か品物の代金より航空便代の方が高いと言っているのが 伝わってきました。当時,SALの存在を知りませんでしたが,こちらにすれば安いと言っているのが 伝わってきましたので,お任せして,事なきを得ました。

 CERNと市街地の中間にあるホームセンターにも買い物に行きましたが,ティモテのシャンプーや トワイニングスの紅茶は輸入品で,なおかつ十数パーセントの消費税が内税で掛かっているのにも拘らず, 日本より価格が安く,流通経路の違いが出ているなと実感しました。もっとも,数年後にローザンヌの会議に 参加した折には,ホテルの一階にマクドナルドがあり,ビッグマックが日本のものよりもやや大きかった とはいえ,セットで900円くらいの価格でしたので,ものによるのかもしれません。

 CERNのような国際的な大型の研究所になると,オフィスに連絡すればタクシーも24時間 いつでも呼び出せます。帰りは飛行機の都合で明け方の出発となりましたが,タクシーを手配して もらったら,大きなメルセデスベンツのタクシーが来て,後ろでゆったりと座り,『とても日本では 味わえないな』と思いながら運転手との会話に付き合いました。

 後から知ったことですが,この当時,直ぐ近くでTim Berners-Lee氏がWWWを提唱していたの ですね。当時の私は素粒子物理学プロパーの文献のみ検索し,参加したセミナーも理論のもののみ でしたので,このような事態に気付きませんでした。


ウルトラマン研究序説 (2005/06/01)

 忘れもしない,1991年の夏のことでした。当時,私は藤田保健衛生大学の衛生学部 診療放射線技術学科の教員をしていましたが,クーデター騒ぎが終息したばかりのロシ アから辛うじて帰国し(この話題もP大統領が引退したら,自ら撮影した生写真付きで 書きます),親許で休息してくつろいでいました。

 そこに現れたのが,学部の同級生Y君。「こういう原稿を書いたんだけど,神保君 の名前で出してもいいかな?」と言うので,原稿を読むとその荒唐無稽さに思わず唸っ てしまいました。「これが出たら,今後,物理学会で発表するときに,神保というだけ でクレイジーセッション(SFちっくな発表の塊)に入れられてしまうから嫌だよ。」 と答えると,すかさず「それなら神保君が書いてよ。」とカウンターを食らいました。

 親友の頼みを無碍には断れない性格は親譲りなので,つい引き受けてしまいまし た。ただ,余りにも身長に比べて体重が重すぎる設定と,それを説明するために超対称 性粒子や超弦理論を使って,ウルトラマンの変身のメカニズムについて「理論物理学的 考察」を加えてくれという注文に納得がいかなかったのですが,休みの取れない学校に すぐ戻らなければならなかったので,一晩で原稿を書き上げました。

 結局,原稿の最後に,元々の身長と体重との比に関する設定の方がおかしいと言 いたくて,身長は見た目で見当がつくので,「物理屋は測定を重視する。だが,誰かが ウルトラマンの体重を量ったと云う話は聴いたことがない」というような表現を用いま した。「この体重では道路にめり込む」とか「空も飛べるのだから常に浮いているのだ ろう」などと云う部分はどうでもいい付け足しです。出版されたとき,「物理屋」を 「物理学者」に著者に相談もなく変えられたのはニュアンスが伝わらず,残念でした。

 この書籍全体は,表題から外れて「科学特捜隊」の組織論や装備に関する真面目な 考察が中心で,他大学では経営学の教科書に指定されたりしていましたが,私の担当部 分はどちらかと言うと「色物」でした。ただ,私の原稿に付けた現代物理学用語解説に 関しては,時間を掛けて真面目に書きましたので,後輩のA君(私に帝都物語の面白さ を教えてくれた人物)が,彼の勤務先の作新学院大学で授業に利用してくれました。

 当時の反響はと言えば,先ず,出版直前に週刊Pの記者から電話を貰い,「電話 口でアンタの書いた部分を要約して貰えるかな?」と言われました。丁度,卒研生の 面倒を見ている時でしたので,「現物を手に入れて要約をするのがプロの仕事ではない でしょうか」と答えてしまいましたが,今から考えると勿体無いことをしました。

 次に,現在勤務中の東京経営短期大学に移籍したての頃,学校名を売り込むため に,良く幕張のコンピュータ関係の展示会に出向きましたが,COBOLのパッケージをい ただいて評価記事を書いたライフボートのブースに挨拶に行ったところ,「神保先生っ てあのウルトラマン研究序説を書かれた方ですよね」と言われました。さすがに40万部 売れた本は100万人が読んでいるって本当なんだなと思いました。

 特に,東京経営短期大学が設立されて2年目の平成5年度には,学校のパンフレッ トに情報系学生の一日と云う箇所で私の授業を受けている学生の語る「神保先生はウル トラマン研究序説の著者の一人で...」なる文章が載りました。初年度より図書館に も寄贈はしてありましたが,学校中が盛り上がっていて,「著者略歴を早く改訂して欲 しい」と言われました。

 著者略歴の改訂は文庫化された折に漸く実現しましたが,その時点ではブームは 過ぎ去り,謝礼も文庫が一冊送られてきただけでした。文庫を自腹で10冊以上購入して ,知人に配ったほか,他県に出張の折には古本屋によって単行本も何冊か購入して配り ました。以前はこの書籍のことを仲間に話題にされるのが恥ずかしかったのですが,も うはるか昔の出来事のようです。


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