昔の乗り鉄の記録

家の中をガサ入れしていたら、1冊のノートを発掘しました。私にしては珍しく、当時(高校生の時)の乗り鉄した記録がノートに記されていたので紹介します。タダ漠然と当時の電車や列車に乗った、実につまらない記録です。しかし当時を思い起こすと夜行列車の連泊に次ぐ連泊、今思えばよくこんなことが出来たなと思ってしまう。マメに列車の編成なんかも書き記されていた、現在だと絶対にこんなことやることはあり得ません、だってぐうたらでずぼらですから私は…。  2006年4月12日

        
九州周遊券の旅

当日の阿蘇・くにさきの編成
EF651130 阿蘇号マニ37207-スハフ1433-オハ14114-オハ14115-オハ14116-オハ14117-オハフ1530くにさき号スハフ1448-オハ14133-オハ14129-オハ14134-オハフ1542
EF3014 下関〜門司 阿蘇号熊本行6両                                   大分行 5両
ED7630 門司〜熊本 
       



昭和56年8月16日、アルバイト先へ給料を取りに行く。乗り鉄の資金ですな(笑)
従ってバイト先に近い湊町(現JR難波)から出発となった。周遊券の入鋏が湊町になったと言うことですわ。関西線の101系(お〜、当時101系やったんやな)で、新今宮まで行き、環状線内回りで大阪駅まで行き東海道線の国電(完全に死語)で新大阪へ行く。新大阪駅にについてから、急行阿蘇・くにさきが来るまで1時間くらいあるので幕の内弁当を買って食べてた。201レ阿蘇に乗車新大阪駅をゆっくり出発した。約5分で大阪駅に着き20分停車(当時は荷物や郵便物の積み込みがあったから停車時間が長い)環状線ホームまで缶ジュースを買いに行った。大阪駅を定刻通りに発車、デッキで録音(今で言う録り鉄)するが便所を往来する人間が多いのであきらめた。車内改札は、西明石〜加古川間で来た。
姫路でN田くんの隣にへんなオッサンが着席、オッサンは結局岡山で降りた。N田くんうれしそうに椅子を占領していた。岡山から寝た、広島で目が覚めた。外にはたくさんの乗客が並んでいた、車掌が申し訳ありませんが立っているひとに座席をお譲りくださいといって入ってきた。それで隣の席に立っていた人が座った。
小郡に到着、外に出たら鉄道公安官がうろうろしていた。小郡を出発してから少し寝たようだ。下関に到着して乗客が少し降りた。が乗ってくる乗客はもっと多かった、下関から立ち席の乗客も出た。小倉で外が明るくなった、ここでくにさき号は切り離し、くにさきは大分に向かって行った。日付はすでに8月17日になっている。
博多辺りから通勤客が乗ってきた。正直混んでいる車内は不快です。鳥栖辺りで少し車内が空いた。車内が空いてだいぶ快適になったのは言うまでもない。熊本に8時55分定刻通り到着した。



熊本で5分の接続で9:00発の929Dに乗って八代へ向かう、前の方で車内改札をやっていたが来る前に、八代に到着。八代から肥薩線の普通823レ人吉行に乗車、9:45分発車、車窓から球磨川が見えてきた。川の幅が広いと感じた。到着する駅、到着する駅が無人駅だった。乗客は10人くらい約1時間半で人吉に到着。
人吉で博多行の特急おおよどが来るので写真を撮った。

ガキ鉄写真でも紹介していますが、おおよど号 昭和55年8月17日 人吉駅

人吉で2時間ほど待った、次に乗る853レ吉松行がホームにすでに待機していた。

823レ吉松行編成
DD511030-DD511028-オハフ33475 引っ張る編成軽いのに重連ですわ。
人吉13:17分発、1両の客車の中に乗客は5人ほど、列車は山の方に向かって走っていき大畑に到着、1名ファンらしき人(今で言うヲタ)が降りて行った。大畑のループ線はものすごく景色がよかったです。
      
大畑駅 昭和55年8月17日                               大畑ループを行く853レ DD51 1130 DD51 1028 オハフ33 475

途中駅は少ないが吉松まで1時間以上かかった。吉松に定刻通り14:35分到着、駅のスタンプをおす。また1時間程度駅で待つ次に乗るのは快速やたけ、サボには方向板のまんなかにやたけと表記してあった。

快速やたけ サボ 昭和55年8月17日
1839D快速やたけ編成 ←西鹿児島キハ581006-キハ282025

吉松15:46分発やたけ発車、途中で満席になる、車内は九州弁というのか鹿児島弁というのかがとびっかっていて、何をしゃべっているのかわからない海外だわここは、こんな状態で西鹿児島(現鹿児島中央)に到着16:38分着。
西鹿児島ですぐに16:42分発749D指宿枕崎線に乗車、枕崎まで行けなかったのは残念だった(何でいけなかったのか謎)749Dは高校生満載で少々鬱陶しかった。(当時は私も高校生なのだが)終点山川まで行く、折り返し西鹿児島行になるのだが19:00発の756Dに乗った、雨がよく降っていた。車内は私とN田くんを含めても3人しか乗っていない。下り列車が少々遅れて、こちらに影響した5分遅れ、なんだかんだしている間にガラガラのまんま西鹿児島に到着。今晩の宿、もうかいもん6号が西鹿児島のホームにとまっていた。もう席が満席状態もう、今夜は寝られないなと思っていたら、かいもん52号8110M臨時急行電車の博多行が運転日でした。車内は空いていたのでよく寝られました。ただ、クモハに乗ったのでタイホンをよく鳴らしていてちょくちょく目が覚めましたが。

かいもん52号編成 ←博多クモハ47530-モハ47430-サロ4554←クモハ4578-モハ4568-クハ45528
かいもん6号編成←小倉ED7661-ナハネフ221008-ナハネ20124-スハフ1213-オハフ1321-オハ1259オハ12212-スハフ1261-マニ502023

昭和55年8月18日 かいもん52号が、博多に到着する前に大きな音で鉄道唱歌のオルゴールが流れた。博多到着を告げる車内放送であった。この放送でほとんどの乗客が飛び起きた感じでした。博多に到着して、最初に乗る予定だった、かいもん6号が接続、西鹿児島で見たときより、空いていた。だが、博多〜折尾間は立っていた。門司で13分停車なのでホームに出て立ち食いうどんを買って、車内に持ち込んで食べた。門司港には7:24分定刻の到着。そこでチャレンジ20000キロ(昔こんなのあったな〜)をやっている人に写真を撮ってくれと頼まれた。起点駅で自分を駅名表と写真にいれて証明するてやつね、撮影してからどこから来たのか訪ねたら、静岡から来たそうです。清水駅発行の九州ワイド周遊券を見せてもらった。それから改札を出て、駅のスタンプを押し、527Mで小倉へ向かった。小倉で少し時間があるので駅の周りを一周した。
8:41分発5504Mゆのか4号に乗車。少し混んではいたが、クロスシートを一人で占領出来ました。折尾〜博多間で車内改札、ガラーとデッキのドアが開いた瞬間に乗車券・急行券拝見しますて感じでした。半分寝ていたので起こされてしまった。パンチは入れてなかった。博多9:49分定刻通りの到着。今度は出島3号に乗って長崎まで行く予定だったが、臨時の出島53号に乗車、12系だった。長崎本線、肥前山口まで風景は田んぼだらけだった。肥前山口を過ぎてから有明海が望めた大変いい景色になった。長崎に到着するまで海の見られる景色でした。13:25分定刻通り長崎に到着した。
                
長崎でとまっていた、さくら 1980/8/18

長崎駅構内の日本食堂で、ホットドックを買って食べた。
次に乗るのは、1502D急行平戸博多行とは言っても、大村、松浦、筑紫線経由です。長崎を14:36分定刻通りの発車した。大村、松浦線をのろのろ走って、筑紫線の東唐津までこの状態で走り続けた。東唐津で3両増結した。東唐津を発車した急行平戸はかなりスピードを上げ100キロ近くでていたのでは? 博多まで爆走していました。スピード狂の私は気持ちがよかった。博多に20:01分に到着、急行なのに車内改札最後までなかったです。
20:10分発1142M快速で門司港に向かう、車内は通勤客でいっぱいだった。門司で停車時間が長かったので、博多で購入したプリッツを食べた。門司港に到着して、改札を出るときに途中下車印を押してもらった。今晩の宿は、急行日南9号511レ発車の1時間ほど前に車内に入られた。22:20分に門司港を発車し、小倉を出発してから、ずっと寝てしまった。起きたのは宮崎到着の20分前だった。

昭和55年19日、宮崎に日南9号は5:46分定刻通り到着した。もう次に乗る6:47分発823Dがとまっていたので、急いで途中下車印を押してもらって、駅のスタンプを押しに行った。私は先頭の一番前の席に座った、運転席のしきりがなく見晴らしは抜群によかった。列車が発車してまもなく日が照ってきたが、どこかのトンネルをくぐったとたんに曇って来た。それから10分ほどたって大雨になってしまった。志布志に8:41分定刻通り到着、志布志からは、大隅線に乗るつもりだったが列車が1時間遅れて断念した。
      
志布志駅 1980/8/19                  キハ55 志布志駅 1980/8/19            志布志機関区 1980/8/19
予定変更して、志布志11:48分発426Dで都城に行きそこから特急おおよどに乗り宮崎へ行く、そして宮崎から急行錦江5号に乗り西鹿児島に出るという予定に変えた。426Dは10分遅れで志布志を出発した。高校生で車内はいっぱいだった、夏休みによく学校へ行くなぁ〜と私は思った。都城に着き特急券を購入する(この当時周遊券は急行自由席しか乗られなかった)改札が始まりホームに入った。3番ホームで立ち食いそばを食べて、5分くらいして特急おおよどがホームにすべり込んできた。おやヘッドマークがない、この10月でおおよど号は廃止おそらく心ないファンのひとが盗んだのであろうと思われる。

錦江5号サボ 1980/8/19宮崎駅

当日の5011Dおおよどの編成←宮崎キハ8241-キロ8020-キハ80126-キハ80100-キハ8097-キハ8098-キハ8236
おおよど号が発車して山間の中を走る、トンネルを入ったり出たりキハ82はエンジンをうならせていた。車内はほぼ満席だ。約50分で宮崎に到着した。次に乗る錦江5号が隣のホームにとまっていた。
当日の515M錦江5号の編成←西鹿児島クハ4759-モハ4749-サロ45510-クモハ45510-モハ4744-クハ45526

錦江5号に乗り込む、だいたいの席が満席だったが我々だけが1BOX占領できた。また都城に向かって走るのだからあほらしいと思った。国分を過ぎて桜島が見えた。隣を国道10号線がはしっていた、車を軽快に錦江5号は抜かして行った、とても気分がよかった。電車万歳(謎)西鹿児島に着き、今晩の宿かいもん6号の発車まで5時間もあったので外に出てぶらぶらした。

        
鹿児島交通キハ302とキハ20 西鹿児島 1980/8/19            西鹿児島駅 駅舎  1980/8/19  

晩ご飯を食べて駅の中に入り、出発時間の2時間前に、かいもん6号が入線してきた。
当日の106レかいもん6号の編成
←小倉ED761003-ナハネフ221011-ナハネ201215-スハフ1262-オハ1361-オハ12220-オハ12233-スハフ1267-マニ502023-オニ142

早速中に入り1BOX占領、しかし発車直前には満席になってしまった。かいもん6号がこんなに混み合うとは思わなかった。列車は22:14分定刻通り発車した。そして少しうとうとしていたら、非常ブレーキがかっかった。車掌が走ってまえのほうへ行った、窓を開けて外を見たら、発煙筒がたかれていた。結局何があったかわからなかった、10分ほどその場所に停車していたが列車は再び動き出した。八代や熊本などでしばしば目が覚めたがなんとか、寝られた。博多に着くと隣のホームに普通列車ながさき号がとまっていたので、その列車に乗り換えて吉塚に向かった。

昭和55年8月20日

吉塚でしばらく時間があったので駅の周りをうろついいた。
今日最初に乗るのは、2535D
←吉塚キハ3596-キハ4522-キハ3038後藤寺→の3両編成、やはりというかクロスシートのキハ45に乗った。雨がまたパラパラ降ってきた。まだ、通勤時間帯じゃないので、車内は空いていた。新飯塚にに定刻7:35分に到着。途中下車印は押してくれなっかった。新飯塚7:56分発2534Dに乗り若松へ行く途中で、親子連れのチャレンジ2000キロがいてた。若松に到着前に廃車になる列車がいっぱい置いてあった。若松に着いてホームでうろついていたら、駅員が早く改札外に出てくれといってきた。途中下車印を押してもらい折り返しの列車を待った。さっきの親子連れのチャレンジ2000キロがキセルで捕まっていた。そのオッサンは駅員とえらいもめていた。何を言っているのか理解できなかった。127Dに乗り折尾に行った。
編成←若松キハ4776-キハ2569折尾→
折尾から9:49分発の普通に乗るつもりだったが、9:44分に急行ゆのか3号きたのでそれに乗って小倉へ行った。小倉で時間があったので、駅の周りを一周して暇つぶしをした。そして次に乗る401D急行あきよし来た。小倉で客がほとんど入れかわった状態だった、降りた客の分また乗ってきたて言う感じです。11:19分定刻通り発車した。小倉を出てすぐに車内改札があった、パンチを入れられた。列車はボタ山野中を走り続け、日田彦山線、久大本線を通り終点の天ヶ瀬に到着した。天ヶ瀬駅にテレビが置いてあった。高校野球中継がながれていた、準決勝だった、第2試合は雨で順延するとか言っていたがあまりよく覚えてない。2時間程度たって、急行あさぎりが10分遅れで到着。2073Dあさぎり編成←日田キハ58717-キハ282104-キハ58153湯布院→
あさぎりに乗り湯布院に向かった。湯布院に到着して、駅のスタンプも押す暇もなく、すぐに2639Dに飛び乗った、今夜の泊まる無人駅を偵察するためだ。湯布院の次は南由布ここは無人駅、今晩のねぐらはここに決まる。駅舎がありアルミサッシだったからだ。しかし、まずは大分まで行き、駅のスタンプを押して立ち食いうどんを食べてから南由布に行くことになった。大分から最終に乗るつもりだったが、17:54分発の644レに乗った。
                      
1980/8/20 庄内駅 18:58 急行湯布通過 644レ車内から…

大分を出て平野部を走っていたときは、速度が速かったが、山間部には入り霧が濃くなって列車はノロノロ運転になった。南由布には20分遅れで到着した。22時になりラジオをつけたらヤンタンが聞けた(ヤンタン懐かしいな…)23:05分の最終列車が出た後ドアを閉めて寝た。

昭和55年8月21日

朝起きたらすごく寒かった、時間は6時だった、N田くんはもう起きていた。一人学生がいた、後10分したら621D大分行が来る、621Dに乗り大分に行き2532M7:42発に乗り換えて、別府まで行った。別府からまた湯布院のほうへ戻っていくことになる。1612D急行西九州乗って久大本線を乗り切ってしまうことになる。別府を8:10分に発車、大分に到着して客が何人か降りた、推測だがたぶん急行料金払っていないだろうなと思った。大分を出てしばらくすると車内改札が始まった、パンチは入れられなかった。朝雨が降っていたのに晴れたが、また曇ったおかしな天気だ九州にきてからずっと雨降りだ、2時間くらいで久留米に到着した。立ち食いうどん(立ち食いうどんばかり食べている(笑))を食べ終わって、うどんやのあるホームでじっとしていたら、次に乗るぎんなん3号がやって来た。
←急行ぎんなん3号サボ 1980/8/20 

急いで階段を上り、ぎんなん3号に飛び乗った。475系電車なので速度が速く感じた。あっという間に熊本に到着した感じだった。次に乗る火の山5号までしばらく時間があった。火の山5号は14:05分に発車した熊本を出てすぐに車内改札が来たがパンチは入れられなかった。(パンチ入れたとか途中下車印押したとかばっかり気にしている)急勾配をエンジンがうなって走っていました、景色はよかったです。隣のクロスシートに○鮮の集団がいてうるさかった。座席はほぼ満席でした。大分到着17:26分、大分から4203レくにさきに乗った、柳ヶ浦で信号機故障でかなり遅れて門司に到着しました。門司から普通列車のながさきに乗って佐世保へ行く、今夜のねぐらです。あまり寝られなかった。

昭和55年8月22日

4:48分ながさき号の佐世保到着時刻は朝早い、佐世保から1426M5:46分発小倉行快速で佐世保線を上り、原田まで行く。電車は定刻通り発車した、佐賀で通勤客で満員になった、原田に7:53分定刻通りの到着。筑豊本線に乗り換えて、2826レに乗る。このとき初めて50系客車に乗った。この日もまたどこかで信号機故障があり、鹿児島本線のダイヤが乱れて原田駅構内に有明が立ち往生していた。駅の端っこに廃車になるキハ17が10両とまっていた。5分遅れで2826レは発車した。発車するときのガコンとなるショックが旧客に比べて少なかった。そんなことを考えてるうちに新飯塚に到着しました。新飯塚の待合室で1時間くらい待って、539D後藤寺行が来た、発車してしばらくすると若い車掌が車内改札に来た、高校生がよくキセルをするからかなとか思った。車掌に乗りつぶしやっているの?、と聞かれて、はいと答えた。後藤寺駅に着き途中下車印を押してもらった。
                 
1980/8/22 後藤寺駅                          1980/8/22 伊田駅

次に乗るのは田川線428D行橋行、気動車のキハ28 800番台が混じっていた。800番台は修学旅行用で、色々設備が違っていた。洗面所は蛇口が二つあり、車両の橋のデッキとのしきりの上のほうに速度計がついていた。行橋に定刻の13:28分に到着した。すぐに折り返しの429Dでいたへ行くことになるが、急いで途中下車印や駅のスタンプを押しに行く。発車2分前にに429Dに乗り込み伊田には定刻14:17分に到着する、伊田から急行あきよしで香春へ5分くらいで着く小さい駅だった。ボタ山のまわりに駅舎がぽつんとあるような駅でした。ここから添田線16:29分発925Dに乗るキハ23型1両だった。雨上がりで線路が錆びていた。さすが日本一の赤字ローカル線だと思った。添田に定刻に着き、1時間待って、10分遅れで急行ひこさんがやって来た。ひこさん号で博多まで2時間気動車に揺られる。博多に着いた頃には遅れは回復していた。博多から7分遅れの電車急行ぎんなん15号に乗った。鳥栖に到着して、立ち食いうどんを食べてから改札外にでて、駅のスタンプを押した。そして、ホームにあがり、いよいよ大阪に帰るこれでも九州の国鉄線全部乗っていない、雲仙・西海を待ったホームにガキがいっぱいいてた。
                 

少し遅れて雲仙・西海が到着、鳥栖から小倉辺りまで起きていた。折尾〜博多間で車内改札が来た、パンチが入れられた。黒崎で隣に知らない人間が座って来た。途中、徳山、瀬野などで目が覚めた。福山に到着する前に起きて辺りが明るくなってきたのでずっと景色を見ていた。お友達のN田くんはずっと寝ていた。鳥栖にいてたガキの団体は岡山で降りていった。岡山をでて顔を洗い歯を磨いた。姫路に着く頃ようやくN田くんが起きました。大阪9:45分定刻に到着した。

昭和55年8月23日のことである。その5日後にI田くんと妙高やしなのに乗りに行くことになる。我ながら体力あったなあのころは…
2006年4月14日


   しなのや妙高に乗りに行くをみる