作成:2002/3 最終更新:2017/4

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 秦野市 HN-10_1

秦野市平沢 --- 峰坂の大震災埋没者供養塔 ---

  • 対象:大震災埋没者供養塔
  • 碑銘:大震災埋没者供養塔
  • 所在地:秦野市平沢
  • 交通:小田急小田原線「秦野」駅より徒歩約45分(行程約2.7km)
  • 「秦野」駅より「震生湖」バス停までバス12分 バス停脇
震生湖上流側に下る遊歩道入口から「震生湖」バス停方向を望む

写真1

震生湖上流側に下る遊歩道入口から「震生湖」バス停方向を望む

前方の樹木でこんもりとした箇所に大震災埋没者供養塔がある

大震災埋没者供養塔(正面奥)

写真2

大震災埋没者供養塔(正面奥)

左が「震生湖」バス停で、右に峯坂(みねざか)と刻まれた石柱がある。3本のスダジイの大木によって鬱蒼としている

写真3 大震災埋没者供養塔

写真3 大震災埋没者供養塔

背後は秦野の市街と大山及び丹沢の峰々である

写真4 旧道

写真4 旧道

一部の旧道は農作業道路として残されている

撮影:2016/10


図1 大震災埋没者供養塔周辺図(旧道と新道等位置図)

図1

大震災埋没者供養塔周辺図(旧道と新道等位置図)

旧道の位置は資料1の465ページの図を参照して概略を記入した

二人の少女の遭難

遭難状況

< 資料1より抜粋 >

地震の起こった十二時ごろ、平沢峰付近で、北斜面の山道が、崩壊し二人の少女が生き埋めとなった惨事が伝えられている。

九月一日の夕方、小原では山口ヨネ(当時十三才)山口トク(当時十一才)の少女がまだ学校から帰らないことで大騒ぎになった。

目撃者の話によると、地震の発生した少し前に、二人の女の子が峰坂を登ったとの事であった。小原に行く峰坂は、斜面を切り割って作られた幅約一メートルほどの山道であった。雨の時は、そこが流路となることもあった。谷形の深いところ五~六メートルのところもあり、その天井は、ミズキ、コナラ、クヌギなどの枝葉で閉ざされていた。

村の消防団・青年団の人たちが数日間発掘にあたったが、二人の小女をはじめ、その子たちの所持品、履物など何一つ発見できなかった。

二人の少女のために、南秦野村有志の方々により「大震災埋没者供養塔大正十二年九月一日」が峰坂を登った丸山に建立された。

上記と同様の記載が資料2にもありますが、捜索状況についてはやや詳しく、

また、在郷軍人会や青年会の人も10月26日から12日間、11月24日から10日間にわたって、崩落した場所を約60間(幅109m)の幅で発掘したが、結果は同じであった。

とあります。

遭難場所の峰坂

明治22年の町村制に伴い、平沢村、今泉村などの4ヶ村と栃窪村の飛び地が合併して南秦野村になり、当時の遭難は南秦野村での出来事でした。遭難した2人の少女の自宅は平沢(旧平沢村)の小原にあり、南秦野尋常小学校(現在の秦野市立南小学校)は今泉(旧今泉村)にありました。また、今泉には南秦野村役場もありました。

「地震の前に帰宅中の2人の小学生が峰坂を登った」とうい峰坂は、小学校側から丘陵部の尾根筋に至る坂道を指します。

資料1によると、地震直後の帰宅時の状況が当時小学生であった内藤フジ子氏によって語られていますが、その中に、

小原の者をまとめて送るから集まれ」といわれ、峰坂の道はないので、土手を登って、今の震生湖の上に出た。

というくだりがあります。

上記は、峰坂が崩壊して通行できないという情報が小学校に入ったのでしょう。一方で、地震前に2人の女の子が峰坂を登ったのが目撃されており、崩壊した峰坂(旧道 図1参照)が捜索の対象になりました。

なお、当時の峰坂は一部が旧道として残るだけで、現在は新道に付け替えられています。

大震災埋没者供養塔

大震災埋没者供養塔があるのは現在の震生湖バス停の脇の敷地で、峰坂を登り切った尾根筋に相当します。ここは3本のスダジイと思われる大木でこんもりとしており、一見、社のようでもあり、小原改修記念碑(昭和5年建立)や「峯坂(みねざか)平成2年3月」と刻まれた石柱および「現地旧道埋立ハ市道工事請負小宮建設社ノ厚意ニテ完成 昭和四十三年 地元」と刻まれた石柱などもあります。

 ⇒ 大震災埋没者供養塔の碑文を見る

小学生が遭難した崩壊と震生湖の崩壊は別物

資料によっては、2人の小学生が遭難した崩壊と震生湖が生じるもとになった崩壊を同一とするものがありますが、これは誤りです。

2人の小学生が遭難した崩壊は秦野市街地側の丘陵斜面(峰坂)であるのに対し、震生湖が生じるもとになった崩壊は、峰坂とは尾根筋を越えた反対側の市木沢の斜面であり、小原への通学路ともずれています(図1参照)。両者を混同する理由は、両者が距離的に接近しているため、震生湖を主とした1つの見出しの中に並列的に記述されていることが多く、中にはあいまいな表現も含まれているためと思われます。しかし、比較的古い資料でしかも、地元主導の資料には、両者の崩壊を区別しているものはありますが、同一の崩壊であると積極的あるいは断定的に示すものは見つかっていません。

参考資料

資料1:秦野市(1992)秦野市史 通史3 ぎょうせい

資料2:秦野市(1987)秦野市史自然調査報告書3 秦野の自然Ⅲ 震生湖の自然

資料3:秦野市(1987)秦野の記念碑 193p

資料4:平野富雄 地震の石碑(21)秦野市内の地震の石碑 復刻版 http://www.onken.odawara.kanagawa.jp/modules/study/index.php/sekihi/Sekihi_No21_C40/Sekihi_No21_C40.pdf

石塚利雄(1976)秦野地方の地名をたずねて 121p

栗原友次(1982)地震で湖が誕生 秦野市ホームページ 秦野市環境農政部防災課編 関東大震災体験記のWEB版 https://www.city.hadano.kanagawa.jp/bosai/documents/taikenki.pdf

秦野市編(1985)秦野ふるさと探訪 ぎょうせい 122p

相原宗由(1995)大地震で誕生した震生湖の話 播摩晃一編 西さがみ地震 西さがみ庶民史録 地震記事総集

山口倉治(1995)何十メートルも落ちこんだ震生湖 播摩晃一編 西さがみ地震 西さがみ庶民史録 地震記事総集

横山正明(1996)関東大震災 そのとき、西相模は 146p

武村雅之(2011)[資料]神奈川県秦野市での関東大震災の跡―さまざまな被害の記憶― 歴史地震 No.26,p1-13

秦野市ホームページ 南小学校の沿革 http://www.city.hadano.kanagawa.jp/min-sho/enkaku.html