作成:2002/3 更新:2015/4,2016/9

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 東京 T-01_1

墨田区の横網町公園(旧陸軍被服廠跡地その1)
--- 東京都慰霊堂 ---

  • 所在地:東京都墨田区横網二丁目
  • 対象:横網公園と東京都慰霊堂
  • 竣工:昭和5年
  • 交通:JR総武線「両国」より徒歩約14分(行程900m)
  • 地下鉄都営大江戸線「両国」徒歩約4分(行程250m)
  • 都営地下鉄「蔵前」より徒歩約15分(行程1000m)
東京都慰霊堂正面入り口

写真1

正面入り口の「東京都慰霊堂」と刻まれた石柱

慰霊堂

写真2 東京都慰霊堂

写真3 慰霊堂内部

写真3 慰霊堂内部

写真4 三重塔とその基部の納骨堂

写真4 三重塔とその基部の納骨堂

写真5 

写真5

慰霊堂 春季慰霊大法要当日の状況(3月10日)

写真6 納骨堂(慰霊堂の裏側 焼香に訪れた人の列

写真6

納骨堂 焼香に訪れた人の列

(三重塔の基部で慰霊堂の裏側)

写真7 歩道に並ぶ屋台や出店

写真7 歩道に並ぶ屋台や出店

写真8 耐震改修された慰霊堂

写真8 耐震改修された慰霊堂

写真1~4 撮影:2002/1

写真5~6 撮影:2005/3/10

写真7 撮影:2013/9/1

写真8 撮影:2016/9/1

横網町公園の概要

東京都慰霊堂のある都立横網町公園は関東大震災で多くの人々が犠牲になった被服廠跡の一部が慰霊・記念施設として整備された公園で、慰霊堂を中心としてその付属物より成ります。付属物としては、幽冥鐘、震災遭難児童弔魂像、「焼けて直ぐ」の句碑、追悼の碑、石原町遭難者碑、復興記念館、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑などがあります。

横網町公園は関東大震災の犠牲者の霊を祀り記念する公園として出発しましたが、戦後は、空襲で亡くなった都内戦災犠牲者も共に祀られるようになり、震災と戦災(一般人犠牲者)の双方の犠牲者の霊を祀り記念する公園になりました。

震災記念堂から東京都慰霊堂へ

関東大震災の際、約4万人の市民が被服廠跡に避難しましたが、火災旋風が発生し、約3万8千人の人が焼死または窒息死しました。その被服廠跡には震災から7周年に当たる昭和5年に関東大震災での犠牲者の遺骨を納める「震災記念堂」が竣工し、毎年9月1日に慰霊法要が執り行われてきました。

その後、昭和19年の冬から空襲が始まり、翌年3月10日には東京大空襲と呼ばれる大規模な空襲に至り、関東大震災の犠牲者を超える災禍が降りかかってきました。犠牲者は一般市民であり、被害は関東大震災と同じような形相を呈し、身元不明の多くの焼死・溺死体が発生しました。これらの犠牲者の遺骨もこの堂に納められ、昭和26年9月には「震災記念堂」が「東京都慰霊堂」と改められました。

奉祀してある霊数

  • 関東大震災遭難死者(有縁無縁とも) 約58,000人
  • 昭和大戦殉難者(軍人以外の一般市民・有縁無縁とも) 約105,400人
  • (昭和大戦災五十六周年 あゝ三月十日 (財)東京都慰霊協会* 小冊子より)

* 東京都慰霊協会:関東大震災遭難者の慰霊行事は終戦までは公の行事として東京都知事が主催していました。戦後は政教分離の観点から民間有志団体としての東京都慰霊協会が設立され、慰霊行事は東京都慰霊協会に変わりました。昭和27年からは関東大震災遭難者と都内戦災遭難者を併せた法要が行われています。

被服廠跡での出来事

<その1> 吉村昭 関東大震災 文春文庫より引用

東京市で最も悲惨な光景を呈したのは。本所区横網町にあった被服廠跡であった。陸軍省被服廠の建物があった場所で、被服廠移転に伴って大正十一年三月逓信省と東京市に払い下げられ、一周三百メートルのトラックのある近代式運動公園や小学校等が建設される予定になっていた。

二万四百三十坪の広大な敷地は三角状で、附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生署署員も同時に避難民を誘導した。そのために被服廠跡には多くの人々が家財とともにあふれたが、火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに思いがけぬ大旋風も巻き起こって、推定三万八千名という死者を生んだ。この数字は、関東大震災による全東京市の死者の五十五パーセント強に達する。

被服廠跡で起こった悲劇は、関東大震災の被害を象徴するもので、敷地の一坪当たりに一・九名弱の遺体が散乱したことになり、死体が山積みしたのである。

<その2> 中村清二 大地震ニヨル東京火災報告 震災予防調査会報告 第百号戌 より

「避難者の荷物」の項で、避難者の荷物を介して火が暴威をふるったことを説明する中に、被服廠跡の惨事が記されています。

この種の最も極端な又最も悲しむべき例は有名なる本所区の被服廠跡の惨事である。同所に避難して幸いに死を免れた人の語るところで、一致している点は他所を方々逃げ回って同所敷地内に入り込むと、人と荷物とで非常に雑踏していたがこれまでの場所と変わっていかにも空気が清涼で気持ちがよかった。避難者は中で悠々として食事をしたり「カルピス」を売り歩く商人があったり、中には碁盤が欲しいとまるで遊山気分でいたり、遠方の火事を眺めて美しいと叫んだりしたらしい。それが突然午後四時ごろかの恐ろしい旋風に襲われ、火は西方隅田川に近い側を除いた三方から、殆ど同時に到着して空は一時に暗黒となり、轟然とものすごい響きをたて、魔風が火を含んで荒れ狂った。旋風は多くの報告を比較するとこの所に三度見舞ったらしい。浅草区南元町河中に立って避難した岩本氏の談には第一回のときには蓋し巻き上げられた「トタン」板や何かが空中で互いに衝突する音と人の叫喚の声とが混じったものと跡から推察するが、何とも形容し難い恐ろしい異様な物音が対岸から聞こえたが、第二回に反対の向きに旋風が通過した時は音が殆ど聞こえない位で、第三回の時には寂として音無き有様であった。多分第一回で殆どすべての人が生命を失ったのであろうということである。蓋し然らんと思う。

(カタカナをひらかなに変更、漢字の旧字体を新字体に変更、一部の漢字をひらかなに変更、一部の送りかなを変更)

慰霊法要

関東大震災遭難者・都内戦災遭難者の慰霊法要は、関東大震災が発生した9月1日に秋季慰霊大法要が、東京大空襲のあった3月10日に春季慰霊大法要が行われています。この日は多くの参拝者が慰霊堂を訪れ、沿道(清澄通り)には屋台や出店が数百メートルにわたって並びます。(写真7参照)

耐震改修された慰霊堂

昭和5(1930)年に「震災記念堂」として建立された現在の「東京都慰霊堂」は平成27(2015)年で建立から85年が経過し、平成25年末から約2年に亘る本格的な改修が行われました。

改修工事の概要

改修工事中に現地に掲げられていた案内板によると次のように表示されていました。

契約期間 平成25年12月13日から平成28年2月24日

工事概要 外装 仕上補修、吹替え

内装 下地補修、塗装(天井一部そのまま)

屋根 銅板葺き替え(下地共)

耐震補強 梁壁等 鉄筋コンクリート補強

鉄骨梁 鉄筋補強

電気設備 引き込み幹線、コンセント、放送、非常通報、避雷針、誘導灯

機械設備 給水管改修等