絵1
明神ヶ岳より金時山越しに富士山を望む(油絵:F8号)
明神ヶ岳(絵1の眺め)への所要時間:小田急新松田駅~関本(バス20分)~道了尊(バス20分)~登り口(徒歩10分)~明神ヶ岳(徒歩2時間)
絵2
宝永の噴火 住家を放棄して避難する家族
パソコンで描画 2016/3 画像更新
富士山は標高 3,776m の容姿の美しい成層火山です。箱根火山の外輪山である明神ヶ岳より富士山を眺めると、手前に特異な山容の高まりがみえます。この高まりが金時山です。明神ヶ岳も金時山も独立した火山ですが、全体として箱根火山の外輪山を形成しています。
富士山の形成は40~30万年前にさかのぼり、箱根火山や愛鷹火山と相前後して、富士山の基礎となる小御岳火山が誕生しました。約10万年前には現在の富士火口の下方に古富士火山が噴火を始め、約1万年前には多量の溶岩を流し、現在の富士山の骨格が形成されました。地質時代でいうと最近の出来事であり、第四紀洪積世末期に誕生した小御岳火山を基礎とし、第四紀沖積世に入る頃には現在の富士山と同程度の規模の火山に成長しました。
富士山は有史以降も活動を続けています。足柄地方一帯に積もった火山灰や軽石などによって足柄路が不通になり新たに箱根路が開かれたことや溶岩が流出することによって現在の青木ヶ原樹海や山中湖が形成されたことなどがあります。
絵1の富士山の正面左側にみえる凹地形は宝永山の噴火口であり、1707年の宝永地震(東海・南海地震)の1ヵ月半後に噴火しました。富士山の手前、金時山の裏側の静岡県御殿場市や小山町では、1~2mの降砂が堆積しました。噴火による被害は、降砂の堆積による農地や山林の直接的被害ばかりでなく、酒匂川に流入した土砂が河底を上げ、酒匂川の堤防が何度も決壊して災害が拡大・長期化しました。なお、酒匂川の流れる足柄平野(神奈川県小田原市など)は絵の後方左手側になります。
絵2は宝永山の噴火から避難する様子を描いています。宝永山の噴火は富士山の最も新しい活動であり、火山灰は偏西風にのって江戸の町まで及びました。
富士山の噴火は頂上火口ばかりでなく、宝永山のように山腹からも盛んに噴火し、70を越す副火山や割れ目噴火口があるといわれています。富士山の噴火は記録として残されているものだけでも10回ありますが、噴火の間隔・場所・規模・タイプに規則性が無いので噴火履歴から将来の噴火の危険性を予測するのは難しいといわれています。
800年の延歴噴火、864年の貞観噴火、1707年の宝永噴火を三大噴火と称しています。富士山は宝永噴火以来300年にわたって沈黙していますが今後とも活動が続く活火山です。災害としては溶岩の流出、火山灰や軽石の堆積、山体崩壊による泥流の発生などが懸念されます。
絵3 谷を埋めて流れる溶岩流
2016/3 画像更新
絵4
紅葉台より青木ヶ原樹海を望む(油絵:F8号)
紅葉台への所要時間:富士急行河口湖駅~紅葉台入り口(バス20分)~紅葉台(徒歩20分)
西暦864年(貞観6年)の貞観噴火では、富士山の北西麓の長尾山などの火口列から多量の玄武岩溶岩が噴出し、南北5.5km、東西8kmの広大な地域に流れ込みました。溶岩流は当時の湖である戔海(セノウミ)に流入し、戔海を分断して精進湖と西湖を形成しました。また、本栖湖にも溶岩流が流れ込みました。
長尾山から流れ出た溶岩流の上に茂る原生林を青木ヶ原樹海といいます。溶岩流は当時の原生林に流れ込んだため、青木ヶ原樹海には固結した溶岩の中に溶岩樹型という樹木の型を残した円筒状の空洞が残されています。
溶岩流は空洞や亀裂が多く、雨水はすぐに地下に吸い込まれるため、植物にとっては環境のいい場所ではありませんが、乾燥に強いコケ類の進出から始まり、現在はツガとヒノキを主体とした針葉樹とミズナラやアカシデなどの落葉樹が混在した原生林に移り変わっています。一方では、人も利用しにくい環境であったがために原生林のままで残っているともいえます。
絵4は紅葉台からの西方向の眺めです。わずかに左側を高くした平坦な地形に青木ヶ原樹海が広がっています。左側は溶岩流を噴出した長尾山の方向であり、左やや後ろ側が富士山山頂の方向です。原生林を樹海という海に例えると、確かに入り江があり、半島がありその背景には稜線が連なった山々が見えます。正面樹海の奥に眩しく光っているのが本栖湖です。足元の高台(紅葉台)や半島、稜線の山々の大部分は新第三紀層で、千数百万年以前の地層で構成されています。
青木ヶ原樹海を形成した溶岩流と同じ時期の溶岩流としては、富士山北東山麓の山中湖南西や富士山北北東山麓の富士スバルライン沿いなどがあります。
富士山は1707年の宝永山の噴火以来活動を停止していますが、富士山は今後も活動すると考えられている活火山です。富士山ハザードマップ検討委員会では、火山防災マップ試作のため、青木ヶ原樹海のもとになった貞観噴火や宝永山噴火のシナリオを検討しておリ、災害現象としては溶岩流、降灰、噴石、火砕流、火山泥流、土石流などが想定されています。
絵5 牧場公園跡から雄山の噴煙を望む
絵6 雄山中腹より御蔵島を望む
絵7
半ば溶岩に埋没した阿古小・中学校跡
2000年の噴火は巨大な陥没カルデラの形成や長期にわたる多量の火山ガスの放出など、今までの噴火様式にはない特異なものであり、三宅島に限らずこれまでの島弧における火山の噴火活動に関する理解を超えたものになりました。
牧場公園跡周辺は絵5のように、2000年の噴火による火山灰とその後の火山ガスの噴出によって樹林の立ち枯れや廃屋など、特異な風景が広がっています。
手前の平坦な地形は桑木平*(くわのきたいら)と呼ばれる緩やかな斜面の一部であり、牧場などに利用されていました。火山ガスの影響と人が維持管理できない期間が長く続いたことから、牧場施設や村営レストハウスは朽ちて廃墟になっています(2008年現在も危険区域**に指定)。平坦な地形の先に雄山(おやま)山頂に至る斜面があり、その奥から噴煙が昇っていまが、稜線の内側は有毒ガスのために立ち入り禁止区域(2008年現在)になっています。
*桑木平カルデラ 山腹の標高350m付近に存在する直径約4kmのカルデラで、1万年より以前に形成されたと考えられています。
**規制区域 立入禁止区域、危険区域、高濃度区域
2000年の噴火以前は鬱蒼とした照葉樹林が広がっていたことでしょうが、この周辺の樹林は噴火による火山灰とその後の有害な二酸化硫黄などを含む火山ガスの影響によって立ち枯れています。この周辺に限らず、標高400m以上では現在においても樹木による植生の回復はほとんどありません。このような場所へ侵入する植物としてはハチジョウススキが顕著であるとされています(上條隆志 三宅島2000年噴火後の植生遷移 三宅島の自然ガイド)。
1983年(昭和58)の山腹割れ目噴火により、流れ出した溶岩によって阿古地区の約400戸が失われました。このときの噴火では三宅島の南西に約4.5kmの割れ目火口が開き、山腹では噴泉が火のカーテンとなり、海岸付近では爆発的なマグマ水蒸気噴火となりました。
絵3は2008年現在も残されている阿古小・中学校溶岩埋没跡で、校舎が黒ないし黒褐色の溶岩に半ば埋もれています。
グラフ
469年~現在2008年までの噴火間隔
データは「フィールドガイド関東・甲信越の火山Ⅱ1998」に2000年の噴火を追加
三宅島では1469年の噴火から山腹噴火を主とする噴火様式に変りました。以後、最近約500年間の噴火間隔は17~69年で、平均では45年程度です。(但し、古い時代ほど噴火の記録が抜けている可能性が大きい。)
最近は、20年程度の間隔で噴火しています。2000年の噴火は特異であり、これまでの噴火の規則性がどうなるか分からないといわれていますが、一生の内に幾たびかの噴火に遭遇する可能性があることを示しています。
本文記載以外の参考文献
エコツーリズムで三宅島復興 ! 三宅島の自然ガイド 総合出版 2007年
三宅村 防災のしおり 三宅村 2007年
飯野直子他 三宅島島内の火山ガス環境と植生 第6回大気環境学会九州支部研究発表会 2006
石原肇 2000年三宅島火山ガス災害 地学雑誌115(2) 2006
津久井雅志他 三宅島火山の形成史 地学雑誌 110(2) 2001