四條畷・大東郷土史かるたウォーク 飯盛城跡から野崎城跡を歩 く |
コース 四条畷駅→四條畷神社→飯盛山史跡碑→登山三百回記念碑→飯盛山頂→楠公寺→桜池→野崎城跡→野崎観音→野崎駅 |
四條畷神社入口 |
石灯籠常夜燈 |
注連縄門柱 |
狛犬 |
四條畷神社 |
御妣神社 |
四條畷神社 江戸時代、楠塚と呼称された30坪ほどの墓域は、明治八年(1875)に大拡張されて一町余へ。神社創建は、墓所から1000mの飯盛山下、眺望よき緑の中に明治二十三年(1890)四月に鎮座した。忠孝両全の人として仰がれた楠正行を主神とし、烈士24人を合祀する。国家鎮護の府となり、明治・大正・昭和前期の全国民讃仰の聖域として大きな影響を与える。 参詣石段の石灯籠常夜燈 右側の竿部に「如圭」左側は「如璋」 (じょけい・じょしょう 出典は詩経。圭も璋も玉の意味。礼式のときに飾りにする玉として奉納されたもの。) 境内入口の注連縄門柱 「有孚顕若」(ゆうふぎょうじゃく・誠信こもりたる荘厳なる聖域・出典は易経) 狛犬 普通後足で座り、前足を立てる格好である。この狛犬は後足を蹴り上げている。 御妣(みおや)神社 祭神は正行の母。大正十四年(1925)に鎮座。 楠天神社 文教の神菅原道真を祀っている。 |
飯盛山史蹟碑 |
登山三百回記念碑 |
「此山頂飯盛城跡」石碑 飯盛山 海抜314.3m 西や北西方から見ると飯を盛った形。全山花崗岩の地質。 「飯盛山史蹟」碑(二の丸史蹟碑郭) 北方防禦の要点だったと思われる。 大正十三年一月二六日大阪府立四條畷中学校校友会による190文字の碑文(現四条畷高校)の建立。 「登山三百回記念」碑(二の丸御体塚郭) 正面に「登山参百回記念」その下に「世界高峰エヴェレスト二万九千尺、飯盛山高壱千尺参百倍之参十万尺」建立者は「大正七年一月青木欣四郎建立」(四条畷高校第二代校長) 御躰塚(ごたいづか)三好長慶の墓所ではないかといわれている。「永禄七年七月二十四日長慶四十三才にして空しくなり玉う。三好家の歎きたとへんなし、三箇年過ぎて後、河内(八尾)の真観寺(しんかんじ)にして永禄九年六月二十四日葬礼有」(義輝将軍記)とある。家臣の動揺をおそれて三年間も、長慶の葬礼は行われなかった。この間の仮埋葬地。 |
三好長慶像 |
飯盛城北半部・砦 |
飯盛山頂から |
飯盛城跡 カルタの句 『 飯盛城 拠りて長慶 覇をきそう 』(四條畷郷土史カルタ) カルタの句 『 戦乱の 三好長慶の拠点 河内飯盛城 』(郷土史カルタ「大東のふるさと」) 中世の山城としては最大の要塞。最初に築いたのは河内に勢力をはる木沢長政(享禄年間1530年代頃)。ついで交野城主の安見直政であったが、永禄三年(1560)三好長慶が長政を倒し河内を制圧、ここ飯盛を居城にした。 |
楠正行銅像 |
国旗掲揚塔 |
FM大阪放送中継所 |
陣没勇士碑 |
本丸高櫓郭と展望台郭(正行像・国旗掲揚台のある平地) カルタの句 『 空高く 正行の銅像 さんぜんと 』 楠正行の銅像は昭和12年6月、当時の四條畷市長八代氏が発起人となり、元楠公会によって、故彫刻家黒岩淡哉氏によって制作。18年供出。47年、田伐(たぎり)兼松氏が再建。京都の金井工芸(今井紀征)が四条畷高校所蔵の黒岩淡哉氏の原型をモデルとしてつくる。京都の方に向けて再建。台石はもとのままで、表には「忠孝両全 荒木貞夫筆」裏には「昭和十二年六月建立 楠公会」と彫られている。 国旗掲揚塔(四条畷警察署管下警防団結団記念建立) 田伐兼松の銅像(正行の銅像再建) 本丸千畳敷郭(FM大阪放送中継所) 中継所を中心に3メートルほどの落差でひろがる3つの平地。 陣没勇士碑「南無妙法蓮華経 陣没勇士碑 建武・正平・天正年間」(放送所北側の断崖・花崗岩の岩山の上に) |
楠公寺 |
地蔵階段 |
桜池 |
楠公寺(日蓮宗) 昭和27年楠正行をはじめ、四條畷の戦いで戦死した人々の冥福と菩提を弔うために開山。 地蔵階段(25体の地蔵、道しるべ地蔵等の地蔵群がある)を登っていくと、八大龍王が祀られている。その右側に「正平年間楠氏一族戦没勇士供養碑」がある。 馬場(楠公寺境内の平地 馬おき場) 桜池 野外活動センター 飯盛城の水源地。行基が雨乞いをした池といわれている。 辻の新池 三光滝妙成寺 |
野崎城跡 |
野崎観音 |
慈眼寺 |
野崎城跡 展望台のあたり 山頂114.4m地点 野崎は古くから戦略上の要点とされた。それは西からは深野池が入り込み、東は飯盛山の支脈が突き出しており、平地が非常に狭いところからである。海抜114mに本丸をおき、西の北に出郭を設けさらに稜線を利用して三段にわたり四つの郭を設けていた。 カルタの句 『 太平記 戦さを語る 伝承地 』 四條畷の戦い、高師直(こうのもろなお)の軍が布陣。 四條畷の戦い 後醍醐天皇を中心とし、楠正成、新田義貞等によって鎌倉幕府が崩壊し、世に言う建武の新政が行われるのであるが、それもつかの間の平和であり、やがて新政も崩れ、北朝と南朝の勢力争いとなる。楠正成が湊川で足利尊氏と戦い戦死。北朝が実権を手に入れ、室町時代へ。南朝方最後の将、楠正成の子、楠正行。尊氏の命をうけた高師直が決戦。時に正平三年(1348)、世に言う四條畷合戦は正月五日巳刻(午前10時)より申刻(夕方6時)まで相戦うこと8時間。正行以下34人腹掻き切って上が上に重なり伏した。 君堂(中興の祖江口の君を祀っている) カルタの句 『 野崎観音 中興の祖 江口の君 』 平安末期、摂津の江口は瀬戸内海から淀川に入る船着場としてにぎわい、多くの遊女がいた。その中の一人、江口の君という者が、ながのわずらいに苦しみ、大和の長谷観音に病気平癒の願をかけたところ、河内の福聚山に参って病苦を免れるよう祈るがよいと教えられた。江口の君はさっそく慈眼寺(じげんじ)に参り、七昼夜籠もって祈ると、たちまち難病が治った。よろこんだ江口の君は感謝のため、堂を建立することにした。その頃慈眼寺は門真市にあって、低地でいつも洪水に悩まされていたので、寺地を現在の地に移して堂于を再建した。そこで江口の君を中興の祖という。 三十三所観音堂 カルタの句 『 霊場を 一度に拝む 観音堂 』 西国札所一番那智山(和歌山)から三十三番谷汲山(岐阜)までの三十三ヵ所の寺の観音を祀っている。この堂に参詣すると三十三霊場の観音を一度に拝むことができる。 お染久松の塚 カルタの句 『 お染久松 人形浄瑠璃 恋ものがたり 』 近松門左衛門がとりあげたのは宝永七年(1710)「心中鬼門角」である。それは油屋五兵衛の娘お染と丁稚久松の悲恋物語。さらに安永九年(1780)道頓堀の竹本座で近松半二の「新版歌祭文」と題した人形浄瑠璃が上演され、その中でお染・久松が登場する。そこでは十歳で野崎村の久作に預けられた久松が油屋に奉公しお染と知り合う。ところが久作の後妻にはお光があり、彼女を久松の嫁にすることで話が進展する。そこへ大阪からお染が観音参りにかこつけ久松に会いに来た。久作はお染にことのしだいを話し、彼女もそれを了解した。久松とお光は祝言をあげることになった。だが嫁の座についたお光が綿帽子をとってみると、思いがけなく黒髪をぶっつりと断ち切り、しかも白無垢に袈裟までかけている。お光は久松とお染の間柄を見抜いて、自分から身を引いたのだった。そこへお染の身を案じた油屋の女房が来て万事はめでたくおさまり、お染は母とともに船で、久松は陸(おか)を駕籠で油屋へ帰っていく。(野崎村の段) 慈眼寺 カルタの句 『 りんとそびえる 九層の石塔 福聚山慈眼寺 』 もと九層の石塔。全体の豪壮さなどから鎌倉時代の特色をよくあらわしている。この塔は永仁二年(1294)四月八日沙弥入蓮(しゃみにゅうれん)と秦氏(はたし)が主君ならびに両親の霊を弔うために建立寄進。 野崎参り カルタの句 『 口ずさむ 野崎小唄は 津々浦々に 』 カルタの句 『 屋形船 野崎まいりは 花ざかり 』 ♪野崎参りは 屋形船でまいろ どこを向いても 菜の花ざかり 粋な目がさにや 蝶々もとまる 呼んで見ようか 土手の人♪ 作詞・今中楓溪 作曲・大村能文力 カルタの句 『 まだ遠い 東高野街道 弘法大師 』 |