天野川が、大阪と奈良の 国境です。府県境界碑が両国橋に二基、高橋のところに一基あります。  「 川中央国界」 とあるから、川の中央が 国境です。 生駒山系東斜面のしたり水を集め、 水系を整える天野川は、 磐船神社の秘境をつくり、交野、枚方を経て淀川に注いでいます。 この水系は 文明発生地域として 重視され、 国境となりました。 大和を東田原、河内は西田原、 西田原は水系の位置により、上、下田原に二分されています。

   飯盛山は、生駒山系より 北西へ飛び出し、東はX字型谷の谷、 西 ・ 北低地に聳え立つ 自然の要塞をつくっています。 南側が生駒山系に続きます。 飯盛城は 中世を代表する山城で、 戦国時代の豪族たちの拠点でした。  室町幕府の権力は家臣細川氏へ、細川氏の実権は家臣の三好氏へと下剋上します。 三好長慶は 1560 年、 飯盛城に拠って畿内に君臨します。江戸元禄期に 当地を旅した貝原益軒は 「 飯盛の城址、北麓よりみれば、山の形飯を盛たるが如し、 故に 飯盛山と号す。 山の西より見れば、さやうには見えず 」とあります。

  さぎそうは、 高さ 30〜40 センチ、 先に 1〜 4の花をつけ、色は純白で優美、純潔な感を与えます。花容が白鷺 (しらさぎ) に似ていることから、 その名があります。現在は 観賞用に栽培されていますが、本来は山野の湿地帯に自生する夏の花で、 室池周辺に かつては多生していました。 何年か前探しにいったことがありましたが、見つけたときはたいへん感動しました。 自分でも栽培してみようと しましたが、 なかなかむつかしいもので花の咲くまでに枯らしてしまいました。 また、室池周辺で自生できる環境をつくってほしいものです。

 逢阪に大阪府文化財(建造物)の指定を受けている、高さ 180センチの五輪塔があります。 基部から地・水・火・風・空輪と名称されます。大日如来の供養塚として平安期に始まり、 室町時代には 墓標として、一般化しつつ現在にいたります。 地輪部中央に「 大坂一結衆 延元元丙子年三月 日造立之 」の銘があります。「延元」は南北朝時代の南朝年号(1336)であるから、争乱初期の当地は南朝勢力圏であったようです。 大きさと美しさと古さを、ぜひ見てほしい五輪塔です。実は、移動したとき、 間違って水輪を逆さまにして置いてしまったそうです。府指定有形文化財指定。

   岡部川とは、岡ノ辺を流れる川を意味するのでしょう。 砂、 中野の境界を流れる四條畷の主要河川の一つです。 川の脇を固める土堤道 ( どてみち ) は八丁堤といわれ、 砂村から、 堀溝への 主要街道でした。 両側に 藪がしげり、 昔の面影を今にも残しています。 現在、一部は遊歩道にもなっていますが、はげしく車が往来しています。
蔀屋北遺跡 (なわて水みらいセンター)
  『 塩づくり 河内湖畔に 馬の牧 』
縄文後期〜弥生時代の遺物、古墳時代の土抗、平安時代の屋敷跡、平安〜江戸時代の条里水田跡。製塩土器(約1500個体分)が出土。粗塩(あらじお)を精製していた。海辺で作った塩の半製品を仕入れ必要に応じて小さな容器に移して焼塩にする。馬一体分の骨格、馬の歯、木製あぶみ、鞍、鉄製のくつわの一部、百済系の陶質土器、韓式系土器など出土。掘立柱建物跡。朝鮮半島から船に乗って馬と渡来人がわたってきた。馬飼い集団の牧場であった。日本書紀に記されている「河内馬飼」集落だったのではないかと思われている。(古墳時代中・後期)

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