3メートルほどの巨石が双立する、女性の性神信仰のひとつではないかと思われます。 性神は縄文期の土偶に始まり生殖多産、五穀豊饒の呪術となっています。 この原始人の性神信仰に基づく聖地に、 なぜか多様なものが点在しています。 巨石が双立する間に行者さんがあり、その外に、観音像、如来像、 弘法大師像、 墓石、首なし地蔵、西国三十三ケ所巡礼碑等が置いてあります。地元逢阪が大坂の文字で登場して800年以上、その間の聖地であろう。

  忍陵(しのぶがおか)神社の北側に大正寺(だいしょうじ)があり、本堂に向かって左に観音堂があります。 その中に聖観音( しょうかんのん )像が安置されています。藤原文化期の2メートルほどの一木造りで、四條畷市内最古のものといわれています。 白鳳期に建立されたという讃良寺(さらでら)が 鎌倉期になり、そして 大正寺へと伝わった仏像ではないかと いわれています。 大正寺本尊は阿弥陀仏、 元久元年(1204)に姶まると伝えられる浄土宗です。 法然上人の弟子西仙房によって創建されています。 寺内の梵鐘(ぼんしょう)は、 宝永8年(1711)の銘があり、造型美、音色の美しさ、余韻の長さに定評があります。 今でも正午を知せる鐘の音が聞こえてきます.。
 訂正・大正寺は「だいしょうじ」と読む。

   ザヴィエルの来航に続いて、 数多くの宣教師がきて、 各地に布教しました。 1582年には 国内信徒数 15万、 うち、 砂、 岡山に 3500人の信徒があり、教会、十字架が建っていたことなど、 当地領主の結城(ゆうき)の名とともに 耶蘇(やそ)会士通信文の中に伝えられています。 永禄2年(1559)バードレのカルパルヴィレラが入京してきました。飯盛山城主三好長慶は布教を許しました。その家臣、武士およそ500人はロレンソの布教によって洗礼を受けています。 その頃岡山領主結城左衛門尉も、 また父と共にフロイス・ビレラ等の宣教師によってキリシタンとなりました。結城ジョアン(如安)は岡山会堂を建築し、芙しい十字架を建てました。キリシタン全盛も落日のうき目を見なければならなくなりました。それは秀吉が天正15年(15876月禁教令を出したためです。 かくれキリシタンは次々に処刑されました。その仕置場がありました。今でも毎年8月12日にその人たちのため供養する「市」が開かれています。 大正時代に、四條畷の南野から「クルス青銅像」が発見されています。

  四條畷市の歴史は古く、寝屋川市と分ける讃良(さら・さんら)川と岡山の新池付近からは1万年前の旧石器のナイフ型石器や細石器、 9千年前にさかのぼる 縄文期の高杯、深鉢等の各種土器、石鏃、石斧が現われて、 四條畷市の歴史は民族の歴史と、その源を一になっています。 名称から、 この地域こそ讃良郡の中心とおもわれます。 府下でも著名な遺跡で貴重なものが発見されています。
 讃良を「さら、さらら、ささら、さんら」と読まれている。復刻版では「さらがわ」に統一。

 城といえば、大阪城のような天守閣を連想しますが、中世にあっては、山城 ・丘城をいいます。戦いになるとここにこもります。 田原城は、田原対馬守の拠点で、この山を村人は城山といっています。「門口」といわれる付近には、 小さな川に 3メートル幅の橋がかかっています。 頂上の本丸跡の近くに隠井戸があります。 本丸から古堤街道を見ると道の向こうに大きな石が見えます。それを的に弓を射る練習をした「矢の石」があります。