開発にともない行政のサービスの拠点として平成5年4月に開館し、新旧の住人の交流の場として、コミュニティ活動および生活文化 ・ 教養の向上のため利用されています。塔にカリヨンが4つ設置され、1日4回鐘が鳴っています。 時間によってメロディがちがっています。 午前7時(スウェーデン民謡・朝露の山への一節を編曲) 正午(ロンドンのウエストミンスクーのチャイム) 午後5時〈オリジナル・メロデイ)午後10時(ウエルディのオペラ・ナプツゴの小節を編曲)となっています。「グリーンホール田原」の名称は、市民から募り、 54人129点が集まり、その中から選ばれました。

  田原地区がキリシタンとして登場するのは、 1576年8月のフロイスの書簡(手紙)に「コカ(甲可=四條畷のこと)、三箇、若江、タワラ(河内田原)及び堺の市のキリシタンの大多数の‥」の一節のみに出ています。くわしいことはまったくわからないようです。    ザヴィエルの来航に続いて、数多くの宣教師がきて、各地に布教しています。 四條畷では、砂、岡山に3,500人(1582年には国内信徒数15万)の信徒があり、 教会、 十字架が建って盛況だったことなど領主・結城(ゆうき)氏の名とともに耶蘇(やそ)会士通信文の中に伝えられています。四條畷郷土史カルタでは、【砂、岡山の キリシタン 異国(とつくに)の文(ふみ)にのる】とうたっています。平成14年千光寺跡の寺口遺跡から安土桃山時代の花崗岩のキリシタン墓碑が見つかった。五角形、長さ約43センチ、幅約25センチ。イエスズ会を示すギリシャ文字「H」(エータ)が彫られていた。また、「天正九年(1581)礼幡八月七日」ときざまれていた。フロイスの書簡には、織田信長を表敬訪問した河内のキリシタン武将の中に田原城主・田原レイマンの名が出ている。墓碑の「礼幡」はレイマンのことであろう。

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 下田原の天満宮の入口に小さなお堂があります。そこにお大師さんがまつられています。 大師とは、国王の師となりえる人で 朝廷からおくられる称号です。大師といえば、弘法大師のことになってしまっています。それほど弘法大師の信仰が厚いわけです。田原地域も京都の東寺と高野山を結ぶ 東高野街道に位置することから、信仰を集めています。(下田原の法元寺は真言宗で、 田原には、 かつては真言宗のお寺が三つあったといわれています。)

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 田原対馬守(たわらつしまのかみ)は、田原城の城主として 田原をおさめていた土豪と言われていますが、詳しいことはわかりません。 文献としては、江戸末期の上田原村明細帳に 「永禄の頃、当地守護田原対馬守御城跡と申伝候」 とあるぐらいで歴史的な人物像として、 はっきり現われてきません。 本丸跡にたてば田原が一望でき、戦場の拠点(きょてん)としてはたいせつなところであったことが今でもわかります。

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    城といえば、 大阪城のような 天守閣を連想しますが、中世にあっては、山城・丘城をいいます。戦いになるとここにこもります。田原城は、田原対馬守の拠点で、この山を村人は城山といっています。「門口」といわれる付近には、小さな川に3m幅の橋がかかっています。 頂上の本丸跡の近くに隠井戸があります。 本丸から古提街道を見ると道の向こうに大きな石が見えます。 それを的に弓を射る練習をした 「矢の石」があります。

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