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地蔵さんの普通の形は、右手に宝珠(ほうしゅ)、左手に錫杖(しゃくじょう)をもち、頭は丸坊主、袈裟(けさ)と衣の僧侶の姿です。地蔵は死後の世界にかかわる菩薩ですが、生前の世界には、あらゆる庶民の悩みを聞いてくださる仏さんです。 これらの地蔵さんは、村ごとに、あるいは道々の辻に立ち、錫杖をつきながら各戸を訪ねて願い事を聞き入れてくださる仏さんです。数が多ければ多いほど功徳(くどく)も多かろうと各所に建立しました。地蔵信仰は鎌倉期以降、庶民に密着したのが江戸期が最高潮です。 |
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正伝寺の境内に1基の「愛宕山」と彫られた常夜燈が見られます。 昔も今も火事ほど恐いものはありません。 ことに藁葺き(わらぶき)の屋根構造であった江戸時代には、延焼を防ぐには隣の家をたたきこわすしか火勢をくいとめることができませんでした。 また、神仏にたよるしかありません。 京都の北西にある愛宕山の防火神 ・ 愛宕神社に お参りにいきますが、 遠方なので なかなか 出かけることが できません。 そこで、村ごとに常夜燈を祀っています。また、村の代表が愛宕さんにお参りし、みんなのお札をいただいてくるのです。こんな行事もまだ残っているところがあります。 |
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南北朝時代の田原対馬守の墓と伝えられる五輪塔のあった旧墓地(現在は道路になり移転)を 発掘調査(寺口遺跡)すると、 千光寺の刻印のある瓦や仏具の懸仏、 茶道具の茶臼と天目茶碗、灯明具などが出てきています。現在ある月泉寺は廃寺になった千光寺の後を明治になって継いでいますが、以前は、この旧墓地あたりにあったことがうかがえます。 青磁袴腰香炉(せいじはかまごしこうろ)が 出土したのもこのときで、香炉の腰のふくらみが、袴をはいた形に似ていることから名付けられた袴腰香炉は、中国の南宋時代(13世紀代)に 龍泉窯(りゆうせんよう)でつくられたもので 貴重なものが発掘されました。 |
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田原の農家では、今でも、豊作をねがい、庭に砂絵をえがく伝統行事を守っているところがあります。正月準備が終わった夕方から庭を掃き、さら土で「万石」と書いた一斗升の絵のほかに、月、太陽、年号を描きます。 下田原の天満宮の境内でも毎年年末に砂絵が描かれています。田畑も少なくなり、農業をする人も少なくなれば、この伝統行事もいずれはなくなってしまうのでしょうが、ぜひ残していただきたいものです。 |
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小正月(1月15日)朝とんどといって大きな規模のとんどを行います。 これは、宵とんど(1月6日)に対してです。 正月に用いた注連縄(しめなわ)や門松など集めて、
太い青竹を三角形に上に尖らせて組み、とんどの芯をつくります。大とんどは、高さ10数メートル、周りを藁で包み直立します。
この作業を 14日に準備し、お日待ち(前夜から寝ずに日の出を待って拝むこと)をします。(大とんどはお日さまへの献燈だともいわれています。)
とんどが燃えさかると、腕が上達するといって子どもたちが書き初めを投げ込んだり、針仕事が上達するといって縫いさしの布を投げたり、あかぎれができないようにと祈って古い足袋を投げ込んだりします。また、残り火で餅を焼いて食べると病気にならないといい、
焼け残りの竹を便所に入れておくと泥棒が入らないともいわれています。なお、この残り火を小正月の小豆粥(あずきがゆ)の種火にします。「とんど」とは、竹のはじく音に由来するとも、「尊い」から転じたともいわれていますが、はっきりしないそうです。 |
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田原には、耳なし地蔵、腰痛地蔵とわりとよく知られている地蔵さんがありますが。夜泣き地蔵のことはあまり聞きません。田原城跡の個人の田畑のところに30センチぐらいの小さな地蔵さんが石に囲われてあります。昔は、医学もあまり発達していなかったので、子どもが健かに成長していくのにはたいへんでした。七五三祝いに見られるように七歳、五歳、三歳まで育てあげることは 容易なことではなかったようです。 夜泣きする子どもの健康を地蔵さんにねがい、親の気持ちを癒しています。 また、下田原に虫よけ地蔵もあります。 |
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