カイナの鈴の音とエルジン・エスガルドの声を従えて、ミモザの召喚した獣を体に宿したトリスの詠唱が周囲に響き渡る。
 以前の訥々としたものとは違う、朗々たる響きを持って彼女の声は触れた空気を、異界とリインバウムを繋ぐ回廊へと変質させていく。
 青白い光が周囲を満たし、それに応じるように二つのサモナイト石が光を発し始めた。
 だんだんと強く、大きくなっていく光の中、異界とリインバウムが完全に繋がった事を報せる、ガラスを割ったような高い冴えた音が鳴り響いた。
 それを合図として、トリス達の周囲に異界の空気が満ち始める。
 召喚師や、気配を感知する事が出来るものにならすぐに分かるほどの濃厚な魔力の気配。それも、負の気を感じさせるような、あまり良い物ではない類の。
 最初、細く流れ込んできていたそれは、時間と共に回廊が広がるにつれ、強くて膨大な本流となって場にいた者達の髪を強く揺らした。
 同時、皆は得体の知れない不快感や悪意に淀んだ魔力を感じた。その強さは、ミニスなどは口元を押さえ、ギブソンでさえも眉をしかめる程だった。
 その空気を、そこに潜む魔力の感じを、トリスは知っている。
 サプレスの最下層。悪魔達の住む領域はちょうどこの空気と魔力を持っていた。
 そこにまつわる記憶を思い出し、トリスは少し眉を詰めてその記憶を追い払うように軽く頭を振った。
 最後の詠唱に入る。
「新たなる誓約の許に、トリスが願う」
 光の強さに半眼になった瞳の裏に浮かぶ二人の人影の後姿。
 最後の時には遠ざかっていったそれが、再び自分の隣にある未来をトリスは強く、鋭く望んだ。
 回廊の向こうのサプレスに、その二人の気配を探す。
 意外なほど近くに、それは在った。
「!」
 細いけれど確かに感じる気配に、一瞬彼女は喜色を露わにしたが、その顔はすぐに曇った。
 二人のすぐ側に、やはり覚えのある、けれど一番居て欲しくない気配があったからだ。
 メルギトス。
(……やっぱり、そう都合よくは進まないか) 
 心の中でそう呟き、トリスは二人にのみ意識を向ける。
 集中力が高まり、自分の鼓動がはっきりと耳に響く。
 鼓動を一つ、刻むたびにぼやけて感じていた二人の気配をより鮮明に感じていく。
 そして届かせる。二人の元に道を、そして自分の声を。
「来て! ネス、アメル!」
 空気ではなく、空間を震わせて彼女の声は凛と響き渡った。

 呼ばれたような気がして、ネスティは傍らのアメルを見やった。
 彼の視線を感じ、アメルは顔を上げて視線で彼に何事かと問うた。
 彼女の様子に、気のせいかと思いながら彼は何でもない、と首を振る。
 アメルは消耗していた。
 青白くなった顔に汗で髪を張り付かせ、荒い息を吐いている彼女に無理もないか、とネスティは思う。
 ここは霊界サプレスの中でも悪魔の住む領域。欠片であり、人として生を受けているとはいえアメルの魂は天使のもの。
 自分達を取り巻く空気が、相反する要素を持つ彼女を過剰に蝕んでいるのであろう事は簡単に予想できた。
「持つか?」
「――大丈夫、です」
 そう言って彼女は額についた髪をかきあげた。
 周囲を見渡す。
 メルギトスの姿は見えない。
 だが、感じる。気配を、どこからか。
「――います」
「ああ、分かっている」
 手の中のサモナイト石に意識を集中させ、アメルを近くに引き寄せる。
 ネスティに引き寄せられ、アメルは彼の背後に回る。
(――――)
 今度は音にならない声が、確かに頭の中で響いたような気がして、ネスティは頭を上げた。
 聞こえるはずのない、そして一番聞きたい人の声。
 確かに聞いたという確信がもてずに、ネスティはアメルの方を見た。
 アメルも瞳に驚きの色を浮かべて、ネスティの方を見ていた。
「今、トリスさんの声が……」
「君も、聞こえたか」
 頷くアメルに、ネスティの頭の中である可能性が提示される。
(まさか――)
 本来なら機界に属す種族である自分と霊界の住人であったアメルになら、それは実行可能である。
 彼の推測を裏付けるように、二人の周囲に淡い光が現れ始めた。
 呼ばれている。そんな感じが強まっていく。
 体が空間ごと引っ張られるような感触に、ネスティは自分の推測が正しい事を確信した。
「ははっ……」
「ネスティさん?!」
 突然笑い始めたネスティを驚いたようにアメルが見やる。
 唐突に急変し始めた事態に、彼女はついて行く事が出来ずに戸惑っているようだった。
 そんな彼女にネスティは今の状況を簡潔に説明した。
「トリスが僕らを召喚しようとしてる。リインバウムに」
 その言葉にアメルは瞳を大きくした。
「そんな事、できるんですか?」
「理論上はな」
 頷きながらネスティは手に持ったサモナイト石を再び握りなおした。
「無茶苦茶だ……しかし、実に彼女らしい」
 そう言って苦笑した彼の周囲を新たに光が覆っていく。
「あなたのそういう所、トリスさんっぽいと思いますよ」
 アメルの呟きに、ネスティは口の端を上げて見せる。
 次には光は集積し、砕け散った。
 その後に、幾重もの翼とを持ち、重厚な鎧に身を包んだ巨人が出現する。
 巨人は、両手に持った大剣を体の前で交差させる構えを取り、翼を広げた。
「……効くんでしょうか」
「天兵は対悪魔の能力を持っている。効果がない訳がないさ。それに……」
「?」
「重要なのは、効果があるかどうかじゃない」
 力強い羽ばたきの音と共に巨人が体に合わぬ俊敏な動きで跳ぶ。
 直線的な力の動きに、空気、音ですらも分断され、後から空気がたわむ事により生まれた爆発が付随していく。
「どれだけ足止めが出来るか、だ」
 最後に構えていた両腕の大剣を振り下ろし、巨人は消えた。
 一際、大きな爆発が上がる。
 その頃には、二人を包む光の量は圧倒的に増えていた。
 薄く空間を隔てた向こうに、アメルとネスティは会いたかった人の気配を近くに感じた。
 しかし、気配は彼女一つだけではなかった。
 彼女を通してだが、複数の馴染みある意思を感じた。
 それらは、悪態だったり、願いだったり、気楽な口調だったりと、多彩な形をしていたが、皆ある一つの思いをこちらに寄越していた。
 ――帰って来い、と。

 先にそれに気がついたのはアメルだった。
 爆発が止み、煙の立ち上る向こうに嫌な力の存在を、彼女の天使の感覚は速やかに感知したのだ。
「ネスティさんっ!」
 咄嗟にアメルはネスティを庇っていた。
 彼女の背中から、光が翼のように広がり、ネスティとアメルを包みこんだ。
 それと同時、煙の向こうから何かが急速に二人の方に向かってきた。

「――え?!」
 いきなり来た引きずりこまれるような感じに、トリスは驚きを隠せなかった。
「どうかしましたか?」
 カイナの心配そうな声に、トリスは答えることが出来ない。
 自分が召喚している筈なのに、逆に自分が召喚されているような錯覚を覚えるような感覚に、まさかとトリスは思う。
(まさか……暴走?!)
 その考えにトリスは戦慄し、彼女の集中力が一瞬乱された。
 それが、仇となった。
 溢れていた光が一層強く周囲を白く塗り変え、一気にトリスの存在が、今居る空間から引き離されていく。
 もう目を開けているのかいないのか、それさえも意味を失う白の中でトリスは気を失った。


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