福祉会館・図書室 


星の音が聴こえますか
教えてもっと、美しい音を
耳の聞こえないお医者さん、今日も大忙し
この手が僕らの歌声になる 〜きこえないけど歌いたい
愛、聞こえますか?
あなたに伝えたい
18歳、青春まっしぐら

ミス・アメリカは聞こえない

プライド 

聴覚障害者の心理臨床

遠い声近い声   耳の神秘・聴覚障害の周辺

聴脳力 耳博士がつづる「耳からうろこ」のメディカルエッセイ
「ベートーヴェンの耳」・「本当は聞こえていたベートヴェンの耳」 江時久著


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星の音が聴こえますか

星の音が聴こえますか
松森果林著
2003 筑摩書房

松森さんは、
小学4年生の時に、右耳が聞こえなくなり、
高校2年で、左耳も聞こえなくなりました。
この時期に聴力を失った悲しさや苦しさを読んでいると、
自分の少年・青年時代が思い出される。


でも、私の聴力は安定し、体調のいい時は、
今でも子供の頃とそう変わりません。
それに比べて、松森さんの場合は進行性で、
ついには失聴してしまう。


そんな暗闇を行くような日々を送っていた松森さんに、
日が射してくるのは、大学に入ってからです。
筑波技術短期大学が開学されたのは、彼女が入学2、3年前というくだりを読んで、
その幸運さに良かったなぁ〜と、安堵しました。
大学に入り、同じ聴覚障害者に出会い、手話に出会ってから、
掌を返したように彼女の世界がパッと明るくなります。


聴覚障害者が周囲に理解者を得られるだけで、こんなに変わる、
という事を、多くの方に知ってもらいたい。


聴覚障害についての体験がいろいろ書かれている。
救急車を頼むのに大変だったこと。
韓国で迷子になった友人のパニック。
等など。


体験の話は、そのまま松森さんの人生談というわけで、
今の家族との出会いから、現在の日々に至る様々な様子も語られていきます。
彼女は本当に出会いに恵まれています。
この本を読んだ多くの聴覚障害者はそう思うでしょう。


それだけ恵まれていても、出産や子育ての苦労からは逃れず、
この辺りは、聞こえない人にも聞こえる人にも参考になる。


聞こえないお母さんと話せない赤ん坊が手話でコミュニケーションを取り出すほうが、
聞こえる親子の会話によるコミュニケーションより早い。
ああ、そうなんだ!(笑)


家族とともにいると本当に書くことにきりがないほど、
いろいろあるのは、私には大いに頷けました。
いい事ばかりでなく、ね。


それから、香りについての話は、私にとって、目から鱗!
この辺りは、あなたが読まれるときの楽しみとして、
書かずに、残しておきます♪


ユニバーサル・デザインは知っていましたが、
ユニバーサル・サービスは、今更ですが、(^^ゞ
この本で初めて知りました。


視覚障害者と松森さんとのやり取りの後に、
次のように書いてある。


「武者さん(視覚障害者)の周りには、空間がある。
私の周りには風景がある。
どちらも完全なものではないけれど、
それぞれの感じることを合わせたら、
人が普通に見聞きするもの以上の世界になるのではないか、
そしてそれは本来誰もが感じ取れるものなのかもしれない、
とも思う。」


聞こえる人にも聞こえない人にも読んでいただきたい。
どなたにも何かしら得るところがあります。

2003.11.8 記


教えてもっと、美しい音を


教えてもっと、美しい音を
松本江理著
2003 アーティスト・ハウス

聴導犬・美音と過ごす幸せな日々


松本さんは、
4歳の時に、はしか、そして突発性肋膜炎に罹り、
その影響で、中学の時からだんだん聞こえなくなり、大学生の時に、完全に失聴しました。


中途失聴者の気持ちが紹介されています。
その「聞こえないこと」の怖さは、
小さい時から難聴の私には、さほどわかっていません。(^^ゞ


松本さんの家族や身のまわりの人の心温まる支えを読み、
「聞こえないこと」を、自分も周りも受け入れる大切さは、
どの聴覚障害者も変わらないな、と再確認させられました。


さて、結婚するにあたり、家族と離れる事となり、
福祉機器の「日常生活用具」を使用してみると、
これが、松本さんには、不安の材料。


「お知らせランプ」に頼る生活は「お知らせランプ」に縛られる生活で、
「もっと、自由にしていたい」と、松本さんは切に願うのでした。


雑誌で、聴導犬の存在を知り、デモンストレーションを見に行く。
さっそく、係りの人に問うと、
「特に待っている人がいないので、いつでも引き受けます」

視覚障害者で希望する人が多く、長い間待たされる盲導犬とは大違いです。


折りよく、向かいの家で生まれたばかりの柴犬のメスを、
生後6ヶ月飼い主として育てた後、
オールドッグセンターに6ヶ月間、訓練のため預けます。


選ばれた犬の名前は美音(みお)。
センターでは20年ほど前から聴導犬の訓練をしていますが、
それまで7頭の犬が聴導犬の認定を受けています。
聴覚障害者の依頼で聴導犬の訓練が行なわれるのは久しぶりとの事。

1992年に認定された7号の後、
美音が、8号として1995年に認定されます。

「身体障害者補助犬法」が制定される、7年前の事です。


最後の訓練が終って、最初の朝。
松本さんは、すごい衝撃で目を覚ましました。

目を開けると、松本さんの上に乗った美音が一生懸命ふとんをはいでいるのです。


さっそく外へ出かけ、少し行ってから、ふと、気づきました。
「私たちって、普通の犬の散歩にしかみえないんじゃない?」

盲導犬はハーネスをつけて歩いているので、仕事をしていることがひと目でわかります。
それに対し、美音にとって、聴導犬の目印になるのは、目立たないものばかり。

近所のスーパーのドアに貼られた「盲導犬入店可」の青いステッカーを見ながら、
恐る恐る入っていきます。

文字通り前人未到の道を歩む先駆者の苦労が始まりました。


どうしてもお店に入れない時や乗り物に乗せてもらえない時のために
ペット用のバックを持って歩く。
11キロの美音をかつぎながら、
美音を堂々と歩かせてあげられない申しわけない気持ちでいっぱいの松本さんです。


美音との行動範囲が広がっていくにつれ、ますます、パッと見て、
「聴導犬」とわからないと困る、と思うようになりました。

そこで、アメリカの聴導犬が身につけているケープを思い出し、
犬用のレインコートの作り方を参考に作り。
胴体部分に油性インクで「聴導犬」と書きました。

このケープは絶大な効果があり、
それから、3年以上、支給が始まるまで、
美音は松本さんの手作りケープであちこち飛び回わる。


きちんと説明すれば許可が出る、という事から、
「知らない」ことが「入ってはだめ」「乗ってはだめ」の理由になっている場合が多いことにも気づき、
聴導犬のことを説明した小さなリーフレットを作る。

その実行力、静かに頭を垂れるしかない。


パソコンが普及し、インターネットの時代が幕を開けました。
早速、ネットで「聴導犬」を検索してみる。
「やっぱりね。ないならなおさらやってみたい」
そうして、HPを作りました。


松本さんには、「聴導犬ユーザー」という肩書きがつき、
「聴導犬についての話を聞かせてもらえませんか」という話が舞い込み始める。

いろいろなところで、聴導犬を紹介する生活が始まったのですが、
いい事ばかりではありません。
マスメディアとりわけテレビ、と接していくメリットとデメリットを考えさせられ、
自分で発信していくのが一番いい、と思うようになりました。


結婚して2年近く経ち、子どもを授かる。

出産する病院を考えます。
少なくとも、美音を受け入れてくれる病院で、
できれば耳鼻科もある総合病院にしよう。

選ばれたのは、聖路加国際病院。
出向いてビックリ。
「当たり前のことですからどうぞ」という病院の姿勢が自然に徹底して、表われています。


訓練で赤ちゃんの泣き声を教える事を覚えてきた美音は、
4年近くもその仕事をする機会がなく、不思議そうに起き上がって、ベビーベッドを見上げるだけ。

アメリカやイギリスでは、
最後まで訓練センターが聴導犬に対して責任を持つようになっていますが、
日本ではこれまでそういうシステムがなく
困った時は、訓練士に個人的に相談するよりほかはありません。

2002年10月に施行された「身体障害者補助犬法」では、
聴導犬に認定されたあとも定期的なチェックと、必要に応じた再訓練が義務づけられました。


退院前に一晩だけ、夫と生まれたばかりの子ども、そして美音と過ごす。
赤ちゃんの夜泣が心配で、主人だけでなく看護婦さんにも頼む。
でも、
夜更けに、美音はきちんと自分の仕事をこなしてくれたのです。
夫は寝たまま 看護婦さんの姿もありませんでした。


松本さんは、時々
「聴導犬をいつから使っているのですか?」と質問を受けることがあります。
そんな時はつい、「使っているつもりはありません。聴導犬と一緒に暮らしています」
と答える。

美音は私にとって心強いパートナーだという思いをわかってほしい、の一心です。

2003.8.1 記



耳の聞こえないお医者さん、今日も大忙し


フィリップ・ザゾウ著
2002 草思社


アメリカの重度難聴者で、家庭医療専門の開業医であった著者が、
自らの生い立ちと医者になるまでの経緯、
それと、開業医としての日々とを、交互に書いた本です。


1951年生まれの著者は、保育園の園長さんによって難聴である事を発見されました。
「人間がふつうきくことのできる音域の、
いちばん低い部分しか聞こえない。
しかも、その周波数でも、50デシベルというかなり大きな損失がある」
サイトメガロウィルスによるものではないかと、思われる。
著者の聴覚障害は、蝸牛の損傷が原因と結論付けられます。


ろう学校が遠い事とそこでの教育レベルが概ね低い事から、
地元の公立学校の普通学級へ通わせることに、両親は決めました。
その一年生になって、
「本を読むことでまったく新しい世界がひらけた。
言葉の世界だ。それまでは読唇術で学んだ言葉しか知らなかった。
だが本を読みはじめると、語彙はかぎりなくふえていった」。


様々な経験をしながら成長していく過程には、
頷けることも、アメリカならではだなと思わせることもあります。


「両親がともに医者であるわが家では、
妹もわたしも大学へ行くようすすめられるどころか、
行くのがあたりまえと思われていた。
わたしがろう者であるにもかかわらず、
両親はほかの進路など考えてもいなかった。
それまでも聴覚障害というハンディを克服してきたのだから、
大学でもそれができないはずがないというのだ。」


充実したノースウエスタン大学での4年間の、最後の年に、
医学部入学への厳しい試練が始まります。
最初の年は、どこも受け入れてくれず、
翌年また挑戦します。
家族の伝統も後押して頑張るも、面接が最大の難関。
必死の説得にも関わらず、不合格か補欠の通知しか来ません。


「わたしは医者になりたかった。だがこれほどいらだちを感じながら
それを追求する価値が、はたしてあるのだろうか?
20年間闘いつづけて、もう疲れてしまった。
面接を希望している最後のふたつの学校、
ラトガーズとジョージタウンへ、わざわざ飛行機代をはらって行くべきかどうか考えた。
しかし、選択の余地はなかった。
ここまでがんばったのだ。最後までやりぬくしかない。」


この時、難聴の医学生である先輩に会い、惜しみない援助を受けます。
ラトガーズの面接で、はじめてフェアな面接をしてもらったと感じられました。
次の面接で、ワシントンDCに行った時、
ろう社会で重要な役割を果たしている二人の人に会い、
励まされ、経験を本に書くようすすめられます。


6週間後、待望の手紙を受け取る事が出来ました。
「医学部へ行くチャンスを必死で求め、
医者になれる日がはたしてくるのだろうかと心配した、
あの遠い日々のことは決して忘れない。
あきらめなくてよかったとつくづく思う」


その後も、著者の挑戦は続き、
数々の場面を試練として乗り越えていきます。
どこからも窺える著者の積極性を、読み取っていただきたいと思う。


「自分が聴覚障害者であることを、患者にはわざわざ知らせない。
相手の言っていることがよくわからなかったり、
きかれたりすれば話す。
患者がそれを知ったために問題がおきたことは一度もない。
そのことが気になるかとはっきり患者に聞いたことも何度かある。
するといつも、医学部を卒業できたのだから医者としての能力に問題はないはずという主旨の答えがかえってくる」


ラトガーズ・メディカルスクールで、二年間好成績を取った後、
全国でも有数の医療機関であるワシントン大学へ進みます。


そこで、家庭医療を専門にしようと決めます。
この選択は、ご自身の聴覚障害と密接に絡んでいる。


手話やろう者の社会などについての、著者の考えも書いてあり、


「ろうの専門家は、著者が聴覚障害者なのに医者になれたことに驚く。
そしてたいてい、なみはずれて優秀だったからだろうという。
それが事実ならうれしいが、
たぶんそうではなく幸運な状況が重なったおかげだろう。」


とありますが、幸運だけでは医者になれず筈もなく、
やはり、著者の弛まない努力と周りの人々の協力の賜物だと思う。


結婚や開業医として任地をユタ州に決める辺りの和やかな筆致、
病気の処置の事例も無論、患者の人柄のユーモアある描写もあり、
大変興味深く、楽しく読める部分も十分にあります。


聴覚障害は様々で、深く広い世界です。
同じ聴覚障害者で、お互いが良く理解できているかと問われば、
正直言って残念ながら、まだまだの感がすると、答えざるをえません。


それでも、共感できる部分があって、
それぞれが自分一人だけでないと思え、大変気が楽になるものです。


私は、中等度難聴者です。
そのこともあって、
次の著者の言葉は、大いに頷きながら読みました。


「わずかではあるが、聴力が残っていることは幸せだと思う。
おかげで音のある世界の一部を経験できる。
だが、そのためにかえって苦労することもある。
わたしはアメリカ社会の主流派にいるため、人はわたしが理解できる以上のことを期待する。
とくにそれが、顕著なのは、おおぜいで話しあいをするときだ。
わたしが話についていけないとーついていけないことが多いのだがー当惑する人もいる。
多くの専門家、それに聴覚障害者とかかわる人たちは、
全ろう者より難聴者のほうがいろいろな面でやりにくいと指摘している。
全ろう者は手話しか使わず、ろう社会の一員となる。
しかし、難聴者はどっちつかずになりがちだ。
ろう社会に完全に入りこむことはできず(手話が使えない場合はとくに)、
かといって健常者の社会にとけこむのもむずかしい。
いわば、八方ふさがりの状況だ。」



聴覚障害者の世界はまだまだ知られていないことが多く、
手話にしても、サークル等で教えられる手話は日本語対応手話が多いようですし、
教育にしても、ろう教育の見直しや、インテグレーションの流れにある通級制難聴学級の問題もある。
でも、少しづつ知り合えることで、
聞こえる人聞こえない人お互いの、
行違いを減らしていきたいと切に思う。
2002.8.30 記
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この手が僕らの歌声になる 〜きこえないけど歌いたい


南 留花 著
2001 ヤマハミュージックメディア

 

「きいろぐみ」主宰者による著書です。
内容は、大きく分けて三つの部分から成り立っています。

前、三分の二くらいは、
著者が書いている地の文章と、
著者が「きいろぐみ」のメンバーにインタビューしたものとが、
交互に載っています。

そして、最後の三分の一が、
手話歌レッスンと題し、
「星に願いを」を例にして、
手話歌に至るまでの過程で、彼らが大事にしている事を書いています。

三つの形を通して、メッセージを伝える構成で、
なかなか旨い!
他にも、アンケート報告や、彼らの履歴などがあります。

 

正直に言うと、
著者の夢についてのモノローグからなる出だしが馴染めず、
なかなか先へ読み進む事が出来ませんでした。

 

それで、メンバーへのインタビューを先に読み出すと、
これが大変興味深く、一気にこの本の世界へ入り込めました。
様々な人が、それぞれの人生を語り、
それを読んでいるだけで、いろんな事を感じ、考えさせられます。

聞こえない人も聞こえる人もいるし、
大学生や、会社に勤務している人、
子どもと一緒にメンバーになっている主婦もいる。

会社を辞めて乗り込んだピースボートで障害を受け入れた人や、
消防士で阪神大震災の救援に行った人もいる。
手話通訳士や養護学校教諭(なんと「ひよこっち」代表)もいる。

若い聴覚障害者や聴覚障害に関心のある人たちに、
是非読んでほしいところです。

 

その後から、著者の文章を読みました。

大学卒業時に思ったことが、大きなターニングポイントになっていて、
ここで、私は思わず唸ってしまいました。

「きいろぐみ」の活動を通して、
聴覚障害を見る社会が浮き彫りにされています。

誤解や行き違いも、肯定的にとらえて前へ進む「きいろぐみ」の姿勢が、
パワフルで、
ちょっとタジタジにさせられるくらい。

又、「きいろぐみ」の活動に付随する活動からも、
彼らがやろうとしていることの難しさ、奥深さを読み取る事が出来ます。

でも、逃げないで。
彼らの姿勢は、とても柔らかい。

おっかなびっくりの初心者には、分かるところ・できるだけでいいよと優しく、
これでいいんだ!と、思い込んでいる人には、そうじゃないよって、しっかりたしなめる。

 

この懐の深さの真骨頂が、
最後の「手話歌レッスン」をユニークなものにしています。
先の三分の二を読んだ後、この部分を読み進むにつれ、
ニヤニヤしてしまいました。

 

手話歌の世界の奥深さを垣間見せてくれて、
自分のいい加減さが嫌になりました。

でも、
彼らの実践から広がる世界の中で、
あなたもきっと何かを得られるのではないかと思い、
一読をお奨めします。

 

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愛、聞こえますか?

忍足亜希子
2001 光文社

 

私の文章と、
忍足さんの文章とを、
合わせて、おります。

6月10日は誕生日。(30歳)でした。

映画「アイ・ラヴ・フレンズ」がもう直ぐ出来上がりますね。
その映画のお話があったとき、
次のように書いています

もし、『アイ・ラヴ・ユー』の続きのような雰囲気だったら、
ちょっと遠慮しようかなと思っています。
私としては、今度は全く違った内容のものを見せたほうが
新鮮でいいかなと思うんです。
いろんな方の意見を聞いて、
次の映画は、前作を補うような形のものができるといいな
と思っています。
たとえば、視覚障害の方も大勢、見てくださったというので、
次回は映像を説明する副音声を入れるのもいいんじゃないかな
と思ったり。  (お仕事)

で、主演を演じることと相成りました。
実は、
ほんとは、脇役をやりたかったんです。
役としてやってみたかったんです。
助演でも素晴らしい役をやっている人もたくさん見ているので、
そういうのを学びたいと思っていたんです。   (脇役

映画「アイ・ラヴ・ユー」が上映されしばらくして、
テレビドラマに出られたのはご覧になりました?
そのとき、
(テレビ)ドラマって、映画とはいろいろ勝手が違うって、
最初は戸惑ってしまいました。(初体験

<この章、中途失聴を、中途失調と記しています。
こんなにあったら誤植じゃなく、明らかに校正の間違いですね。
他ならぬ忍足さんの本でこんな事があるなんて非常に残念!!!>

このテレビドラマの時のお顔、ぽっちゃりしてたでしょう?
ご自分のお顔についてもしっかり書いてました。(^o^)
私は、太ると顔に出るので(ダイエット)
眉毛もけっこう濃くて太いので、描かなくてもOK。
今は気にして、カットしてますけど、
実は、なかなか立派な眉なんですよ(笑)。(日焼け

今度の映画で成長した忍足さんに会えるのが楽しみですね。
女優業については、次のように記していました。

新聞記事などで、時々「私の目標は、マリー・マトリン」って書かれることがあるんですけど、
実は、そんなことは一度も言ったことないんですよ。
たぶん、マリー・マトリンが私と同じろう者なので、
記者の方が勝手にそう思い込んで書いてしまうのかもしれませんね。
私が本当に憧れているのはやっぱりメグ・ライアン。
もっと演技が上手になっていい女優になれたら、
私の名前にいつもついてくる“ろうの女優”という言葉はなくなるのでしょうか。(憧れ)

ろう者としての様々な問題点についても、触れています。

部屋を借りる時、「私はろうです」と、言っただけで
断られることはよくあります。
結局、コミュニケーションができない、と思われてしまうんですね。
書けばいいだけなんですけど…。(ひとり暮らし)

朝、家で意識不明で転倒。
救急車に乗せられていた
救急隊員には、私がろう者だとはわかったようなのですが、
私の名前を聞き取れなかったようで何度も確認されてしまいました。
お母さんがついてきてくれたのでよかったんですが、
病気の時って、筆談しようにも、書く力がないことが多いでしょう?
せめて指文字ができるといいなと思いました。(救急車)

私のバッグの中には、いつもメモ帳が入っています。
電車に乗ると、知らない人との接触の機会がたくさんあります。
そんな場で、メモを取り出しても何の違和感もないぐらい、
聴者の方がメモに慣れてくださればいいのになぁって思います。 (メモ)

忍足さんの文章は、話し言葉で通しています。
何気ない書きっぷりですが、
ろう学校では、言葉の練習ということで、読んだり書いたりする訓練をすごく厳しく教えられます。音が入らないと、単語は理解できても“てにをは”の使い方がわからないんですね。
だから、文章の練習も厳しかったし、とにかく「本を読みなさい、本を読みなさい」と何度も言われます。それが嫌で、私はいつも漫画ばかり読んでいました。
お勧めの漫画は「バナナフィッシュ」。私は全巻もっています。(読書)

最後に、忍足さんのお話というよりは、
お知らせとメッセージとして、

ろう者だけが出場する“オリンピック”があるんですよ。
パラリンピックとは違って、世界ろう者スポーツ大会というのがあるんです。
やっぱり4年に1回で、来年
(2001年)、イタリアで開催されます。
スキーのジャンプ競技には、難聴の選手がいましたね。
高橋竜二さん。'98年の国際大会では、スゴイ記録を出して、
他の五輪選手を抑えて優勝し、
長野五輪には、テストジャンパーとして参加しています。
聴者であれば、親は、積極的にその才能を伸ばそうとするでしょう?
でも、ろう者の場合、ろうとわかった時点で、かわいそうだと思ってしまって、
親がその子の才能を伸ばしてあげようという気持ちをわすれてしまうんじゃないでしょうか。
スポーツだけでなく、いろんな可能性が子供にはあります。
ろう者にも聴者と同じように、
才能を伸ばす教育がもっと当たり前にあっていいのにって思います。
  (オリンピック)

各章には、忍足さん自筆の手話紹介イラストが載っています。
是非、この本を手にして、合わせてお楽しみください。

ここでは、ちょっと生真面目な内容のものが集まっていますが、
ほとんど肩のこらないお話です。

先の『女優志願』よりは、ゆっくり楽しめると思います。

 

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18歳、青春まっしぐら
 音のない世界に生きる

今田真由美著
2001 ポプラ社


表紙の金太郎さんみたいなお顔を拝見して、「ヤァ君でしたか」。
「NHK青春メッセージ2000」で大賞を受賞した今田さんが書かれた本です。
テレビでお会いしてる方、多いと思う。
彼女のあの短いメッセージの中にこもっているものを、
楽しくゆっくりと聞かせていただいたような読後感でした。

父母共にそれぞれに耳が聞こえず、
そのご両親の経験を生かして、
彼女の養育がなされており、その様子が書かれています。
文字通り、出来る限りの事をして、子どもに言葉を、情報を注ぎ込まれて、
聴覚障害を持つ親御さんへのヒント・励ましになると思われます。

口話教育のやり方も具体的に書かれています。
本当に大変。
この口話教育について、本の終わりの方で次のように書いています。
「口話ができるようにならなければ、しなければ、しなければ…と、
健常者の生み出した強迫的な概念に、そうとらわれる必要はないと思います。」
「私は、口話よりも手話を通じて知識を学ぶことのほうがずっと意味があると思っています。
知識があって、初めて口話が役に立つのではないでしょうか。
ただ口話ができるだけでは、かたちだけ健常者になろうとしている事と同じだと思います。
口話ができれば、健常者と話す機会が増えて有利な面も確かにありますが…。
口話を身につけるより、その人が社会的に自立するように文章力をつけたり、
これからは、幅広い知識や教養、専門分野での技術や技能を目指すべきだと思います。」

彼女は、聾学校の教師を目標にしています。
(意識して、夢ではなく目標としています)
その目標に向けて歩き始めた原体験についても触れています。
「その瞬間に、私が将来、この社会でなにをしなければいけないか、
ということが、おぼろげながら見えてきました」
小学校6年生の時です。

彼女は、天邪鬼で、意地っ張りですが、
それだけに止まらず、
明るく、吸収力旺盛で、柔軟な心を持っています。
素敵な周囲の仲間に見守られながら、自力でぐんぐん成長する若い力が、
描かれているのは、今のタイミングで書かれているからだと思われます。
そういう意味で、若い聴覚障害者達に読んでもらえたらいいですね。

又、大人たちには、
今、このような若い聴覚障害者たちが伸びてきていることを真摯に受け止めて、
新たなサポートを始めて欲しいと痛感します。

私の年代では、どうしても突っ張ってしまい、摩擦を引き起こした、
この前向きな気持ちは、現在、時代をリードしていく力となるはずです。

文章感覚が優れており、今風の破調も取り入れて鮮やかな本に仕上がっています。

 

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あなたに伝えたい
   (手話はどこまで話せるか)

永六輔著
2000 大和書房

 

NHKの手話ニュース845のコラム「手話放談」で、
永さんの話を丸山浩路さんが同時手話通訳したお話が、本になったものです。

話題は、耳のことは勿論、四季の話から、時事、文化に至り、
幅広く、取り上げられています。

最初は、ものすごくおかしくて、腹を抱えながら笑ってしまえる本です。
でも、ちょっと間を置いて少し考えると、いろんな事を考えさせられます。

 

日頃多くの人が何気なく交わしている会話の中に、
言葉にならないで含まれているものが、
いかに多いか、気づいてしまいます。

そこを補いながら手話通訳するので、大変なわけですが、
手話を知っている永さんだからうまく逆手にとって笑いの種にします。

例えば、
「みなさんが、「私、丸山さんのようにできないんですけど」って、
よくおっしゃるんです。
アレッ、丸山さん、「上手に」って、今、勝手に手話につけてませんでしたか(笑)。
(丸山 あっ、わかりました?)(笑)」

こんな身近な例から、都々逸、駄洒落に至る奥深い例まで次々と、
二人が手話通訳に挑戦した記録が、この本ともいえます。

 

手話を知らない人には、
手話の限界を知っていただけると思います。

手話を知っている人には、
いろんな受け取り方ができるでしょう。
真面目な方にはちょっとしんどいかもしれないけど、
チャレンジして、創意工夫をすれば、
相手が言ったことよりも相手の心を伝えるようになるのだろうと感じます。

 

伝えたくて、伝わらない事を、事ある毎に考えさせられると、
いろんな思いに落ち込みます。
受け取る方も、うまく受け取れなくて考えてしまいます。
悶々として、ふと気づきます。

伝えることを安易に考えるから、こうなるんだ.
伝えることがもうちょっと複雑に行われていることを、
自覚していれば、道は開けるのでは?

伝える内容をよく吟味して、
時と場合に応じた伝え方を選び抜いて、
心を込めて伝える。

難しく考え過ぎても駄目。
失敗を恐れず、
自分に厳しく、相手に優しく試みていけたら、いいなと思う。
最初からうまくいけば、誰もこんな事で悩まないのだから。

 

永さんの、「おわりに」を読んで、
いつかインターネットの書き込みで読んだことを思い出しました。
健聴者が書くに、
自分の手話の方を見ずに、目ばかり見られていると。
それに対し、手話を受け取る方からの返事は、
「そんな事ないよ、相手の目をしっかり見てると自然に全体の中に手話が見えてるよ」。

 

あなたもいつかどこかで、手話の世界へどうぞ。
きっとあなたの人生に素敵な彩りを添えてくれることでしょう。

この本の中に、オンエアされなかった話がひとつ入っています。
やはり、恥ずかしくて紹介できません。(^○^)

最後になりましたが、ご覧の方の中には、
私の手話がどれほどのものか、ご存知の方もいらっしゃるはず。
そう、ろくに出来ません。
でも、ちょこっとは知っています。
めくら蛇に怖じず、書いて,
あなたにこんな本があったよって、伝えてるだけ。(^^ゞ

 

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ミス・アメリカは聞こえない


ダフネ・グレイ著
2000  径書房

 

1994年のミス・アメリカに、聴覚障害者が選ばれた事は、ご存知でしょうか。
当時は、大変話題になりました。
このミスアメリカに選ばれたへザー・ホワイトストーンさんの、お母さんが、
娘の誕生から受賞に至るまでの経緯を記した本です。

1973年2月24日に生まれた三番目の娘が、翌1974年9月に高熱を出しましたが、
医師の診断が後手後手にまわり、切羽詰ってようやく抗生物質の注射を打って貰うことが出来ました。
後に、判明したところによると、ヘザーが感染したのはH型のインフルエンザで、
脳障害の原因となる可能性があったのですがそれだけは運良く免れたものの、
耳毒性(訳注ー聴覚器官に及ぼす毒性)があることで知られる強力な薬、ゲンタマイシンが原因らしく、
聴覚に障害を受けたのです。

オーディオロジスト(訳注ー聴力検査技師)の詳細・綿密な二日間にわたる検査結果を聞いたお母さんは、
オーディオロジストに向かって説明を求め、聞いているうちに、こう話に割り込んだのです。
「もうけっこうです。・・・。まず、なにからはじめればいいのかを教えてください。
ここをでて、まずなにをすればいいのですか」

オーディオロジストは、州の教育委員会の担当者を紹介します。
彼に聞けば、地元でどのようなセラピーや特殊教育プログラムが行われているかがわかるといいました。
また、子どもの残されたスピーチ能力を最大限に活用し、維持していくためにも、
なんらかのスピーチ訓練をはじめることが必要不可欠で、
セラピーの効果を高めるために、少しでも早く補聴器をつける必要がある、とも言いました。
そのうえで、言語発達の環境を整えてあげることが大切なので、
手話の本を買い、子どもとのコミュニケーションを確立していく必要があることも説明しました。

このくだりを読んで、私は目を見張りました。
私の乏しい見聞では、日本でこれだけのサポートを即座に受けた話を聞いたことがありません。
アメリカでは、オーディオロジストの存在が大きい事は、
高橋真理子さんの「アメリカ手話留学記」で、知ってはいたものの、
実際ここまでやってくれるなんていいなぁと、思った私は、
この本を先に読み進んでもっと驚かされました。

お母さんの奮闘についていくのが精一杯です。
図書館に行き、一冊の雑誌を見つけ出します。
アレクサンダー・グラハム・ベル協会(ろうのこどもをもつ親のために資料やサービスを提供している非営利団体)が発行している「ボルタ・レビュー」の中で目にした
「ジョン・トレーシー・クリニック」の広告を見て手を打ちます。

「ジョン・トレーシー・クリニック」は、ロサンジェルスにあって、
ろうのこどもをもつ両親に無料の通信教育をしている団体です。
私は、この団体の事を大庭洸子さんの「天子の住む町」で始めて知りました。
もっと詳しいことを知りたい方には、
「母と子の聞こえの教室」という本が福村出版から出ている事をご紹介します。
(この本については、「REI’S READING ROOM」というHP(http://www.ne.jp/asahi/bellnet/study/)で知りました。深澤 怜さんに、お礼申し上げます)

又、一夏かけて聴覚障害児の教育プログラムの立ち上げを画策しました。

このお母さんも、手話か口話か、悩みます。
そんな折、人づてにフロリダ州立大学(FSU)の地域リハビリセンターで行われている聴覚スピーチクリニックを紹介されます。
FSUの夏の家族ワークショップを受けた後、
医師から現在ろう教育で使われている、大きく分けて五つあるアプローチが、
選択肢としてある事を教えてもらいました。

そして、聴覚法と言われるものを選びました。

ヘザーが幼稚園に入る前に、ダンスを習わせることを、お母さんは思いつき、
これが、後年ミスアメリカへの一つの布石になります。

幼稚園・小学校へと進み、学年が上がるにつれ、困難に出くわします。
学習の遅れや、ヘザーの成長に伴う聴覚障害の自覚などです。
お母さんは、再びフロリダ州立大学へ助言を求めました。

そして、「ろう中央研究所ろう学校」(CID)に、ヘザーを連れて行きます。
結局、この学校で言語集中教育を三年ほど受けて、へザーは驚くほど進歩しました。

CIDを卒業したヘザーは、地元の高校へ進学しますが、色々紆余曲折があり、
聴覚障害者としての自覚を高め、手話も習いだしました。

この辺りからは、ヘザー本人の自叙伝を読みたくなるくらいに、
お母さんを置き去りにするように先へどんどん進む感じになっていきます。

CIDへ行く頃から、ヘザーのためにかかるかかる費用が家計を圧迫するようになり、
お母さんの離婚も絡んでお金の苦労が続きます。
そうして、迎える大学進学の際、人から奨学金の出るミス・コンテストを進められました。

進む大学を自ら決めたヘザーは、積極的にこのコンテストへも参加していきます。
このコンテストの間にも、ヘザーは加速度を増しながらどんどん成長していきます。
この後のドラマは、皆さんが本を読まれるときの楽しみに残しておきましょう。

 
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プライド 

米内山明宏著
2000

 

映画「アイラブユー」の共同監督として、その手腕を大いに発揮された米内山さんの著書です。
米内山さんが今までの人生の中で出会い、自分を変えてきたものについて述べています。

最初に、ご両親の生き方が記され、ろう者であっても、誇りを持って生きている態度から、
多くの事を汲み取り、私たちに教えてくれます。
そうして,ろう学校での出来事の中で次第に変わっていく著者についていくうちに、
私たちはろう者のこれまでの苦労や悲しみを、なにほどか知らされます。

文楽から人形師大江師匠との出会い、そして折にふれ絵画が米内山さんを励まし救っています。米内山さんの絵は、日展に入選したほどの本格派。
その次に,寺山修司さんとの出会いから,ナショナル・シアター・オブ・デフ(NTD)を通して,
東京ろう演劇サークルの旗揚げと連なっていきます。

この辺りから,米内山さんの人生は加速の度を加えていきます。
周りの人の応援も次第に熱を帯び、
NTDの研修でアメリカに渡りました。
アメリカで、寺山さんに再会したり、NTDの正式メンバーに選ばれたりしました。
このメンバーになる時に黒柳徹子さんが一役かんでいたのですね。
ここから、米内山さんはプロの役者です。
米内山さん自ら武者修行と名打ったアメリカでの公演で多くのものを吸収しました。

それから、米内山さん自らの世界を作り上げていきます。
「手話狂言」、「カスパー伝説」(これは、寺山さんの遺志を受け継いだもの)などを経ていくうちに、
米内山さんの中で手話が一層意味深いものとして見えてきたようです。
最後の一章で、映画「アイラブユー」にまつわるいろんな話を聞かせてくれます。

エピローグで、米内山さんのライフワークと言っていいのでしょうか、
「終着駅への軌跡」に、ついてふれています。
これからの米内山さんの活躍を大いに期待したい気持ちで一杯になりました。

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聴覚障害者の心理臨床

 

阪神大震災や、地下鉄サリン事件での、心のケア。
それからいじめ等に対する処置としての、学校カウンセラー。
このように、心の問題についての社会的関心は大変高まってきていますが、
聴覚障害者の、心理臨床については、この本が初めてだそうです。

自ら中途失聴者でろうあ者相談員の方を初め、
ろう学校の教諭、精神科医、心理士、
大学の教授・助教授ら九名が執筆した文章が収められています。

この本で、初めて知り驚いた事を書き出せば、かなりの分量になりますし、
部分引用も、書評も、しては失礼になるというか、
誤解を招くのが怖いくらいの内容にあふれています。
また、聴覚障害者の一員として、同感したり、立腹した事例も書かれています。

インターネット上で、さまざまな話を読むにつけ、
何とかならないかと歯がゆい思いをする事が大変多いのですが、
その中の幾つかは、カウンセラーを受けて、
心の痛みを少しでも和らげれたらいいのにと、思わずにはいられません。

さらに、中のニ三の事例を読んで、
問題点がわかった時、当事者達の誤解が解けて、
問題解決に向けて事態が進展する事が分かります。

心の悩みを専門家に話して解決してもらうという意識は、
日本人にはまだまだ乏しいし、
聴覚障害者自身には、なおの事、難しいように思われます。

先にあげた、インターネット上における聴覚障害者の書いた文章を読んでいると、
そんなに自分を責めないでもいいのにとか、
どうして周りの誰も、一人も、話を聞いてあげられないのだろうかとか、
地団駄踏む事が、しょっちゅうです。

聴覚障害者の問題で、本人だけの問題というのは、思いの外少ないと私は思っています。
ですから、聴覚障害者本人だけでなく、
その周囲にいる全ての人にこの本を読んでいただきたいと、切に望みます。

それから、あのギャローデット大学で
臨床心理学の博士課程が設置されたのは、1990年で、
そこではろう者自身が精神保健の専門家になるための勉強をしているそうです。
まだまだ、始まったばかりの学問領域ですが、
現実に対しては大変遅れている学問領域だと感じられます。

難聴者として四十五年近く生きてきて、
インターネット上で若い聴覚障害者達の深い悩みを読み、
この間、時代はどれぐらい進んだのだろうか?
と、暗澹とした気分に陥ってしまいます。

せめて、明日には、次の世代には、
今より、ましな人生が送れるような世の中にしたいですね。

補記
この文章を書いて後に、
日本からアメリカに留学していて、
デフカウンセラーになりたい人のHPを見つけました。
その心意気や良しと、陰ながら、応援します。

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遠い声近い声   耳の神秘・聴覚障害の周辺

黒川美富子著
2000   文理閣

 

聴覚障害について、随分多くのことを、大きく教えていただいた本です。
著者紹介を見て、なあるほど!と納得しました。
聴覚障害に関する本を何冊も出版している文理閣を、創立した方です。
ご自身も、聴覚障害者でした。

随分、話が、幅広く、多くありますので、まとまったご紹介はできません。
おそらくどなたにも、
何か新しく知ること、又、勇気づけられること必ずあると、確信します。

順を追いながら、私にとって、特に印象に残った部分を取り上げていきます。

 

U 耳の神秘

耳のしくみを、最近の学問の成果をふまえて紹介しています。
この中で紹介している「耳は何のためにあるのか」という本は、
ちょっと難しいかもしれませんが、推薦します。
化石骨の研究者が、原始的な爬虫類から哺乳類に移行する段階を識別するのは、
実は耳の骨だけが頼りであるというのは、
どなたも、目から鱗が落ちる思いがされるのではないでしょうか。

V 歴史の散歩道で出会った人

歴史上の、耳にまつわる人・本等を紹介しています。
「旧約聖書」からはじまり、
誰もが一度は聞いたことのある人の何人かについて、いろいろ書かれています。
我が名の由来「聞き耳ずきん」もでました。
私がこの名を選んだのは、自分が補聴器をつけているのと、
健聴者に私を通して聴覚障害者の声が少しでも届いて欲しいという気持ちからです。
でも、心の美しさや自然への畏敬の事までは、頭が回りませんでした。
耳なし芳一・戎と耳の地蔵、ベートーヴェン、ゴヤ、富岡鉄斎、松本竣介、村上鬼城、
ヘレン・ケラー、・・・。
本当に多い。
しかし、この章の最後に会った「ストマイ薬禍」の話は、初めてでした。
ちょっと引用します。

「命」と引き換えに「聴力」を失うと言われても、
何か納得できないものを感じるのは、
私自身もストマイや中耳炎による難聴を体験しているからでもある。

ストマイの聴覚への副作用は発売当初から明らかであった。
浅田(元宇多野病院呼吸器科医長・京大の結核研究所時代から長年、結核治療に当たる)さんの経験では、
定期的にオーディオ・メーターで検査して、投与量を加減していったという。

「戦後薬害問題の研究」で高野哲夫さんは、
「ストレプトマイシンによる聴覚障害は、高音部から侵されるが、
オーディオ・メーターで定期的に検査すれば、
日常生活に差し支えない程度でとどめることができる。
従来からの結核療養所、国立病院などでは、そのようにして障害の発現を未然に防いでいた。
しかし、一般医にはオーディオの設備は必ずしも義務づけられてはいなかった」と書いている。
さらに高野さんは川崎市の青山猛さんの訴訟例を挙げて、問題点を指摘している。
高野さんは、製薬会社の効能書への記載義務違反を問うよりも、
「むしろ医師に対する販売にあたって聴覚障害防止措置の周知徹底をしなかったことを正面から問うべきではなかったか」と指摘している。
「わが国の医療が、病気の治療に向けられていても、
病人には向けられていないということを示すものである」と結んでいる。

W 手話ってすてきな言葉
ここは、手話への誘いを込めた話がありますが、
「診察室と手話」が圧巻でした。

手話のできる医師、間崎民夫・石立クリニック院長さんのお話です。
手話サークルに参加すると、思わぬ強い反応があり、
半年もしないうちに、手話で高血圧の話をさせられることになったそうです。

「手話を勉強している医師がいる」という話は、たちまちひろまり、
ろうあ者の患者が増えて、感じられたことが次のように紹介されています。

ろうあ者は具合が悪くても簡単には病院には行かない。
そのためにかなり重症になってからくるケースが多い。
また、言葉が聞きとれないために、さまざまの情報が不足している。
患者は医師と直に相談できることを求めているのだ。
今日、忙しい現場の医師に手話の学習を求めるのは難しい。
間崎さんは、医科大学などで、選択制でも手話の講座が設置されることを望んでいる。
関心のある学生が若い時代に触れておくだけでも、ずいぶん違うという。
人が最も秘密にしておきたいことのひとつが身体である。

X カラオケだって歌える
ここは、Vに連なるように、音楽・芸術・映画等のお話があります。

そうして、

Y 聞きたい聴きたい

では、いよいよご本人の聴覚障害の経験が語られています。

著者の黒川さんは、慢性中耳炎のために、難聴が進み、「鼓膜形成術」を受けました。
難聴になった時の自分の気持ち等が、手短に分かりやすく書かれています。

著者が聴力回復作戦の出発点と名づけた、「京都市聴覚言語障害センター」の紹介もあり、
このような「聴覚言語障害センター」は、
今、全国のろうあ者や難聴者の運動の強い要望となっています。

聴覚障害者に関する施設はあらゆる面で立ち遅れている。
と述べられています。
無論、岡山でも同様に、要望があるものの、設置への道筋がまだ見えてきていません。

難聴者の白い杖・要約筆記

要約筆記の言葉が広く認知されるようになった流れは、
朝日新聞の投書から始まり、「広辞苑」に掲載されるに至った事知っていましたが、
これが、殆ど京都の要約筆記サークル「かたつむり」会長の西原泰子さんの努力の賜物であると、
紹介されているのにはビックリしました。
二十年近く要約筆記されている西原さんの一言・しぐさ一つに深いものが感じられました。
自宅にかかってきた電話の声から、緊急を察し、手配をし、その後「要約筆記110番」を開設したとか、
いつも、写真のプリントを入れるポケットアルバムを持ち歩き、それをホワイトボードにして、
フェルトペンで大きく書く。
書いた文字はフェルトで作った花形の布でさっとひとふき。
これを、高齢者難聴になっていた自分の母にも、用いている場面を想像すると、
さりげないだけに余計心に染み入りました。

99年4月発売になったばかりの、「骨伝導電話」
全国に一ヶ所しかない「イアーバンク」
等も、ここで紹介されています。

Z 生きる人々
ここでは、著者が出会った市井のろうあ者と、その家族のお話が紹介されています。


スズランの人

聴力は正常で不自由はない手話通訳者が、ある朝、ろう者になってしまいました。
この境さんの場合は普通の人の失聴ではありません。
お兄さんがろうあ者で、彼女も手話通訳者として活動していました。
ろうあ者と最も近い距離にいて手話もできる。
それでも聞こえない苦痛の淵は、恐ろしいほど深かったようです。
(この辺りは、私のように小さい時から難聴であったものには窺い知れないものがあります)
そういう境さんを、自分たちの大切な仲間として引っ張り出したのは、ろうあ者たちでした。
「ろうあ者相談員」の設置が新しく決まった地区で、
札幌市の募集にいち早く彼女を要請しました。

聞こえたよ!

補聴器の進歩で、聴覚障害教育は大きな成果をあげるようになったことは、
私が卒業した難聴学級の子ども達の聴力が私の頃よりも重度に近づいてきていることで感じては、いました。
それが、又、一面で、統合教育への流れを推し進め、
通級制の難聴学級も広げていったのだと認識します。

ろう学校に通っていた、女の子が音を認識できた瞬間、
「音がわかった」「音が取れた」「耳が開いた」という言葉が飛び交った様子が紹介されています。
「音が取れた」「耳が開いた」という表現は初めてでした。読んでて、ジーンと来ました。
ろう学校で地道な努力がなされている様子が窺えます。

しかし、どの子もが、こうはいかないのだなあ、とため息も出ます。
それは、「聞こえない子をもつ親の掲示板」で教えられたことです。
重度の難聴児に強いられる口話法教育のことは、
「我が指のオーケストラ」などで知ってはいても、
実際に現在日々、聴覚活用の限界(困難性)について議論を交わし、
現場でも運動を進めている方々の書き込みを読んで、
問題の広さ、複雑さについ考え込んでしまいます。
今のところ、広義の教育問題と同様に、
それぞれの聴力・性格にあった教育方法が幅広く選択され、
それぞれ十分に受けられるのが、望ましいと思っています。
(まだまだ、勉強中です。
個人的には、難聴児のシュタイナー教育に、関心があるのですが・・・。)

最後に元気の出る二つのお話で、この本の紹介を締めくくります。

五星紅旗の下で育んだ夢

たかみさんは、五歳の時、はしかの高熱で聴力を失ったものの、縁あって、
中国への関心が高まり、早速日中友好協会の中国語講座に参加しました。
中国語には日本語にない特別な発音がある。たかみさんはそれを耳から学ぶことができません。
また自分の発音をフィードバックできないので、発音記号で読み方を頭にたたみ込み、書いて覚えました。
発音は口形や空気の出し方、舌の位置などをマンツーマンで説明してもらって練習したそうです。

初めて中国に出かけたとき、
聞こえない参加者である彼女の方が
結果としてみんなのお世話役を演じるというほほえましい一幕もありました。
その翌年、長春大学特殊教育学院に留学しました。
天安門事件の三ヵ月後、34歳の時でした。
その後、更に北京師範大学で二年間教育学を学び、
38歳で念願の中国でのろう学校教師となりました。

たかみさんの夢はどんどん膨らみましたが、
不慮の事故でついえました。
後遺症で帰国を余儀なくされましたが、
あらたな日中友好に心をくだいておられます。

「身残志不残」、中国語で「身体に障害はあっても、志に障害はない」という意味。
たかみさんが、中国語を学び始めた頃から、胸に刻んできた言葉だそうです。

もうひとつの世界を知る旅 あとがきにかえて

ここでは、次のような事を教えていただきました。

日本で手話は国民の中にすそ野をひろげている。
このことが、99年7月オーストラリアのブリスベーンで開かれた
「第十三回世界ろうあ者会議」で、世界的に注目を浴びた。
障害者に対する施策の進んだ欧米では、程度の差はあれ、
手話はろう者の言語であることが社会的にも、法律的にも認められている。
そのため手話通訳者も他の言語の通訳者と同じような職業的価値を得ている国が多い。
しかし、こうした専門家やろう者を除いて、手話は一般にはそんなに定着していないという。
日本ではろうあ者や手話にたずさわる人々が、「人間的コミュニケーションの保障」を呼びかけて、
手話を広く市民のものにする努力を重ねてきた。
世界でも稀な手話の市民への広がりが注目されたのだという。

 

この本の紹介は、もっと早く、是非したかったのですが、
要約や引用がうまくできず、
著作権上非常に問題の多い文章になってしまいました。
黒川さん・出版社にはお詫び申し上げます。
この文章を読まれた方が、皆このご本を読んでくだされば、それで十分です。
どうか、この文章だけで、判断・再引用なさらないようお願いいたします。

 

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聴脳力 耳博士がつづる「耳からうろこ」のメディカルエッセイ

野村恭也著
2000  ゾディアック

 

この本は、東大に長らく勤務され、名誉教授に至った著者が、
現役を退いて書かれた短文を集めたものです。
一読して、一番心に残ったのは、「序」でした。

耳鼻科のお医者さんと接して、歯がゆい思いをすること多く、
そこから、私も幾つかこのHPにも文章を書いています。
ですから、次のような文章に触れてオヤッと、驚きました。

「診断、治療という側面から見ていた耳鼻咽喉の諸器官を、少し離れて別の視点から見てみると、今まで気づかなかったことが見えてくるように感じる。」
「耳鼻咽喉は五感の多くと関係している。聴覚、嗅覚、味覚のほかに平衡感覚などもこれらの領域に含まれているのである。人間が人間らしく生きていくのに必要とする感覚器、それにコミュニケーションに重要なことば、声を発する器官も含まれているのだ。
しかしながら、現在の耳鼻咽喉科が感覚器医学と関連する診療科目であるという認識は、残念ながら、一般にもわれわれにもまだない。炎症全盛時代に始まった診療科目であるから仕方がないが、そろそろ感覚器という考え方で耳、鼻、喉、さらにそれらの中枢、つまり「脳」を含めて総合的に考える「聴」+「脳力」の時代であると思っている。」

すると、私がいろいろ感じて希望することは、これからの若い医学生に向けて発信した方がいいのかな、と感じ入りました。
今後は、その心積もりで書いていこうと思います。

書名やサブタイトルから、耳について書かれている本と見受けられますが、広く耳鼻咽喉についても書かれています。
いろいろご紹介したい事、やはり多くあります。でも、専門的な事柄が多く、誤解が恐ろしくもありますので、例によって、いくつかの箇所を独断で選んで紹介するに留めます。

「感覚器のなかでは、他の感覚器に比べて、聴覚に関連する神経伝導路は中継核の数が最も多い。聴覚の中継核は、視覚、嗅覚、味覚の伝導路の中継核の倍近くもあり、それだけ音の分析、統合には複雑なプロセスが関与していることが考えられる。」(102p)
つまり、耳は格段に複雑なんですね。耳の仕組みを勉強しだすと、奥がどんどん広く深くなっていきます。

「メニエール病、突発性難聴、外リンパ瘻(ろう)など、内耳性疾患の実態はなかなか明らかにならない。何故なのか。
内耳全体は小指の先ほどの大きさである。中には内耳液が満たされていて、その中にセンサー細胞が浮いている。
周囲は人体の中で一番固い骨で包まれている。中を覗くことができない。CTの写真では、輪郭だけは分かっても、内部の状態は分からない。
針を刺してバイオプシー(診断のため生体の一部を切除してその切片を顕微鏡などで調べること)をしようものなら、一度で壊れてしまう。
では、病理解剖をすれば分かるだろうか。しかし、幸か不幸か、これらの病気で死ぬことはないのだ。・・・。したがって病気の解明につながる発病直後の内耳の標本は、世界中探しても、まず無い。」(221p)
「要するに、内耳は人体の中でも僻地であるのだ。」
「序」に、「人間の耳や鼻・・・のほうが(動物のそれらより)特殊な構造になってい」ると書かれていることから、動物観察も役に立たないことが分かります。
このくだりは、私が今まで読んだ同様の説明文の中で一番簡潔で分かりやすかった。

片側が難聴の方は意外と多いと思います。私の場合は、悪い方が通常全く聞こえないので、ピーンと来ないのですが、
他の方で「補充(リクルートメント)現象」にかかれた文章を読んで、ハタと膝を叩く方居られるかもしれません。詳しくは、第四〇話リクルート(191p)をお読みください。補聴器が合わなくて困っている人とその周囲の方には、是非読んでいただきたいと思います。

 

とても難しいお話ばかりでしたから、後は平易なお話にします。

1960年から61年にかけてのお話ですが、アフリカはスーダンに住むマバーン族の人々の聴力が抜群に良いそうです。彼等が住む地域は、非常に静寂な土地で、彼等が飛行機の爆音が聞こえるといってから、調査に行っていた耳鼻科医の博士にその音が聞こえてきたのは数分後であったと言うのです。別に博士の耳が悪かったわけではなく、彼等の聴力が抜群に良すぎたのですって!
別の言い方で、彼等に比べなぜ私たちの聴力が悪くなったのか?
それは、文明の発達がその原因だと、博士は考えたそうです。文明国で、人々は絶えず騒音に曝されている。
私は中等度で補聴器の効果は大きいのですが、用の無い時には外したくなること多いですよ。急に話しかけられてもいいように、ずーっと聞きたくもない騒音をなぜ聞かなきゃいけないかと、思うのです。
話が、思わず逸れてしまいました。

他のページでも、次のように書かれてあります。
「ある心理学者によると、慢性的な騒音に曝された子供は、そうでない子供よりずっと攻撃的になるし、健全な行動や思考が阻害される傾向を示すという。大人にとっても同じであろう。」
私の場合、深夜、補聴器を外し、ゆっくり本を読むのが最高のストレス解消になるのが、これで証明できるのかな?

チェコの作曲家スメタナも耳が悪かった事を読んだことありましたが、自分の耳鳴りを作品の中に取り入れてしまったのは、初めて知りました。有名な話なんですね。このところ読んだ私は、切ない気持ちになってしまいました。私も歳を重ねる毎に耳鳴りとのお付き合い、長くなってきていますので。

ベートーヴェン、やはり出てきました。でも、次のように書かれているのです。
「難聴が高度になってもメロディーを作り、それを楽譜に書くことは、われわれが高度の難聴になっても文章を考え、書くことができるのとおなじことであろう。第九交響曲を作曲するにあたって、別に聞こえる必要はなかったのである。」
このHPの他のページで、私自身
江時久氏の著書をご紹介しています。そのご本と同様の趣旨のことを朝日新聞に、当の江時氏自ら投稿されています。そのしばらく後に、作曲をされる方が投稿していました。とてもいいお話なので、手帳に書いております。

「新しい曲を生み出すということは大変苦しい行為で、完成して実際に聞く喜びがあるからこそ耐えられるものです。普通の作曲家がベートーヴェンのようになったら、恐らく新作をあきらめてしまうか、作曲を続けても、それまでの自分の作曲パターンで作るのがやっとでしょう。ベートーヴェンが偉いのは、耳が良く聞こえないのに作曲ができたことではなく、困難を乗り越えて新しい境地(作風)を切り開いていったことなのです。このような不屈の精神は、難聴になられた多くの方々の励ましにはならないでしょうか。」 早川正昭著 朝日新聞1999年3月23日付

私には、ベートーベンが少しは聞こえていたように思えます。

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「ベートーヴェンの耳」・「本当は聞こえていたベートヴェンの耳」 江時久著

江時さんの難聴は、「あぶみ骨」固着による伝音性難聴で、
私の感音性難聴とは,違います。

(「あぶみ骨」固着は、耳硬化症と言われるものです。
この症状についでは、下記のHPをご覧下さい。
Yukiのページ 耳硬化症Otosclerosis体験談
http://www29.cds.ne.jp/~snow/index.htm
手術前後のオージオグラムも載っています)


それでも、江時さんのベートーベンに即して書かれたこの二冊の本からは、
何度も共感を覚え、
時には今まで忘れていた事、漠然と感じていたことをはっきりと教えられました。
無論、私が知らない難聴も含めて。

「ベートーヴェンの耳」は、主に江時さんご自身の半生を描いたもので、
「本当は聞こえていたベートーヴェンの耳」は、
ベートーヴェンの生涯を、そして彼の聴覚障害を読み解いたものです。
どちらも、甲乙つけ難く面白く読ませていただきました。

江時さんは、医学(手術によって聴力を幾分か回復しました)や補聴器の発達の恩恵を受けて、
ご自身の巡りあわせた時代と運命とについても書いていました。
私も、学齢に達して間もなく固定制難聴学級が
自分の住む町の隣の学区に出来るという巡り合わせがありました。
そして、お知らせランプ等の補助機器が出来たり、
社会的に広く大きく聴覚障害が認知されたりという、時代にも恵まれました。

若い時の恋に恵まれず、
誰かと休日にデートをするという事も無かった事を、
苦く思い出しました。
誰かを好きになっても、いつもへっぴり腰というか、及び腰で、
ちょっと話が交わせただけでも、喜んでいました。

自分の障害を受け入れ、
聴覚障害について私なりに積極的に行動するようになったのは、
自分の仕事で、今まで曲がりなりにもやってこられた自信に支えられての事と、
今更に確信しました。

江時さんは、若い頃に何人かの同じ障害の仲間達と「みみだより」を発足した方です。
弁護士の松本晶行さん、作家の五味康祐さんは名前を知っていましたが、
他にも、陶芸家の三ツ井詠一さん、詩人の大久保紀次さん、学者の津名道代さん
等(他にも名前のあがっている方がいます)が、
それぞれに、聴覚障害と取り組みというより、格闘して来た様子も、寸描されています。

聴覚障害に関わる小さな一こまの描写が、あちらこちらにあって、
それらを読んでいると、ソウソウと、うなずくほどに、
難聴者の心の襞を書き込まれています。
すべてその通りとは言えませんが、
かなり言い得ています。
同じ難聴者として、よくここまで書いてくれたと感じ入りました。
これで、難聴者への誤解が氷解するとまで、楽観はしませんが、
少なくとも、難聴の理解への掛け橋の一つがここにあることは確かです。

あらためて、広く読まれて欲しく、ここに紹介させていただきました。

無論、音楽・クラッシック・ベートーヴェンの好きな方にも読んで欲しいと思います。
第九が、ベートーヴェンの聴覚障害との長い付き合いの末に、
その障害を受け入れて書かれたという著者の説は、諾否は別にして、
あらためてこの曲を聞き直させるに十分なものではないでしょうか。

最後に、まだ少ししか聞いていないのですが、
私の好きなベートーヴェンのレコード(古いなぁ(^^ゞ)をご紹介させてください。
フルトヴェングラーの第九。
カルロス・クライバーの第五。
ブレンデルのピアノソナタ。
ハイティンクとブレンデルとのピアノ協奏曲。
最近になって、レナードバーンスタインが、ウィーン交響楽団と
共演した晩年の演奏を、(これはCDで(笑))、時折聞いています。
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