劇場 in 映画館

2003年度版

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上映作品

太陽の雫 8人の女たち
ダーク・ブルー ギャング・オブ・ニューヨーク
ウォーク・トゥ・リメンバー 戦場のピアニスト
ラスト・プレゼント 酔っぱらった馬の時間
裸足の1500マイル 魔界転生
シカゴ WATARIDORI
スパイ・ゾルゲ エデンより彼方に
「惑星ソラリス」と「ソラリス」 D.I.
ロスト・イン・ラ・マンチャ フリーダ
28日後 リード・マイ・リップス
戦場のフォトグラファー フォーン・ブース
ラストサムライ 「アフリカへの想い」
「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」
セクレタリー 氷海の伝説
コール



コール


誘拐サスペンスものです。
裕福な麻酔医一家が、それぞれ誘拐犯三人組に襲われる。
彼等の運命や如何に?


この手の作品は、ドラマになりやすいが、
意外に見透かされやすく、評価が厳しくなりがちです。
去年見た「サウンドオブサイレンス」も、
今にして思えば、褒め過ぎました(笑)
あれは、キャスティングが良かったけれど、
話が途中から失速して、腰砕けの感無きにしも非ず。
どうしても話が、奇抜になったり、無理強いしたり、
ご都合がよ過ぎたりしがちなんですよね。


で、この作品ですが、
一応、丁寧に作られています。
犯行の組み立て、展開の伏線の張り巡らし方など、
ウンウンと頷きながら見られる。(^_^)v


キャスティングも、
被害者の奥さん、娘さんが良かったなぁ〜!
他の脇役も手堅い。


そして、怒涛のクライマックスへと向かい出すあたりから、
これは、なかなかの佳作です。


でも、主犯格のケヴィン・ベーコンの心模様がイマイチ納得できないし、
又、話が本格的に展開し出す辺りから、一部都合のよすぎる部分も出てくる。


佳作の上、秀作の下、と言ったら、褒めすぎかな?
お正月に暇つぶしで見る分には、楽しめるでしょう。
クライマックスでお屠蘇が醒めるかもしれませんが…(笑)


以上、試写会で見た直後に書きました(^_-)

2003.12.16 記



氷海の伝説


カナダ北東部に住む原住民の物語です。


導入部分は不明で、申し訳ありません。m(__)m
何某かの曰くがあって、
二人の男兄弟とその家族は、村の中でのけ者にされています。
村のリーダーの息子と、兄弟の弟とが、
一人の女性を求めて、決闘をし、女性は弟の妻となります。
女性を取られた男は兄弟に恨みを持ちます。
そして、この男の妹が弟の第二夫人になったことで、
兄弟家族等の暮らしが破局へと向かい出す。


男とその仲間が兄弟を襲う!
その難を危うく逃れて、弟は氷海へと逃げていく。


私たちには日頃疎遠な北極圏のツンドラ地帯が舞台です。
裂け目を挟みながらも延々と続く冬の氷原、
夏には氷も溶けて水面や地面も出るあの風土。
狩猟している彼等の暮らしが、
共同体としての面を含めながら、描かれる。
食べ物や服などから、彼等の言葉・歌など、
更に彼等の考えかた・感じ方も紹介される仕上がりです。


ストーリーは、伝説が基になっており、
単純ながらも、
姦淫や殺人など共同体としてどう取り組むかという知恵が添えられ、
神話のような、宗教における説話のような彫りの深さがあります。
加えて、あの厳しい自然の中で、狩猟をして暮らす中で刻まれた風貌。
とりわけ、走り去ったアタナグユアトと彼の妻アートゥワとが印象に残る。
アタナグユアトの勇気・頑張りとアートゥワの忍耐とに引き摺られ、
アッという間の3時間でした。


イヌイットの人たちの今の暮らしは、かなり近代化されています。
でも、独自の伝承文化を多様に一本の映画として納めた、心意気に感動しました。
自分たちの拠ってきたところをこのように掘り起こしまとめ、
仕上げ、世界中の人たちに伝える。
そうなんだ、映画ってそのためにもあるんだ!
エンドタイトルで、製作脚本者が既に死去されている事を知り、
エッと声が出そうになりました。


こういう映画がもっと多く世界中に出回って、
お互いを更に理解し合うことが、
つまらぬ誤解をさけ、皆が平和に暮らせる為に役立つようあって欲しい。
又、見終えた人の日々の暮らしが豊かになって欲しい。
映画館を出て、冷たい北風に吹かれた時、
この風の向こうに住む人たちのことを現実の事として想いました。

2003.12.7 記




セクレタリー


これこそ、隠れた名作ではなかろうか?
素人の見た目に、フシギな作品です。


自傷癖のある女主人公が精神病院を退院したところから、
物語は始まります。
非常に危なげな彼女は精神的に立ち直ろうと必死になり、
新聞広告で見つけた秘書募集をしている弁護士事務所に向います。
そこで出会った弁護士とのラブストーリーです。


ヒロインがとてもチャーミング♪
見始めた最初は妖しげですが、
どんどん魅力を増してきます。
名前は、マギー・ギレンホール!
覚えとこう(笑)


相手役は、ジェームズ・スペイダー。
この普通ではない役者、ますます巧さを増して再登場!
ホント、誰にもやれない役を演じてくれます♪


この魅惑の顔合わせで繰り広げられるラブストーリー、
ありきたりのものではありません。
彼女の最初の自傷行為、実は、あの快感につながっていくのです。(笑)
お互いが出会うことによって、二人はそれぞれ、
自分の本質に立ち向かう。
一足早く、その本当の自分を受け入れた彼女が、
攻守入れ替わって、彼にアタックし、
見事彼の心を射止めていく展開は、
見ているこちらも幸せな気分になれました。


突き放してみれば、サゾマドの性癖をめぐる物語なのだけれど、
見ている人誰もから共感を得そうなキャスティング&脚本が、
ずば抜けていい映画作品です。


見ている最中は夢中で、
見終え、旨いなぁ〜とニヤニヤしながら、
雨上がりの冬の夜道を帰りました。
心は、暖かかったです。

2003.12.6 記




「アフリカへの想い」
「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」


2003年9月8日に101歳で亡くなられた、
レニ・リーフェンシュタールの作品を二本続けて見ました。
出演作「アフリカへの想い」と
監督作「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」とです。


これらの作品も上映地区が大変少ない…。
東京・シネセゾン渋谷での上映は、
先に「ワンダー…」が上映された後、
入替で「アフリカへの想い」となっていましたが、
シネマ・クレールでは、逆の順序で入替無し!
思わずスタッフの方に抱きつきたくなるほどうれしかったです。
ご覧になった方には同感いただけると思いますが、
この二本の映画は、この順序でつながっていると、
強引に私は受け取っています。


「アフリカへの想い」では、彼女の半生を手短に紹介し、
その人生の中で、アフリカとの出会いが持つ意味をはっきりと示している。


女優を目指すも、
ヒトラーの要請を受けて監督した映画「意志の勝利」が、
その後の彼女の運命を決定づけました。
今ビデオ化されて見られる唯一の作品、
オリンピック映画の「オリンピア」2部作(「民族の祭典」、「美の祭典」)。
これらの二作で有名になるも、彼女の出演作・監督作は、
1933年1938年公開作で、バッタリ途絶えます。


「ナチの同調者」という烙印を押された彼女は、
写真集「THE LAST OF THE NUBA (最後のヌバ) 」を1973年に発表し、
アーティストとして鮮やかに復活しました。
その舞台となったスーダンのヌバ族の村を、
ほぼ30年ぶりに訪れたドキュメントが、
「アフリカへの想い」なのです。


このドキュメンタリーは、彼女個人の記録でもありながら、
一つの歴史記録ともいえます。
時代の波にのまれてしまったピュアなヌバ族への郷愁が哀しい。
本当にこの人は、そういう「歴史」という星の元に生まれているのだなと実感させられる。
この作品で、彼女の人となり、感性が分かります。
ヌバ族の言葉を習得し、深い付き合いをしているのをみて、
類い稀な人との印象を深くしました。


この映画を見終えて、
レイ・ミュラー監督のもう一つの作品「レニ」をパスした事、
大変悔やむ!


そのアフリカへの旅の後に訪れるのが、
熱帯の海、さんご礁の海です。
そこで、
48年ぶりの監督作品「ワンダー・アンダー・ウォーター」につながります。
この作品も年季が入っています。


71歳でダイビングのライセンスを取って後、
2000回に及ぶ潜水でカメラに収めた映像が、とても素晴らしい。
きれいなだけでなく、海の生き物たちの共生や環境のさんご礁なども合わせ捉えていて、
海の生命の世界を、それははっきりと彼女の意志として表現しています。
次々と繰り広げられる画像を見ていると、
レニさんの冒頭にある語りが何度もかぶって、
レイチェル・カーソンに勝るとも劣らない、
海への彼女の深い想いが感ぜられました。


一切の説明無し、音楽のみ(意外に延々と聴けました)が添えられて、
海中の描写が延々と続いていく。
いきなり何の先入観も無しに見たら、
退屈していたかもしれない。(笑)


「美の魔力 レーニ・リーフェンシュタールの真実」
瀬川祐司著2001年現代書館
での冒頭にある「オリンピア」の分析で紹介されているように、
大変恣意的な構成を行って、監督として並ならぬ手腕を示している、
その作者にして、この構成。
一年余りの月日をかけて編集したのですって。


十分に咀嚼し得たと思い切れない私には、もったいない作品でした。(^^ゞ
でも、私なりに、レニさんのメッセージを受け取りました。


こうして書きながら、
滅び行くものを自らの感性で掬ってきた彼女が、
その仕事の対象とは逆に、老いを、死を忘れて、
貪欲に生き続けて、仕事をし続けていた。
しばらく考えさせられました。


あらためて、御冥福をお祈りします。

2003.11.30 記



ラストサムライ


トム・クルーズ主演の「ラストサムライ」というタイトルの映画としては心配な反面、
エドワード・ズウィック監督作品として期待する気持ちを抱いて、見てきました。


アメリカ西部開拓でインディアンの掃討に邁進した軍人が自分の生き方に疲れて、
日本へ赴く機会に乗じます。
新生の軍隊での教官に赴任しますが、
武士たちとの戦いに遭遇し、囚われの身となります。
そこで、彼が見聞きし体験した事が、その後彼の人生を大きく変えていく。


見ていて熱くなり、いい映画でした。
それには、細かい事を、さて置かねばならないのですが、
とにもかくにも、この映画から一番強く受け取ったものは、
静かで熱く深い情感です。
今の日本に失われているものが、ここに多く描かれています。


武士の生き方や日本の風土、そして文化などが、
ハリウッド製作のイメージを遥かに越えて描かれている。


小道具のきめ細やかさに驚きましたが、
それにも増して登場人物の立ち居振舞い、腰が据わっており、
渡辺謙さんを始めとする日本人キャストの貢献に拍手。
トムの映画にはさせじという心意気が伝わってニヤリとしました。


おそらく製作者の意向と違った何かが生じていると私個人感じます。
これで、日本映画でないのが、口惜しい。
英語と日本語とが妙にクロスしていましたが、
日本語の響きもいいなと、思えました。


映画のメッセージとしては、
いろいろ思うところがあり、まとまらない。
アメリカ原住民を掃討した軍人の視点を、
明治維新に持ち込んだ狙いがどれほど的を得ているかは、
見る方々に委ねましょう。


去年トヨタの車に乗っていい格好しようとしたクルーズより、
渡辺謙さん等とガップリ組んだクルーズの方が、
数倍素敵でした♪

2003.11.27 記




フォーン・ブース


ニューヨークの通りにある公衆電話ボックスの呼び出し音が鳴る。
電話を終えたばかりの男が何気なく受信機を取る。
そこから、このドラマの本編が始まります。


脚本を書いたラリー・コーエンの、
「電話ボックスの中だけで展開する映画ができないか?」
というアイディアに、
シューマカー監督&コリン・ファレルがのった作品ということですが、
舞台向きでもあります。(笑)


私はこのシチュエーションに、入れました。
殆ど声だけの、犯人役のキーファ・サザーランドとの久々の再会で大喜びなのですから♪
公式サイトでどこに紹介してあるか分からない、
というか紹介していないも同然の扱いですが、
彼の声を聞きながら、楽しみました。
もう一人の主役なんです!


シューマカー監督&コリン・ファレルファンの方々は楽しめたのでしょうか?
フォレスト・ウィテカーは、やっぱり彼ならではの役柄でしたね(^_-)
この前見たのが、「パニックルーム」での犯人役だったので、
こう対照的な役をやっても、人がよくて、死なないのは、彼くらいかもと、
妙に納得する(笑)


上映時間が短いけど、そんなに短いとは感じられず、
たっぷり充実した時を過ごせました。

2003.11.22 記




戦場のフォトグラファー


この作品は、報道写真家ジェームズ・ナクトウェイの、
仕事、作品、人となり、を伝えるドキュメンタリーです。


1948年に生まれた一人のアメリカ人として、
ベトナム戦争の影響を受け、写真家になる決断をするも、
実際に活動し出す自信が得られるのに時間を要した、
と自ら語ります。
彼の語り、彼の仕事振り、彼を知る人の話、そして彼の作品が、
相互に組み込まれて、この映画は展開されていきます。


制作・監督・編集をしたスイスのクリスチャン・フレイは、
約二年間、ナクトウェイと行動を共にして、
この作品を作りました。
その舞台は、次のようになっています。


バルカン半島、コソボ(1999年6月)
インドネシア、ジャカルタ(1999年5月、6月)
パレスチナ、ラマラ(1999年10月)
インドネシア、カワ・イジャンの硫黄鉱山(1999年10月)
ニューヨーク市(2000年5月)
ハンブルグ(2001年1月)


現代の世界で起こっている事を、
写真というメディアを通して、
多くの人に伝えたい、
というナクトウェイの静かで熱い思いが伝わってきました。


写真撮影をしている彼に連れられ、世界の現場に立ち合わされ、
マスコミでは知ることの出来なかったシーンを目の当たりにし、
言葉を失う。


ナクトウェイのカメラに寄せる信頼に裏打ちされた被写体のメッセージが、重い。
そして、それをよく受け止め、伝えるべく健闘しているナクトウェイの生き方、感じ方は、
真摯で、常人の域を超えています。


人の不幸をひたすら撮りつづけていながらも、
被写体のカメラマンに対する信頼が感じられたのに、一番驚きました。
その辺りについて、彼は次のように語っています。


「人を思いやれば人から受け入れられる。
その心があれば私は私を受け入れられる。」


私たちは、今、この報道カメラマンと同時代に生きている。
そのことをもっと大切にせねば、と痛感させられました。


彼の作品があまりにも重いので、
マスメディアや出版する側が、これを採用し紹介するのは、及び腰です。
まだまだ知られていない彼の作品を通して、
今の世界が報道される為に、
映画というメディアが選ばれている。


今のところ、上映地域は限られていますが、
出来得る限り、多くの方に見ていただきたい。


この映画を見終えた後、
他の映画作品を見る気が失せてしまいました。


公式サイト
http://www.mediasuits.co.jp/senjo/index.html

2003.11.8 記



リード・マイ・リップス


主人公は、建設会社で働く女性。
男の多い職場で、酷使されている難聴者です。
発言がスムーズにできるので、中途難聴者という設定らしい。
電話の応対やコピーなどの仕事が主で、
他のスタッフのような渉外の仕事をさせてもらえない不満を抱いている。
周りは健聴者ばかりなので、補聴器を使って奮闘しています。
補聴器をつければ意外によく聞こえますが、それでも十分ではない。
更に、同じ障害を持つ者が普段周りにいないので、孤立しています。


ある日、社長から、助手を雇ってはどうか?と言われ、
手続きをしてやってきたのは、ムショ帰りの男。
ここから、二人の男女のドラマが始まります。
女主人公のタフさと哀しさがよく表現されている。


そうして間もなく、この男の前に、以前、悪の世界で関わった男が現れる。
男は、やむなくバーで働き始める。
そして、悪巧みの気配を感じ、仕返しを企てる。
この企てで、女主人公が読唇出来るのを利用する。
ここから、犯罪サスペンスが始まります。


この映画作品は、
男女の心の綾が犯罪サスペンスに溶かし込まれ、
主人公の耳が聞こえないことが、
スパイスとしてよく効いた味わいを持っています。


心のかげりをおびた主演の二人を演じている役者が、この話にドンピシャリ!
更に、主人公が補聴器をかけたり、外したりした時に、音が変わる。
これ、存外、効果をあげている…?(お試しあれ)


難聴まわりで、少々気にかかることはあっても、
それが気にならなくなる程の話運びは、秀逸。
合格ラインは、確実にクリアしているので、
お金返せ、とは思えないでしょう(笑)


耳が聞こえない人物が登場している映画作品はこれまでいくつかありましたが、
サスペンスタッチで描かれたのは、初めて見ました。
オードリの「暗くなるまで待って」に全然負けてない!
そう言いきります。
「アメリ」のお嬢さん、これで負けても悔いは無いって。(^^ゞ

2003.11.3 記



28日後


動物実験台にされているチンパンジーを開放したら、
凶暴性が血液感染で伝染していった!


交通事故から覚醒した主人公が見たのは、
その28日後の世界。
街に出て目にするもの、体験した事を、描いた作品です。


血液感染した凶暴、という事で、ゾンビものを連想したり、
あの「12モンキーズ」を連想される方、
どうぞご覧になってください。
見事に裏切られます。


裏切られて良かった、という方、一緒にお話しましょう。
裏切られてつまらなかった、という方、又の機会に。


これは、ただの怖いお話ではありません。
現代社会のすぐ隣に潜んでいる人間性の危うさと恐ろしさとに、
真摯に向った作品と、私は受け取りました。


前半は、文明社会のあやうさを浮かび上がらせ、
これは震災などがまだ記憶に新しい私たちにはよく理解できる。
そして、後半に入ると、
人を殺す事、軍隊というもの、性等を通して、
人間性に一歩踏み込んでいきます。


我等の中にある凶暴性は、伝染している事、知らずにあるかもしれない。
現実の社会における様々な犯罪や、
ゲームの危険性について話題になっている事、
等などが続々と連なって思い出され、本当に怖い。


冒頭にメジャーなタイトルが出ますが、
作りは、マイナー風で、骨がある。
いろいろな意見を戦わせているうちに仕上がった感じで、
独り善がりな安易さがない。


ラストシーンの最初のバージョンが、クレジットの後にあり、
本編のラストシーンと比べて見る一興が付いています。

2003.10.22 記



フリーダ


きわめてショッキングな題材の描き方や、原色の鮮やかな色彩などで有名な、
メキシコの現代画家フリーダの一生を追って描いた作品です。


その生涯にいくつもの事件があり、ドラマには事欠かないものの、
映画はフリーダの本質を追い求めるような描き方をしていて、
スクリーンに向かっている時より、後からいろいろ感じ入りました。


まず、交通事故があり、その後遺症に死ぬまで悩まされます。
でも、その傷への対処は、いつも前向きで、進取の精神を見せてくれます。


その中で、絵に向かい、絵が書ければ有名な画家ディエゴに見てもらうべく出かける。
ディエゴに、絵を書き続けるべきだと評価され、彼女はその道を進みます。


ディエゴが彼女の生涯の伴侶となるのですが、
二人の関係は、一筋縄ではいかないものでした。
お互いに欠かせない関係が、映画の大部分を通して描かれていきます。
時には励まし慰めあい、時には裏切るのです。


ディエゴを取り巻く人々との交流や彼の仕事の展開などを軸に、
二人の関係は、様々な諸相を繰り広げます。
男女の面もあれば、国際的政治的な面もある。


その中から、彼女の作品の数々が生まれていきました。
事故に遭わなければ絵を書かなかっただろうし、
ディエゴに励まされなければ、絵を書き続けなかっただろうし、
ディエゴとの関係がなければ、あのような曰く言い難い情感のこもった絵を書かなかっただろう。
絵を書くことで、フリーダの生はよりよく生きられた。
そう思いました。


フリーダの評価は海外で先に得られ、国内での個展が後になる。
海外、フランスで受けた印象は、彼女にとっては好ましいものではなく、
国内での個展こそが、彼女の喜びであった事、この映画の構成の一つの軸になっていました。


そこから、
メキシコならではのものが、派手ではないものの強固にこの映画を支えて、
フリーダの世界をくっきりと浮き上がらせるのだな、とも思いました。


フリーダの家のセット、音楽や踊り、そして遺跡のロケーションなど、
いずれも彼女の世界を隅々まで表現して伝えたいという、気迫があります。


絵と映画とは近いようで、遠くもあるな…。
絵を見てから映画を見るか?
映画を見てから絵を見るか?


フリーダの作品からその世界に分け入りたい人には、不満があるかもしれない。
でも、随所の細かい演出に表現者の気合は感じられるのです。
そして、この主演女優さんが素晴らしかった。
舞台で幕間があるような感じに、映画にも大きな区切りがいくつかあり、
そこで彼女が出る度に微妙に変わって感じられ、ハッと息を呑みました。

2003.9.28 記



ロスト・イン・ラ・マンチャ


映画監督テリー・ギリアムが、「ドンキホーテ」を題材として、
新作映画に取り組むも、挫折に終った顛末を描いたドキュメントです。


テリー・ギリアムは、
「未来都市ブラジル」「12モンキーズ」「フィシャー・キング」と、
見た映画を即座にありありと思い出せる素敵な監督さんで、
この映画でお顔を拝見し、暫し共に過ごし、ますます好きになりました♪


監督の頭の中では、作品は既に出来上がっています。
それを具体的な映画作品にするには、多額の資金が必要だが、十分には集められない。
でも、ともかく始める。


しかし、始めると、準備・資金などの不足から来るトラブルばかりでなく、
次々と不運が降りかかる。
主演者が倒れる、ロケ地で悪天候に見舞われる等など…。


続行すべきか、中止すべきか、迷っている間にも、お金がかかり続けているわけで、
保険屋が出てきます。
妥協を要求されるが、
もう「バロン」の二の舞はしたくないテリーと仲間たちのやるせなさが、見ていて辛くなりました。


中止と決まった後のスタッフたちの気持ちが退く雰囲気で、
映画というプロジェクトが、簡単には再開できるようなものではない事が、伝わります。


日頃見ているスクリーンの向こうに思いを誘う作品でもありました。


小道具・大道具、衣装、ロケーションなど、現実の再現ではなく、世界の創造なんですね。
表に出てこない裏方の苦心は、はかりしれません。


ものを創造する、作品を作り上げる事の大変さの中にいろいろ汲み取れました。


監督の伸びやかなイマジネーション、
製作者の細心な詰め、
小道具などを作るスタッフの技術力、
大きな組織の中で一つの作業を黙々とこなす地道さなど。


映画は、本当に多くの偉業がバランス良く組み合っていないと出来ないし、
その上で監督の感性が表現される事を思えば、これはもう奇跡に近い。


見終えて、これまで見たギリアム監督の映画が、皆、
なぜか、以前に増して物悲しく思えて来ました。

2003.9.4 記



D.I.


イスラエルの市民の、生活と空想とを舞台にした映画作品です。
としか、紹介し得ない不思議な作品。


前半は、
イスラエルをめぐる様々な政治的事柄が、
生活の諸相を通して、暗喩として語られているように見受けられました。
こちら方面に詳しくないものとしてそうそう笑い転げなくて、
ちょっと、真面目に見てしまう。(^^ゞ
それでも、
鬱屈した気持ちで気晴らしをするも、スカッとしないやるせなさと、
それを傍から見てのおかしさとが、伝わってくる。


後半になると、検問所を舞台にして、いろいろ描かれ、
女性が通るところと、風船のところとが、笑えました。
ここでも、検問所の人を風刺しています。


そして、この半ばで、全体の作風から大きくはみ出た、異様な挿話が差し込まれ、(笑)
返す刃で相手をやっつけ、やり返したい心意気が、発散されている。


それでも時は流れ人が逝き、
手をこまねいて事態を静観するだけの虚しさ・哀しさが最後に置かれています。


全然言葉が敵わない世界です。


もっと、言葉でフォローして欲し〜い、という方々は、
「映画「D.I.」でわかるおかしなパレスチナ事情」という本も出ていますし、
何より、スレイマン監督のインタヴューが、分かりやすいでしょう。


でも、私は、もうちょっと、この言葉に出来ないおかしさを味わっていたい。(^^ゞ

2003.9.1




「惑星ソラリス」と「ソラリス」


ソダーバーグ監督の「ソラリス」(2002)が拙街で公開される、
その同じスクリーンで同時期にタルコフスキー特集が組まれ、
彼の「惑星ソラリス」(1972)も見ることが出来ました。


どちらも睡魔と格闘しながらの鑑賞となり、
しっかりと見据えての感想でない事をあらかじめお断りしておきます。(^^ゞ
(でも、かなり努力はしています…)


惑星ソラリスの探索ステーションから、不可解な報告が入り、
その謎を解くべく派遣された科学者が主人公です。
ステーションについて一眠りした彼の前に今は亡き伴侶が現れる。
その正体は…。


「惑星ソラリス」を見て、目くるめく意識(認識)の迷宮に引きずり込まれた感じを持ち、
「ソラリス」の方は、「愛(魂)の救済」物語として受け止められました。


この違いは、…否、分析は止めておきましょう。


科学的認識に基づきながら、人間の認識はその精神面での底において、科学的認識から離れた動きもしている。
世界は、そういう人間の認識の前でどのようなものであるのだろうか?
両作品に共通するテーマを見出せばこのようなところになるだろうと思います。


タルコフスキーの作品は幻想的な表現であるのに対し、
ソダーバーグの方は、空想科学としての装いをきっちりしていました。


好みの問題もあるし、
何より原作を読んだ上での比較が望ましいのですが、
ともかく今は、タルコフスキー作品の方に私は惹かれます。
映画を見る人の意識をしっかりと作品中に引きずり込む手並みにまいりました。
(睡魔の度合いで申しているわけではありません(笑))
作者の術中に嵌ってしまって、僕は今どこにいるのだろう?モードになっている。
翌朝、晴れた空の青さの向こうに目を凝らしてしまう。


ソダーバーグの方は、作品世界と自分との間に距離があり、その分だけ物足らない。


この両者の違いを超え、不思議な作品です。
どちらも眠くなるのは、作品中で睡眠が大きな役割を果たしている所為ばかりではないでしょう?(笑)
とりわけ、タルコフスキーの方、悠々と迫らず、しっかりと私をその世界に誘ってくださいました。
それなりに映画を見慣れてしまっている私ですが、職人の手腕だなと感服。
画面の悪さ、撮り方の古さが早々と気にならなくなって、あれは一体何なんでしょう?


宇宙に思いを馳せながら、心の世界へ深く降り行くレムの作品を、いつかは読みたいと思う。
でも、この二作を続けて見たばかりなので、記憶がおぼろになった頃に読みたいですね。(笑)

2003.8.15 記



エデンより彼方に


時は1950年代、所はアメリカの片田舎。
主人公の女性は、上流階級の模範的な主婦です。
しかし、ある日夫に昔の性癖が戻ってきて、
それまでの穏やかな日々が崩壊していく。


同性愛や黒人への蔑視が色濃く残る時代、
その時代を見事なまで精緻に再現して鮮やかな画面です。


主人公の進歩的リベラルな感覚が、
つらく、哀しく、切々と伝わってくる。
ジュリアン・ムーアが、ついこの間見た「めぐり合う時間たち」と
同じ時代の役を演じて比べてしまう。
こちらの方が、演じきった感じがして好きです♪


この主人公の目を通し、時代を超え、
今でもありありと残る様々な偏見を告発していると、受け取られました。


この作品は、あの時代を舞台にとって、
わかり易く、美しく、懐かしく見立ているだけに、
なおの事、街の人々の偏見に染まった見苦しさが際立ってもいます。
そ〜っと自分の中を覗くのが、怖くなりました。

2003.8.13 記



スパイ・ゾルゲ


これは、文字通り、篠田正浩監督渾身の作品です。

ゾルゲ事件については、多くの見方がこれまでなされ、
誰がどのような立場で見ているのかということに、
注意せねばなりません。

篠田さんは、この作品で、
日本の第二次大戦前の時代と、
その時代を生きた、志ある人々を描いています。

ゾルゲを通すことによって、
第一次世界大戦からベルリンの壁の崩壊までが、視野に入ります。
そう、そのまま共産主義の時代でもあります。
ゾルゲや尾崎、そして宮城等主人公達は、共産主義に殉じて、
それぞれの信念を貫くのですが、
そういう主人公達を描くにあたり、
魯迅の言葉を添える事によって、
共産主義に振り回され、殉じただけではない生き方として描いているのに、
共感を思え、救われた思いがしました。

多くの登場人物、それぞれにも目配りが行き届いています。
ドイツ大使館での皮肉なめぐり合わせや、
尾崎の人生の変転や、
様々な人と人との絡み、
それに歴史・時代の軋みまでが手際よく演出され、
よくこんなに納まっていると感嘆するほどに、
ボリュームがたっぷりあります。

私は、この映画を見る前に、
『ゾルゲ引き裂かれたスパイ』
ロバート・ワイマント著
(1999 新潮社)
を、読んでいて、よく理解できましたが、
予備知識無しでみたらどうなのかは、
全然見当がつきません。

ロシアで生まれ、ベルリンで育ち、ベルギーで負傷し、
上海や日本で仕事をしたゾルゲの一生を描くことで、
随分多様な曲が流れ、
最後の曲へと収斂して、篠田さんの平和への思いが紛れなく示される。
映画の最後で武満徹さんへの献辞がありました。
そういう映画でもあります。

「ゾルゲ引き裂かれたスパイ」は、エンドクレジッドでご覧のように、
参考文献の一つに過ぎず、
この本で力を入れていた、
交通事故後のゾルゲの心身の痛みと、
ピアニストの恋人は、取り上げられていません。
演技で、文章より瞬時に伝わる有様を見て、感心させられたところ、多々ありました。

CGを用いた背景映像には、それぞれの画面で評価が分かれるでしょう。
違和感を感じたところもありましたし、
想像力を書きたてられたところもありました。
出演者の演技は、想像した以上にどなたも、控えめでした。
あえて、不満を書かせていただくと、ゾルゲの陰影が乏しく、物足りないくらい。(^^ゞ

2003.6.10 記




WATARIDORI


世界各地の渡り鳥たちを描いたドキュメント実写映画作品。
殊更、実写と書いたのは、CG作品かと見紛うばかりの映像が続くからなのです。


至近距離から、渡り鳥の横顔・後姿を見ていると、親しみがわいてきます。
写した人・製作者たちの暖かい視線さえ感じられる程です。
しかし、そんな心温まる画面ばかりではなく、眼を背けてしまう悲惨な姿もあります。


声なき鳥たちの「われらのことを、知って欲しい」という思いを、
代弁しているかのような作品です。


渡り鳥たちは、ただ、生き延びるために、一千から二万qに及ぶ飛行をする。
チベットの高峰の間を飛び越える鳥もいれば、
大都会の川面すれすれを飛ぶ鳥もいる。
風光明媚な田園地帯を通る鳥もいれば、
工業地帯のスモッグの中を抜けて飛ぶ鳥もいる。
雷鳴とどろく雲の上を飛ぶ鳥もいれば、
荒れ狂う海原の上を飛ぶ鳥もいる。


ただ、渡るだけでも大変なのに、その途中で彼らを迎える危難もある。
猛々しい自然、動物界での弱肉強食、人間らによる狩り、環境汚染によるもの等など。


テレビで知っていたり、本で想像できたシーンもありましたが、
全く思いも及ばないシーンもありました。
アフリカ大陸を横断するペリカンなど、「えっ、渡り鳥なん?」(笑)


NYを通る渡り鳥たちの向こうに、
今はもう無い二つのビルが見えました。
人間世界がどんなに慌しくても、
太陽と星と地球の磁力とだけを頼りにひたすら飛ぶ鳥たち。


彼等の姿を見ていると、人間の思い上がりさえ、垣間見せられる。


思い返せば、私が渡り鳥に関心を持った始まりは、
高校のときに読んだ藤原英司さん訳の「滅びゆく野性のいのち」。
藤原英司さんは、後に岩波新書で「世界の自然を守る」を書かれました。
それから、受験勉強に疲れて夜明けの土手に上がったり、河原に降りた折、
見上げて眼にした渡り鳥たちの姿も、忘れられない。
そして、映画「グース」なども、今なお印象深い。


燕や冬の川面にいる鴨たちの姿によって、
色褪せた日常からスーッと脱して、
広い世界に心を羽ばたかせます。
どれほど、励まされ、心癒されたことか。


私の微力な想像力をはるかに超えたこの映像作品のおかげで、
渡り鳥を通して連なる世界も格段に広がりました。


一度きりだけでしたが、
スクリーンで見られて本当に良かった!

2003.5.13 記



シカゴ


スクリーンで、久々に見たミュージカル。


ミュージカルは、歌あり、踊りありで、
基本的に、心弾むものです♪
この「シカゴ」も、見ている最中、楽しみました。


でも、その楽しみ方は、ちょっと分析気味でもありました。
その分、見終えた後、ガッカリ。
心をどこかへ、かっさらってくれるほどでなかった欲求不満が、残ってしまう。




平凡な主婦ロキシーは、ナイトクラブの舞台に出るのが夢です。
売り込んでくれるという浮気相手に裏切られて、彼を殺してしまいます。
そうして入った監獄で、あこがれのヴェルマ・ケリーに出会う。
ここから、ロキシーが知恵と度胸とを駆使して先へ進む様が、見所です。




私にとって、この映画の魅力は、演出でした。
ストーリー展開と絡ませた、ミュージカル仕様。
ミュージカルには合いそうに無い、レニー・ゼルウィガーを持ってきた、キャスティングの狙い。
話が進むほどに、唸らされました。
本当に絶妙のキャスティング!
キャサリン・ゼタ=ジョーンズと、
リチャード・ギアとの取り合わせも、最高!


それに対し、
ミュージカルとしてのキャスティングには、首をひねる。
今の、歌って踊れる最高のキャスティングでなく、
この二人に昔とった杵柄を取らせているのは、
興行的にリスク回避したものと、思ってしまう。


ミュージカルとしてイマイチでも、
映画ドラマとして、十分見え得るように、考えたのかしらん?
御二方、頑張っています、と誰もが言いそう。
その頑張りが実っているのは、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ。
でも、もう少し若い時の、締まった体で演じて欲しかった。
(今のキャサリン・ゼタ=ジョーンズの魅力を否定するわけではありませんよっ)


総じて、限りなくドラマに近いミュージカルです。
この元になった舞台ミュージカルやここで歌われている歌が好きな方には、
又、違った受け取り方・楽しみ方があっただろうな、とちょっぴり口惜しくもありました。




最後に余計な一言を。(無視してください(笑))


この映画と同時に、他の映画館で、
「ウエスト・サイド・ストーリー」を上映していました。
私個人として、ミュージカルとして直ぐに思い浮かぶのが、
この「ウエスト…」と、「サウンド・オブ・ミュージック」。
どちらも、作品の世界に浸ってしまい、見終えた後の余韻も大きい。
これに比べて、「シカゴ」は、入りきれなかったし、後の余韻は、「おもしろい話だね」だけ。
思うに、作品の中に、志と、映画で新しいものを作ろうという漲るばかりの創意とが、
見受けられなかったからでしょう。
作品の出来をどうこう言う前に、
私に合わなかっただけと、言えなくもありません。(^^ゞ

2003.5.6 記




魔界転生


亡くなられた後、今なお人気のある山田風太郎さんの原作を、
現在の邦画界で新作を次々と作りつづけている平山秀幸さんが監督し、
天草四郎に窪塚洋介、柳生十兵衛に佐藤浩市が扮した、
時代劇です。


荒唐無稽なお話ですけれど、
島原の乱で徳川幕府に惨殺された民の怨念を基にしているので、
軽い話ではありません。


それでいて、
歴代の剣豪たちが入れ替わり出てくる仕掛けが、
興趣を盛り立て、最後まで楽しませてくれました。
次々と魔界を通して出てくる登場人物に、破顔一笑してしまう。


CG技術をはじめとする今の感覚が、
山田風太郎の世界を興をそがぬよう支えて、
違和感無く堪能しました。
邦画界が、やっと山田風太郎に追いつけたのか?
はたまた、どこまでも古びない山田風太郎の転生か?


見始めて、余りのストレートな作り方にビックリし、
チラッと、不安を感じましたが、
気がつけば、すっかり見入っていた。(^^ゞ
しっかりしたお話と、丁寧な撮り方で、
十分見るに耐え得る仕上がりだと感じ入る。


これほど、トータルに味わえる作り方をすれば、
邦画はまだまだ行ける!
この平山版「魔界転生」、躊躇無くお薦めします。

2003.4.22




裸足の1500マイル


1931年、アボリジニの少女3人が、家族から引き離され、
先住民居留地に収容された。
間もなく、そこを脱出した彼女たちは、
追跡者の目を逃れながら、
2400キロの道のりを歩いて、家族のいる故郷を目指します。


オーストラリアの大自然、
そしてその中でのアボリジニの少女達の表情を通して、
それまで遠くにあった問題が、眼前に迫ってきました。


この映画は実話に基づいており、
主人公の娘さんが、原作者です。


今なら、この人権蹂躙問題を糾弾する事は容易いが、
この自覚に至るまで、なんと多くの時間が費やされ、犠牲が払わされた事ことか!
そして、この爪あとが今なお尾を引いています。
原作者は、この作品を書いた時点で、
家族の絆を否定している妹に会えていません。
妹さんは、隔離政策の犠牲者にとどまっているのです。


この映画を見終えて、
まだまだ、世界のあちらこちらで蹂躙されている人権に思いを馳せました。
無論、及ばないものも数多くあるでしょう。


最後に、監督のメッセージをここに引用しておきます。


歴史を語る資格が、白人の自分にあるか、と
「ずいぶん悩んだけど、
これは愛や勇気を描いた人間の普遍的な物語だし、
また、白人とアボリジニの共有された歴史だ。
だから、自分には物語を語ることが許されると思ったんだよ」
(YOMIURI ON LINE内、CINEMAより)


2003.3.26 記





酔っぱらった馬の時間


イラクとの国境に近いイランの村に暮らす5人兄妹を通して、
クルド人の現実を描いています。


成長不全の難病に侵された兄を持つ次男アヨブを中心に、
次女である妹アーマネの語りを添えながら、物語が展開される。


多くの実話に基づいていることが察せられるリアリティが、
見るものに迫ります。


地雷で農地が使い物にならず、不毛の土地で生活費を捻出するには、
地雷原や国境警備隊を避けながら、危険な密貿易をせねばならない。
大人に混じって子ども達もその仕事をしている現実は、悲惨です。


随分老けても見える子どもの顔や。
クルド人たちが住んでいる所の気候・風土を描いたロケーションが、
これまでの映画作品と一線を画す大きな要因になっている。


題名は、密輸品を満載した馬に酒を飲ませ、山越えする事にちなんだものです。


子どもの目を通す事で、
率直さやユーモアが加味されると同時に、
人間の可能性や諦観が描かれてもいる事に唖然としました。


ストーリーの紹介は、それだけで先入観を持たせてしまいかねないので、割愛しました。
ストーリーそのものは、多くの実話を繋げるためのシチュエーションに過ぎません。
クルド人の住む土地、その眼差し、この言葉の響き、そうしてその暮らしを受け止めてください。
翻って、内外の政治を批判している事、言うまでもありません。


2003.3.20 記





ラスト・プレゼント


ジョンヨンは、不治の病を隠し、
お笑い芸人である夫、ヨンギを陰で応援し支える。
互いを思いやる二人はそれぞれの屈折した接し方しか出来なくて、
猶つらい思いをさせられます…。


ジョンヨンを演じるイ・ヨンエと、
ヨンギを演じるイ・ジョンジェとの共演が一番の魅力です。


どれほど凄いかといえば、
「イルマーレ」で目を瞠ったが、それ以上に目を瞠らされたイ・ジョンジェの新境地での好演。


イ・ヨンエの顔をいつまでも見入っていたく、
ポスターを買おうと思ったけれど、家人の手前、諦め、
彼女の著書「とても大切な愛」を目立たぬ所に置き、誰もいないときにそ〜っと読み耽る程です。(笑)


「春の日は過ぎゆく」を、見損じたのが大変悔やまれます。
これから、二人が出る作品は欠かさずにスクリーンで見ようと決心しました。


この二人に加えて、脇役と、この基本ストーリーの向こうにあるもう一つのお話が、思いがけず、大変いい!


とりわけ、人のいいやくざの二人組が、助演賞をあげたいほどに、
いい味を出して、この映画の世界をふっくらとしたものにしています。


涙ちょうだいのストーリーに依りかからず、
出演者の演技や監督・撮影などの演出が緻密に組み合わさっているから、
大ブレイクし、リピーターの鑑賞にも十分耐え得ているのでしょう。


イ・ヨンエさんは、「JSA」でお会いしていましたが、全然見違えるほどに変わっていました。


「とても大切な愛」を、ミーハー気分で読み出した私は、
読み進めるうちに、冷水を浴びせられたような気分に変わる。


大変真面目で、直向な努力を惜しみなくする方です。
ドイツ文学を大学で専攻し、
迷った末に、女優への道を歩み出す。
積極的にいろいろな事に参加して、自分を肥やしている。
社会人になって、二人連れでバックパック旅行でヨーロッパを駆け足で、
しかし、かなり存分に、見てまわっています。
韓国の歴史も直視し、映画作品も貪欲に見入っています。
読み終えた後、
同時代に彼女の新作をこれから見られる幸せに、ガッツをしてしまう。(笑)


基本ストーリーの向こうにあるもう一つのお話は、ネタバレになるので、
この後は、映画を見た方だけお読みください。m(__)m












子どもの頃に出会った片想いの人に、長じて再会し、
尚且つ、その人から求愛されるなんて、ちょっと作り過ぎと思えなくはありません。
でも、それまでに映画の世界に、主演二人の魅力で十分引き込まれてしまうので、受け入れられます。
(本音を言えば、ジョンヨンが持つ写真をヨンギに見させている欠点が痛い)
文字通り神様が引き合わせてくれたんだとしか言い様のない出会いをした事のある人には、
この話に深く頷けると思う。
この映画はタイトルからして、別れのドラマだけど、
私は出会いのドラマと受け取りました。


人との出会い・再会の重みが、切なく伝わる作品なのです。


ちなみに、タイトルを次に列挙しておきます。
邦題『ラスト・プレゼント』
原題 『贈り物』
英題 "Last Present"


私の人生で、かけがえのない出会いはいくつかあるけれど、
その中の一つをこの映画に添えて、お話します。


中学生の時に出会った彼女は、それまで私が接してきた女の子達と全然違っていました。
他の大勢の女の子は、私が聴覚障害者であるという事に、ひっかかって、私に接していた(ように感じていました)。
子どもの頃は悲しかったけれど、今は納得できます。
どう贔屓目に見たって、変わっていますもの。
そんな中にあって、その彼女だけは、退くことや避けることや、はすかいに受ける事なく、
ただ微笑んで受け止めてくれたのです。
もともとひょうきんな自分の地が伸び伸び発揮されて、(笑)
とても楽しい日々が過ごせました。
独り善がりの片恋慕しかない心の世界が、広くなったような気分です。
いつもこちらから仕掛けるだけの一人芝居のようでしたが、
きちんと受けてくれる彼女が、
聴覚障害の世界に引っ込んでいた私をその外へ図らずも引き出してくれました。


男子校の高校を卒業後、大学に入って女の子に声をかけられたのは、確かに彼女のおかげです。
大変奥手で、片手で余るほどの女友達との思い出しかないけれど、
それでも、無いのとは大違い。
世の見方や、人との接し方に大きな影響があります。


二三度、中学の同窓会で会いましたが、
言葉で感謝できなく、心の中で手を合わせてしっかりお礼しています。


2003.3.14 記





戦場のピアニスト


第二次世界大戦でポーランドのワルシャワへ侵攻してきたドイツ軍は、
まず、腕章をつけてユダヤ人である事を示すよう強要します。
次に、特別居住地区ゲットーへ市中のユダヤ人たちを押し込め、
そうして、そこから、次々に列車で収容所へ彼等を送りました。
ゲットーで武器を手に入れた者達による蜂起が起こりました。
次いでワルシャワのポーランド人たちも蜂起しました。
次第に連合軍が巻き返して、ソ連軍がワルシャワへ侵攻してきます。


ユダヤ人のピアニストである主人公は、これらの渦中に居ながら、生き延びていく。
最後には、ドイツ軍将校に見つけられもするのです!
つらく惨めな思いをしながらも、
時には、楽観的に、あるいは諦め気味に、
それでいて必死に逃げ回る彼は、幸運と言っていいのか?
それとも、これら全て運命のいたずらなのか?
はたまた、神の思し召しと言うべきか?


彼と共に、次々と展開される眼前の出来事を見て、
私たち観客は、あの時代に人々がどのように生き、死んでいったのかを知ります。
同じワルシャワ市内に住みながら、割り切れない気持ちにさせられました。
そう、いつからから、私もあの画面のなかに…。
あの状況の中に巻き込まれ、流されていく事が、素直に理解でき、
それでいて、その状況の中での、人それぞれの生き方も受け止められる。


そうして、
死んでいった者も、生き延びている者も、
味方も、敵も、傍観者も、憐れに思える。
最後の方に出てきたドイツ将校の例でも分かるように、人間への洞察が行き届いた作品です。


監督のインタビュー記事で、
この作品は、監督と原作者とが、深いところで共同制作した作品だと知りました。
(監督は、1933年フランスで生まれ、3歳の時両親の祖国ポーランドへ赴く。
両親は、収容所へ送られ、母はアウシュビッツで死去。
監督は、クラクフのゲットーを脱出し、戦後父と再会を果たす)


「いつかこのポーランドの痛ましい時代の出来事を映画にしたいとは思っていた。
そのためにはふさわしい素材、映画監督としての成熟、しっかりとしたビジョンを持つ必要があって、その時が来るのを待っていたのだ」
「シュピルマンの回想録が私を興奮させたのは、彼の体験と私の間にほどよい距離があったからだ。
恐怖に打ち勝つ方法が、非常に楽観的に描かれていることに加えて抑制的である点が、この原作の強みだと思う」
「善いポーランド人と悪いポーランド人がいて、ユダヤ人にとっての亡霊は、ドイツ人にとっての亡霊でもある。結局、我々はみな人間なのだ。私はそうしたポイントを映画に置き換えた」


キネマ旬報2003年2月下旬掲載、石井美由季著インタビュー記事より


ポランスキー監督が、この素材に出会う話を、後で知りましたが、
その話も、この映画に添えて、人々に知って欲しいと思う。


原作者シュピルマンさんは、
第二次世界大戦時のワルシャワで経験した事を、戦後直ぐに本にしました。
しかし、その後の政治的状況の下、発禁処分を受ける。
政治状況が好転した後、人々の勧めがあったものの今度は著者自らが出版を渋ります。
このような紆余曲折を経て、
ようやく、1999年イギリスで発行されました。
こうして、この本が映画監督ポランスキーの目に留まり、
その秋、著者から映画化の承諾を受ける。
翌年7月、著者のシュピルマンさんは、突然亡くなりました。


シュピルマンさんの息子さんが、日本に在住しています。
その彼のインタビューに次の一節が有りました。
「エイドリアン・ブロディは、写真を見たときは似てない、と思ったのですが、
映画を見たらあまりにもそっくりなのでびっくりしました。」


この原作と映画作品とをつなげたのがポランスキー監督なら、
映画内容と観客とを結び付ける大きな役割を果たしているのが、主演のエイドリアン・ブロディでしょう。
映画の主人公の行動を観客に納得させるものが彼にはあって、
監督が出資者等の反対を押し切ってアメリカ人である彼を起用したのが頷けます。
彼の演技というか、映画での立ち回りは、
余りにも控えめ過ぎるように見受けられるかも知れませんが、
私はそれだからこそ説得力を持ち得ていると感じました。


2003.3.2 記
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ウォーク・トゥ・リメンバー


格好つけて粋がり、不良仲間内で暇つぶしをするランドン・カーターが、
バカ騒ぎの尻拭いで、罰則を受ける。
その新しい暮らしの中で、幼なじみのジェイミー・サリバンと近づきになる。
でも、二人は全く違った世界に住んでいます。
ランドンがボランティアで参加する舞台では、ジェイミーも出ます。
その稽古から本番を通して、次第に惹かれあい、互いの気持ちを打ち明けあうようになります。
しかし、…。


悲恋物語で、感動の…というフレーズがこれでもかとついてまわる。
確かにそれはそれでそうなんだけれど、
そういう宣伝・先入観は一旦忘れて素直に見て欲しい。
数ある映画の中の一作ではなく、
若い二人の男女が青年期に出会って、本当の人生に踏み出すところを描いた作品として見ていただきたい。


見ていて、30年ほど前に見た「ある愛の詩」を一瞬思い出しましたが、
主演の二人にスッカリ魅了された私は、それを恥じ、
この話に引き込まれ、不覚にも涙してしまいました。
そう、タイトルで泣かせモノだと分かっていたのに…。


あの「ある愛の詩」よりも、気取らず、目配りが行き届いていると感じました。
これは、ひとえに主演の二人の魅力と、二人を取り巻く周囲の人たちの描写がしっかりしているからだろと思う。
それぞれの生活環境の設定も、見終えた後で憎いなぁと頷く。


「ある愛の詩」は、若い時に見たのですが、
その私も今や、二児の父親。
その視点で見ても、思いのほか納得のいく仕上がりなんですよ。
親として、思うに任せず、
それでいて、でき得る事を常に手さぐりせざるを得ない歯がゆさが隠し味になった3人、
否亡きジェイミーの母親をも含め4人の親の気持ちもしっかりと感じられました。


ちょっと話がそれたけど、(^^ゞ
ランドンがジェイミーに出会って次第に心変わりしていく様が大変共感が持てて、
多分知らずに頷きながらズーッと見ていたのではないかと思う。(笑)


相手を見ているうちに、次第に自分のバカさ加減が見えてきて厭になる。
仲間と次第に離れていき、ジェイミー寄りの世界へ入っていく時のジャンプするような気分。
なかなか巧く立ち回れなくて、ダンスも知らない事を後悔する。
ちょっと派手なセーターをプレゼントする気持ち。
相手の父親と接する時の怯むような気分。(笑)


本当にオイオイと言いたくなる程にこちらの気持ちをくすぐる。
でも、自分の為に作られた映画ではないからして、
これは普遍的な内容なんですよね!ね!(笑)


この主演の二人、これから楽しみです。
ジェイミーの衣装の変化と舞台の上での華やかさは必見です。


お母さん役のダリル・ハンナは、見ててちょっと辛らかった…。
自分も歳取ったから、仕方ないけどね。
でも、あんな風にダンスを教えてくれる人が身近にいてくれたら、
私の云年前の同窓会ももっと素晴らしいものになったろうな〜。(あっ、言っちゃった(^^ゞ)

2003.2.2 記
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ギャング・オブ・ニューヨーク


ストーリーは、1860年代、もっとこまかく言えば、
1846年と1863年のアメリカはニューヨークの下町を舞台にした、
あまり知られていない伝承を元にし、史実を加味した歴史ドラマです。
しかし、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を
テレビを通して殆どリアルタイムで目の当たりにしてしまった後では、
アメリカの本質とも言えるものの重みが、ずしんと伝わります。


移民を迎える者と移民との争い、民族間の偏見、暴力、そうして、
利用しようとして利用される政治の介入等等の問題が此処彼処にある。


スコセッシ監督がこの作品の想を得たのは1970年頃で、
子どもの頃から今に至るまで住んでいるその当の道端に立ち、
「アメリカの試練の時代と、このうら若き国を象徴する物語」
をスクリーン上に描きたいと志しました。


「希望のない恐怖の時代の中で手を取り合って夢のために戦った若きアメリカ移民たちの話を描」くにあたり、
「アメリカという国のルーツを描く時代ドラマのかたち」を取った。
それが図らずもと言うか、見事に的を得て、本質を描いてしまったのではないか?


スコセッシ監督と一緒に脚本を書いたコックスの談話に次のようなくだりがありました。
「この映画にはたくさんの側面があって、
それには25年という歳月を私たちが生きてこなければ出せなかった部分も含まれている」
2001年3月30日に撮影を終了した後も、
テロ事件を経、編集の段階で更に作品の仕上げが行なわれている事を窺わせるに十分な発言です。(無論、この編集を指しての発言ではないにしても)


悪名高き政治家ウィリアム・トゥイード役を演じたジム・ブロードベントが、
いみじくも次のように語っています。
「ある意味、彼の存在は現代のアメリカを象徴しているとさえ言えるね」


いきなり、この作品のテーマについて長々と触れてしまいましたが、
2003年の年頭に劇場で見た感想として、筆頭に来るものなのです。


そして、その次に来るのがスクリーン上に展開される映像の圧倒的な迫力です。


セット、多くの出演者、そうして繰り広げられる数えきれないドラマの数々を、
見終えた後しばらく動けませんでした。
一度見ただけでは汲みきれないディティールの多彩さと、
一度で、ともかく分かるくっきりとしたデッサンの確かさが伝わる作り方に、
スコセッシ監督の力量を感じました。


後で、公式サイトを見に行き、
細かく多くあるプロダクションノートを読みながら、
何度も度肝を抜かれました。
なんという作品…!


「ある建築家チームがマンハッタンの下町の発掘作業をして、
ファイブ・ポインツのライフスタイルや当時使われていた器具などが判明した。
この発掘で得られた物の中から85万点にもおよぶ皿や櫛や玩具などのアイテムを利用する事が出来た。
しかもその後、貸し出されていた16点を除いて、殆どのアイテムが
同時多発テロで、破壊され、永遠に葬り去らされてしまった事を考えれば、奇跡としかいいようのないタイミングだった」


主演の二人の存在についてどう受け取ればいいのか、
このサイトの脚本家の次のコメントから理解できました。
スコセッシと共同で脚本を書いたジェイ・コックスの談話です。


ブルース・スプリングスティーンの「街角から出現する救済者を待って」という歌詞にインスピレーションを受けた。
そして、民衆のためのヒーローというキャラクターを生み出す事になる。
そこからコックスはアムステルダムの世界を構築し始めた。
「アムステルダムを生み出したことによって、ビル・ザ・ブッチャー」も生まれたように思う。


この映画作品の要のようです。
要の下に、ビル・ザ・ブッチャーや史実があり、
広がった扇で時代の風が煽られている、と。
一見して無くてもいいくらいに存在感が小さいのです。
裏返して言えば、何はともあれ、あの時代とその時にそこで生きたすべての人が大きく迫ってくるのです。


後々、「これを公開時に大きなスクリーンで見たんだよ!」と言って、
ビデオで見た人を羨ましがらせられる事、間違いありません。
えっ、あなたも見た?(笑)

2003.1.26 記
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ダーク・ブルー


子どもの頃にプラモデルを作ってお気に入りだった、
スピットファイヤーやメッサーシュミットの空中戦が見られると、
いそいそ出かけましたが、
完全に背負い投げを食らいました。


これは、チェコスロバキアの空軍軍人二人の人生を通して、
歴史・戦争から、友情・愛に至るまで、
多くのことを語って止まない,膨らみのあるドラマです。


チェコ空軍の教官であるフランタが、恋人と戯れているのは、眩い陽光の射す明るい空の下。
しかし、時代の風雲急を告げ、チェコはドイツの支配下に置かれます。
若いパイロットのカレルと共に、フランタは英国へ逃げ、英国空軍に従軍します。
様々なことが起こり絡まって、二人の友情と愛は解き難く、
フランタとカレルとはそれぞれの命を賭けて、行動していく。
やがて、戦争は終わり、祖国へ帰ったフランタが見たものは…。
かっての空は、胸に沁みるダーク・ブルー・ワールド。


この作品は、まず、先の戦争がどのようなものであったかを、伝える。
チェコスロバキアの国が置かれた状況と、そこでの自ら信じる正義を行なう道の在りか。
そうして、戦場で試される友情と、思いがけない愛の行方。
空ばかりではありません。
そこに浮かぶ白い雲も、眼下の海も、地上の木々の緑も、
それぞれの色がなんと切なく映えることか。


見ながら、古いところでは、「ひまわり」を、
新しいところでは、「サイダーハウス・ルール」を、
思い出させるほどに、
普遍的な戦争の姿を、
新鮮なチェコの人の表情と息吹とでくっきりと示してくれます。


フランタやカレル、そして二人の間に居たスーザンだけでなく、
他にも心に残る人たちが居て、
含みがあるのは、ストーリーだけでなく、キャスティングについても言えます。


そして、忘れてはいけない、人の心の中にある"ダーク・ブルー”。
自分の中にも、愛する者の中にも、
等しく全ての人にある、それを…。


作品に込められた、チェコスロバキアの人たちの志や愛を、
しっかり受け止めてください。

2003.1.11 記
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8人の女たち


これは、おしゃれな作品です。
なによりも、主演の女優達の演技が奏でるアンサンブルに酔う。


見る人ぞれぞれが、それぞれに楽しむ作品であります。


私の楽しみは、まず、
カトリーヌ・ドヌーヴと、ファニー・アルダンに寄り沿う。
なんといっても、思春期に見てしまった「哀しみのトリスターナ」、
大人になるも、女が不可解なまま見てしまった「隣の女」、
これらで衝撃的な出会いをし、長い時を経ての再会。
言葉にし難い思いを抱えたまま、彼女たちの演技に魅入る。


次は、エマニュエル・ベアール!
なんという色気!!
腰が浮きそうなくらい引き寄せられてしまう。
台詞・立ち居振舞いがハチャメチャなのだけど、
それより、なにより、ただその色気が…。


そうして、リュディヴィーヌ・サニエ、そしてヴィルジニー・ルドワイヤン。
彼女たちのどこに魅せられるのだろう?
インパクトのある容姿は、又会いたいと思わずにはいられない。
それぞれの演技と言うより、その風貌がスクリーンに出た時、
一瞬にして独特の世界が回り出すような魔力を感じます。


これほどにまで魅せられてしまうと、
ストーリー(ミステリー)も音楽も、私には付けたし…。
そちらの方で気に入る方がいたら、ごめんなさい。(笑)

2003.1.1 記
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太陽の雫


これは、ハンガリーを舞台にした、一家一族の、
正味、なんと、5代に渡るお話です。
私にとってこの映画の主人公は、3代目の女性。
彼女の存在が、全編の重苦しい雰囲気を柔らかく支えています。


近代ハンガリーの移り変わりは、大変目まぐるしい。
その中で、
政治の世界で生きる事の難しさ、人類の過ち、人間の弱さと強さ、等などが、
作者の人生観と共に、力を込めて描かれています。


作者から私が受け取った事の筆頭に、
まず、民族の、人としての、アイディンティティの大切さがある。
自分の夢を叶えるために、生き延びる為に、3代目4代目が姓を変え、宗教を変えますが、
5代目が、その為、生きる道を探しあぐね、時代に翻弄されます。


二番目に、人が生きる本筋を見失わない事の大切さがきます。
それを示しているのが、主人公の女性。
彼女の青春時代が光あふれる画面を通して描かれているのが、
この作品の中心にあって、
いろいろな事に振り回される一族の中で、際立って、
生き生きとしています。
そうして、彼女の趣味が、写真である。
生きている人とその周りの世に降り注ぐ光を忘れないこと、
そして、それを大切にして欲しいというメッセージを強く感じました。
家の中庭一面に花が咲いた色彩鮮やかな光景と、
写真や映像の中のモノクロの画像とのコントラストに、
そのメッセージが込められている。


三番目に、人の愛欲を描いているのも、確かに重要。
人を一途にし、強くさせる人間の情感、その根幹にある愛欲をいくつかの角度で描き、
それが及ばないところにある虚しさも照り返すように描かれている。

太陽の雫 余録


地味な作品ですが、
これは、映画の職人達(製作者も含む)が、その力を発揮した作品と見受け、
もう少し踏み込んで書いておきたい。


長い年月に渡る歴史とその中を生きる人とを共に描いていますが、
目まぐるしく思えてもその流れはよく分かる。
これは、ひとえに自らが脚本を書かれたサボー監督ならではの手腕によるものでしょう。
この構成力は並大抵のものではない。削られた準備稿の膨大さが窺われる。


落ち着いた画面で二代目周辺を描いた後、
華やかな画面が三代目を活写する。
四,五代目に至り、ドキュメンタリータッチ・ドラマタッチの映像がスクリーンをシャープによぎる。
この映像の組み立ても、目を瞠る。
スタッフ資料によれば、
ラヨシュ・コルタイという撮影監督によるもので、かれは、サボートの代表作を共作しています。


ついでに、サボー監督のところを読み直すと、ハリウッド進出を果たすと記してある。
なるほどと大きく頷かざるを得ない。
ロケーション・大道具の見事さ・エキストラの膨大さ・キャスティングの豪華さを思い直して、十二分に納得です。


レイフ・ファインズやウィリアム・ハート等も、期待を裏切らない仕事をしてくれていますが、
更に、
若い頃のヴァレリーを演じたジェニファー・エールを始めとする、イギリス舞台出身の面々、
例えば、レイチェル・ワイズ(グレタ役)・ローズマリー・ハリス(晩年のヴァレリー役)等も、
確かな演技で、見る私たちを作品の中へ、引き込んでくれた。


硬派のサボー監督とハリウッドとの組み合わせでこうなるのか…。
お互いのつばぜり合いを想像しようとしても、全然出来ない。
ハリウッド娯楽大作の舞台裏より、こういう作品の成り立ちの方を是非に知りたいものです。

2003.1.1 記
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