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 人生にとって、真に大切な事は何か、時折考える事があります。
それは、例えば仕事において、又家庭において、或いは生活全般において、様々な状況の中で。
自分として、夫として、親として、子として、職人として、生活者として、男として、社会人として、
日本人として、地球人として、様々な立場の上で。
人として、自分にとって今何が、問われているのか、又自身に問いかけなければならないのか。

 それに対する漠然とした思いなり答えを、言葉として書き連ねる事は可能です。
例えば、誠意、愛情、感謝、プラス志向、夢を失わぬ情熱、戦争よりも和平を、明日を信じる心、勇気、行動力、
決断、創造性、努力の継続、正義感、博愛から世界平和へ・・・・・。全き一個人、家庭人としての思いを馳せれば
子育て、子の成長と未来、家庭の幸福と団欒、妻子・親・肉親・友の健康と安全、作家としての完成と仕事の成就、
創造と想像力の弛まぬ発展、天命の全う、等々。

 一個人として、世界と地球に貢献し得る道を考え模索する事の虚しさと、大切さとを共に痛感しながら、
日々の生活に追われ続ける、これが掛け値なしの自分自身の現在であり、限界なのだと分かりながらも夢を
見続ける事は、果たして偽善なのだろうか、それとも正直な真摯さだろうか。

 以前、禅寺で座禅の折、僧侶から「考えておる時、人は何もしておらない。行動に移った瞬間、もう考えては
いない。」という意味のことを、言われた事があります。
只いたずらに物を考えている素振りの逃避行為はさることながら、真剣に悩み考えている時に、ザクリとした言葉で
行動する事の重要さを説かれた経験は、鉈で頭を断ち割られたような新鮮なショックでした。

 絵を描く事が好きで、まがいなりにも美術を志し、職人に憧れて手描き友禅の模様師となり、着物に絵を描き
染め、その着物の袖に手を通して頂ける事に秘めやかな喜びを感じ、更に自分の好むところの作品を臆面もなく
造り、発表という形で人目に晒し、好評不評に一喜一憂しながら、喜び・感動・苦しみ・落ち込み、ひっくるめて
生きがいの皮袋に押し込み、背負い、野も山も河も原っぱも道があろうと無かろうと、日月星天空の中ひたすら
今日まで駆け抜けて来た・・・、そんな自分であった気持ちが致します。

 今、私も数えで五十、という歳を迎えるにあたり、「行動する事」を信仰に近い思いで今日まで来た自分の
生き様を、逆に静として沈思黙考、省察してみたい気持ちになりました。
正直、生活にゆとりがあるという訳ではありません。悠々自適の心境で、知天命の極意に臨まんとするなどの、
泰然悠揚たる心地では決してないのが、本心です。 生活者、又職人として只単に現役であるという以上に、
これは今ほとんどの我が年代も含め、一般庶民のほぼ共通の思いとして、昨今の実情として生活する事への難しさ
の実感があります。然し、それはそれとし深く本音の胸奥にひそませつつ、敢えて正論に挑んでみたい。愚直、頑迷
との批判、非難に耐えて甘んずるを覚悟の上で。

 師、松井健一が今の私の年齢の折に、私は師の弟子の一人として入門致しました。師はその頃、二十代の男女を
七名ほども、指導教育されておりました。学校ではなく、工房としてそれだけの人員を使っておられる方は、当時と
しても珍しかったでしょう。師は、自らが現役の実制作者であると共に、掛け値なしの教育者でありました。
今振り返り、私は、具体的な染めの技術もさる事ながら、精神的なものの考え方の根本を、より多く師より学ばせて
頂いたのだと思っております。それは、一献を傾けあう一夜の宴席での「言葉」として。又独り黙々と、創作と
向き合っておられる時の、その「態度」として。優れた先輩方が多かったため、日々の技術については、直に師より
手ほどきを受けさせて頂いた経験は、私にはあまりありません。人の背を見て学ぶ、という言葉がありますが、私の
場合正にその通りだったような気が致します。そして五十歳になった今、三十年間を省みて思います事は、先ず
「教育」というものの必要性です。

「教育」と一言で言いましても、それには二つの意味があります。一つは、己が今日までの経験、知識、思いを誠実に
後から来るものへ教え伝える事。もう一つは、自分自身が人にものを教えるという経験を、自ら積み上げる事。
事は染色、職人の世界のみに限らず、世の中社会全般を見渡して見ましても、教育、特に心の問題、精神性の分野での
その必要性は、猶予を待ちません。総てを精神論で片付けようとするものでは、決してありません。今日ほど真の意味で
「哲学」、「情操教育」が待望される時代も又ないのではないか、と思うのです。人間が人間を誠意で理解する心情。
美を美と正直に感ずる感性。そういう豊かなる感情と、深い理性に裏打ちされた個々の人格を育み育てることへの挑戦を
今こそ全人類的に総動員させることこそ、今日最も必要な事であろう。そう思います。 事は単純でも、生易しい事でも
ありません。が、数多の犠牲と共に、人間がその事を今学ばねば、種としての後悔を得る日を、人類は必ずや近い将来に
見るであろう。そう、思います。 哲学や芸術が、一切を解決してくれる訳では無いことは、元より自明の理です。
然し、余りにもこれまで蔑ろにされてきたそれらの学問が、今光を発せずば、後々輝きを取り戻すことは無かろうとさえ
危惧致します。わが国の義務教育においては、尚更その感がひとしおです。 人は一桁までの年齢の間に、個人の基本的
人格を、造り上げてしまうと言います。その大切な「子供」の期間に、深い情操を体得させるには、芸術という形が最も
相応しく又、大なる影響を施すものと思われるのです。

 話を戻し、手描友禅の世界を見直して見ましても、全く同じ事が言えます。特に、「着物」に関しましては、後継者
問題も含め、しっかりとした教育の必要性を痛感致します。染色、特に友禅は、着物に依って磨かれ、鍛えられ、発展
して来たものであり、今後も同様であると思います。それは、着物が単に、着物単独で今日まで生き永らえてきたのでは
無く、華道、茶道、香道、武道、歌舞音曲、絵画、工芸、演劇、宗教、冠婚葬祭、神事、式典、祭祀、等々、そして日々
の生活も含め、日本固有の豊かなる文化の中で、様々なる文化と共に融合し合い、綾なし合いながら、育まれてきたもの
であるからです。着物は、作家個人のオリジナリティである以上に、文化全体の「態度」としての意味合いの中にこそ、
その価値観を見るべきものであろうと、思います。それが、「伝統工芸」というものの有する真の価値ではなかろうかと
思うのです。そして、その時代の中で、その時代の精神と潮流を体現し得る作家個々人が、自在に筆を走らせる時、
文化の一端を担うに値する「創造性」を見出し得るのであろう、そう思います。個性、というものは、本来そういうもの
であろうと、私は思います。そういう事を踏まえ、後継者教育というものを、今後どの様に展開してゆけるのか、私の中
でのこれは大なる課題です。大変難しく、又中々機会も無いのが、実情です。 そしてもし、そのような機会を与えられ
た折に、私自身がその経験の中から得るであろう、又得なくてはならない私自身への「教育」の必要性は、更に大なる
ものとして、心に銘じているところでは、あります。

 師匠松井健一の様々な教えは、そういう形で私の中に生き続けておりますが、別人格でもあり、更には師に遥かに
及ばぬ非才故に、些かの羨望と悲哀とを感じつつ、日々送り続けております。

 人間にとって、私にとって、真に大切な事とは一体何か。今と未来に対する私自身の、死ぬまで解けない命題です。
「考えている間は、何も行動していない。」これも又、紛れも無い事実です。考えて、行動する。行動しては、
又考える。その繰り返しの人生。実は、数えで五十、云々・・の行を書いてから、この行まで、実に半年以上が経過
してしまいました。多忙にかまけている間に、とうとう満での五十歳の坂を、越えてしまいました。こんな風にして
時は過ぎ行くものか、との思いを抱きつつ、取り敢えずの筆を置きます。 
長々とお読み頂き、感謝申し上げます。

                                        平成16年 9月13日