前回は、飛鳥・奈良の染織事情について、大まかな解説を致しましたが、今回から
個々の作例をとりまして、より深く考えて参りたいと思います。
先ず、飛鳥時代の代表的な染織資料を備えるところの、法隆寺の品々について解説
致します。
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○前述の通り、飛鳥時代の染織品は、奈良・法隆寺に伝播されたものが、その中心ですが
法隆寺伝来--と言いましても、すべてが飛鳥時代のものでは、当然ながらありません。
次の奈良時代のもの、又それ以降とも思われるものが、実は少なくないようです。
特に、染め・織り--の、「染め」に関する資料としましては、単色染めとしての、糸の
染色の例は豊富ですが、はっきりとした「文様染」としての実物資料は、ほとんど見当たり
ません。
又、前述しました、純粋に国産品か外来品かを見分ける方法も、限られております。
何故かと言えば-----
○当時は多数の伝来品があったこと
○最先端の「大陸風」の意匠が大流行したこと
○朝鮮半島や大陸からの帰化人が多く、その人たちが多く制作に携わったこと
----などの理由によります。
○当時、貿易を行なう場合には、布帛類が多数用いられたことは、想像に難くありません。
一つには、布は巻ける--ということで、運搬に適していたこと。
西洋の油絵も、板などよりもキャンパスが圧倒的に多用されたのは、巻ける、という理由
に他なりません。
限られた運搬技術でより多くの品を運ぶには、コンパクトになるものでなければ不都合です。
又、布は陶器のように、つぶれたり壊れたりしにくい面があります。
更に、量り売り、切り売りが容易です。半分にしても価値は変わりません。
そのような理由から、布帛類は多く交易品として珍重された訳ですが、その際、より
換金効率の高いもの、同一数量で貨幣価値の高い品が使われたはずです。
即ち、大陸から我が国に入って来たものの中には、最高級品がより多数あったと思われるの
です。
これが、外来品を見分ける目安となり得るのです。
○それでは、一つ一つの例をとって見ましょう。
★蜀江錦
法隆寺には、蜀江錦・広東錦などと呼ばれる経錦(たてにしき)が伝わっており、これらは
すべて外来品と思われます。
経錦とは「けいきん」とも言い、文様などを数色からなる幾重かのタテ糸の浮沈交替によって
織表したもの--です。
つまり、タテ糸を何色か一組にして、そのどれか一本が表に出て、文様を作ってゆくという、
かなり面倒なものです。
○赤地で格子の内に蓮華を納めたもの
○細線による連続割付唐草紋様
○連珠(まる模様--真珠を表している)と唐草で囲んだ内に鳳凰・天馬・龍などをあしらった
もの
---などが、代表的です。
そのデザインは、古代中国の神話の書物である「山海経(せんがいきょう)」を題材としたもの
や、「蓮華紋」--即ち、古代インドの宗教・ヴェーダの神話を題材にしたものなど、中国のみな
らず、遠く西方のインド、又さらにペルシャの影響も見て取れます。
この経錦の時代は相当長く続き、やがては、奈良時代以降の「緯錦(いきん--よこにしき)に
とって変わられてゆくのですが、一時代を画する一品として大変貴重なものです。
前述の、長沙馬王堆・1号漢墓からの発掘例に大量に見られるのは、この経錦です。
奈良時代以前の錦の名称に、霞錦・秘錦・呉人錦などの名が残っており、雄略帝は錦織りを
奨励し、錦部連をおいたとか、孝徳朝にはこの技術が精緻を極めた---とも言われており、
1988年には、奈良・斑鳩の藤ノ木古墳より、飛鳥時代をより遡る経錦が見つかっていて、
その解明に期待が寄せられます。
★太子間道
平織りで、赤地に染められた絣織りの裂れ地。
やはり、蜀江錦と同じ意匠が見られる。
★花文きょうけちの台褥
聖徳太子、7歳の折使用とあるが、奈良時代色が強い。
テーブルセンターのようなもの。
★ろうけち鸚鵡形毯代
毯代とは、毛織物の敷物の代用に絹で造られたとの意。
先ず、黄色を染め、ろうを置いてから、朱をかけて染めてある。
★獅子文狩紋様錦
四天王紋旗と称されるもの。まる紋(連珠紋)の連列で輪を作り、その中に絵を表出している。
人物の表情や意匠に、ササン朝ペルシアの影響を色濃く残している。
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○ここで、染めの観点から、模様染めではなく色としての貴重な作例を、提示してみたいと
思います。
★冠位十二階の制定
冠位十二階につきましては、前述の通りですが、「各々その当色の色を以て縫い・・・」と、
あるのですが、それが冠だけなのか、衣服全体であったのかは、はっきり分かっておりません。
しかし、それが----
○純粋に我が国国内で、行なわれたこと
○大量かつ正確な染色が必要とされ、実行されたこと
○緑のように、色を掛け合わせた複雑な染色が行なわれたこと
-----において、画期的な行事であったと、言う事が出来ます。
そして、その染色の実態の実物資料として、次の例があります。
★天寿国繍帳
推古29年(621年)、聖徳太子が亡くなった後、后の橘婦人が太子の冥福を祈るために作製
させた、刺繍の帳(とばり)で、現在は1m平方大ほどの断片の張り合わせのみ、残っている。
これは、「上宮聖徳太子法王帝説」という文献に、制作時期・動機・絵師・職人などの詳細が
明らかになっている、数少ない貴重なものです。
古代中国の刺繍の技術の高度さを、我が国の作例で最も良く知る事の出来るもので、
「鎖縫い」という、よった糸を用い、まるで鎖が連鎖するような方法で刺繍されています。
その縫い糸に施された染色の色に-----
紫・赤・緑・藍・黄・白茶・茶
-----が残っており、まさに、冠位十二階の色そのままの証明と言う事が出来るのです。
○結論から言いますと、飛鳥時代の染めは、まだ我が国では紋様染めの出現は確定出来ては
おりませんが、想像以上に高度な単色染めは充分行なわれていた、という事になります。
それから130年の後、奈良天平・勝宝4年の「大仏開眼」までの間、我が国染色資料の実物
としては、ほぼ皆無と言えます。
そして、そこから「正倉院御物」へと、染織史は一っ飛びすることになります。
○という訳で、次回は「東大寺・正倉院」の作例について、述べさせて頂くことに致します。
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