染人への旅  Vol.6    飛鳥・奈良 2    目次   top   


 前回は、飛鳥・奈良の染織事情について、大まかな解説を致しましたが、今回から
 個々の作例をとりまして、より深く考えて参りたいと思います。
 
 先ず、飛鳥時代の代表的な染織資料を備えるところの、法隆寺の品々について解説
 致します。
 
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○前述の通り、飛鳥時代の染織品は、奈良・法隆寺に伝播されたものが、その中心ですが
 法隆寺伝来--と言いましても、すべてが飛鳥時代のものでは、当然ながらありません。
 次の奈良時代のもの、又それ以降とも思われるものが、実は少なくないようです。
 特に、染め・織り--の、「染め」に関する資料としましては、単色染めとしての、糸の
 染色の例は豊富ですが、はっきりとした「文様染」としての実物資料は、ほとんど見当たり
 ません。
 又、前述しました、純粋に国産品か外来品かを見分ける方法も、限られております。
 何故かと言えば-----
  ○当時は多数の伝来品があったこと
  ○最先端の「大陸風」の意匠が大流行したこと
  ○朝鮮半島や大陸からの帰化人が多く、その人たちが多く制作に携わったこと

 ----などの理由によります。

○当時、貿易を行なう場合には、布帛類が多数用いられたことは、想像に難くありません。
 一つには、布は巻ける--ということで、運搬に適していたこと。
 西洋の油絵も、板などよりもキャンパスが圧倒的に多用されたのは、巻ける、という理由
 に他なりません。
 限られた運搬技術でより多くの品を運ぶには、コンパクトになるものでなければ不都合です。
 又、布は陶器のように、つぶれたり壊れたりしにくい面があります。
 更に、量り売り、切り売りが容易です。半分にしても価値は変わりません。
 
 そのような理由から、布帛類は多く交易品として珍重された訳ですが、その際、より
 換金効率の高いもの、同一数量で貨幣価値の高い品が使われたはずです。
 即ち、大陸から我が国に入って来たものの中には、最高級品がより多数あったと思われるの
 です。
 これが、外来品を見分ける目安となり得るのです。

○それでは、一つ一つの例をとって見ましょう。

★蜀江錦

法隆寺には、蜀江錦・広東錦などと呼ばれる経錦(たてにしき)が伝わっており、これらは
すべて外来品と思われます。

経錦とは「けいきん」とも言い、文様などを数色からなる幾重かのタテ糸の浮沈交替によって
織表したもの--です。
つまり、タテ糸を何色か一組にして、そのどれか一本が表に出て、文様を作ってゆくという、
かなり面倒なものです。

○赤地で格子の内に蓮華を納めたもの
○細線による連続割付唐草紋様
○連珠(まる模様--真珠を表している)と唐草で囲んだ内に鳳凰・天馬・龍などをあしらった
 もの

---などが、代表的です。

そのデザインは、古代中国の神話の書物である「山海経(せんがいきょう)」を題材としたもの
や、「蓮華紋」--即ち、古代インドの宗教・ヴェーダの神話を題材にしたものなど、中国のみな
らず、遠く西方のインド、又さらにペルシャの影響も見て取れます。

この経錦の時代は相当長く続き、やがては、奈良時代以降の「緯錦(いきん--よこにしき)に
とって変わられてゆくのですが、一時代を画する一品として大変貴重なものです。
前述の、長沙馬王堆・1号漢墓からの発掘例に大量に見られるのは、この経錦です。

奈良時代以前の錦の名称に、霞錦・秘錦・呉人錦などの名が残っており、雄略帝は錦織りを
奨励し、錦部連をおいたとか、孝徳朝にはこの技術が精緻を極めた---とも言われており、
1988年には、奈良・斑鳩の藤ノ木古墳より、飛鳥時代をより遡る経錦が見つかっていて、
その解明に期待が寄せられます。


★太子間道

平織りで、赤地に染められた絣織りの裂れ地。
やはり、蜀江錦と同じ意匠が見られる。


★花文きょうけちの台褥

聖徳太子、7歳の折使用とあるが、奈良時代色が強い。
テーブルセンターのようなもの。


★ろうけち鸚鵡形毯代

毯代とは、毛織物の敷物の代用に絹で造られたとの意。
先ず、黄色を染め、ろうを置いてから、朱をかけて染めてある。


★獅子文狩紋様錦

四天王紋旗と称されるもの。まる紋(連珠紋)の連列で輪を作り、その中に絵を表出している。
人物の表情や意匠に、ササン朝ペルシアの影響を色濃く残している。

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○ここで、染めの観点から、模様染めではなく色としての貴重な作例を、提示してみたいと
 思います。

★冠位十二階の制定

冠位十二階につきましては、前述の通りですが、「各々その当色の色を以て縫い・・・」と、
あるのですが、それが冠だけなのか、衣服全体であったのかは、はっきり分かっておりません。

しかし、それが----
 ○純粋に我が国国内で、行なわれたこと
 ○大量かつ正確な染色が必要とされ、実行されたこと
 ○緑のように、色を掛け合わせた複雑な染色が行なわれたこと

-----において、画期的な行事であったと、言う事が出来ます。

そして、その染色の実態の実物資料として、次の例があります。


★天寿国繍帳

推古29年(621年)、聖徳太子が亡くなった後、后の橘婦人が太子の冥福を祈るために作製
させた、刺繍の帳(とばり)で、現在は1m平方大ほどの断片の張り合わせのみ、残っている。
これは、「上宮聖徳太子法王帝説」という文献に、制作時期・動機・絵師・職人などの詳細が
明らかになっている、数少ない貴重なものです。
古代中国の刺繍の技術の高度さを、我が国の作例で最も良く知る事の出来るもので、
「鎖縫い」という、よった糸を用い、まるで鎖が連鎖するような方法で刺繍されています。

その縫い糸に施された染色の色に-----

  紫・赤・緑・藍・黄・白茶・茶

-----が残っており、まさに、冠位十二階の色そのままの証明と言う事が出来るのです。

○結論から言いますと、飛鳥時代の染めは、まだ我が国では紋様染めの出現は確定出来ては
 おりませんが、想像以上に高度な単色染めは充分行なわれていた、という事になります。

 それから130年の後、奈良天平・勝宝4年の「大仏開眼」までの間、我が国染色資料の実物
 としては、ほぼ皆無と言えます。

 そして、そこから「正倉院御物」へと、染織史は一っ飛びすることになります。

○という訳で、次回は「東大寺・正倉院」の作例について、述べさせて頂くことに致します。


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 Vol.5の記述に、一部誤りがございましたので、訂正致します。

★飛鳥・奈良時代---の項  5行目
 「かのような錯覚すら覚えるほど、。・・・」の、「。」は無しです。

★法隆寺の説明---の項   8行目(空白行は除く)
 「但しこれらの物の内、純粋に本邦政策の・・・」とあります、「政策」は「製作」の 
 誤りです。

〔語句の説明・追加〕

○幡 ばん
 仏の威徳を示す荘厳具(しょうごんぐ)。
 法会・説法などの際、寺の境内に立て、又は本堂に飾る。
 三角形の首部の下に細長い幡身をつけ、その下から数本の脚を垂れたもの。
 (広辞苑)

○褥 じょく
 畳又は筵の上に敷いた綿入れの敷物。
 方三尺余、表は唐織、もしくは固織物などに、広さ約四、五寸の赤地錦の縁を四方に
 差し回し、裏は濃打絹などを用いた。
 (広辞苑)

○当色 とうじき
 位階に当てた服色。位色(いしょく)

 1 大徳(だいとく)  紫
 2 小徳(しょうとく) 薄紫
 3 大仁(だいにん)  青
 4 小仁(しょうにん) 薄青
 5 大礼(だいらい)  赤
 6 小礼(しょうらい) 薄赤
 7 大信(だいしん)  黄
 8 小信(しょうしん) 薄黄
 9 大義(だいぎ)   白
10 小義(しょうぎ)  薄白
11  大智(だいち)   黒
12 小智(しょうち)  薄黒

*冠位十二階では、上記の色分けで身分を分別した。
 但し、白の濃淡の見分けについては、いまだ疑問が残る。

○蜀江錦 しょっこうきん
 蜀の河の水でさらして、織ったと伝えられる錦(にしき--絹織物のひとつ)。
 蜀江--中国、三国時代に、景帝皇子中山靖王後胤昭烈皇帝・劉備玄徳が治めた蜀漢の都、
 成都(現在の四川省)付近を流れる河。
 元来その蜀から産した錦織物。龍、牡丹唐草、亀甲紋などが、精緻を極めて織られている。
 しかし残念ながら、これらの伝来品は、ほぼ皆中国外来の品であろうと思われる。

★上記、訂正、又補足説明させて頂きました。
 謹んで、お詫び申し上げます。