○前回の続きとして、実物資料の解説をしてゆきます。
*実物資料*
1 緑地狩猟文錦(みどりじしゅりょうもんのにしき)
前回述の隋末唐初の法隆寺・四天王錦に比して、図にたっぷりとした
やわらかさが加味されて、日本製の感が強い。
2 紫地鳳唐草丸文錦(むらさきじほうからくさまるもんのにしき)
鳳凰と葡萄唐草----東西の融合も唐朝文化の一特色である。
これも国産品と思われる。
3 縹地大唐花文錦(はなだじだいからはなもんのにしき)
上代錦の通常の巾(約56cm)の二倍の広幅もの。
4 赤地鴛鴦唐草文錦(あかじおしどりからくさもんのにしき)
聖武天皇一周忌の法要を東大寺で催した際に用いられた幡(はた)の
飾りの一部が残っているもの。
相対する二羽の鴛鴦が、愛らしく美しい。
5 獅噛文長斑錦(しかみもんちょうはんにしき)
奈良朝の錦は緯錦が多いのだが、これは経錦である。
後に述べるが、この経錦の技術の限界性が、新たなる技術の更新へと
向かわせる一つのきっかけとなる。
6 七曜四菱文繧繝錦(しちようよつびしもんうんげんにしき)
七曜---日・月・火・水・木・金・土の七星を表した模様。
奈良時代に流行した「繧繝模様(一種のグラデーション模様)」で織られた錦。
7 綴錦の数々
いずれも小品ではあるが、現代にも通ずるユニークさをもった瀟洒な逸品
である。
茶とグリーンと赤とが、目にも鮮やかなくっきりとした配色で彩られている。
素晴らしい表現力である。
8 茶地鹿花卉文夾纈羅(ちゃじしかかきもんきょうけちのら)
生地を二つ折りにした痕があり、その上下に対称紋様が表現されている。
それが、夾纈の特徴である。
花の輪の中に、鹿が脚を折って座している図である。
9 赤地目交纐纈あしぎぬ(あかじもっこうこうけちのあしぎぬ)
目交---目結いと言い、鹿の子絞りに糸で布を括り縛りして、染めたあしぎぬ。
あしぎぬ---太目の糸で織った粗めの絹地。悪しきぬ--の意。
簡単な絞り紋様の連続であるが、現代的なデザインに好感が持てる。
10 花樹孔雀文刺繍(かじゅくじゃくもんししゅう)
デザインは今日でも正倉院風・職紋又は有職(ゆうしょく・ゆうそく)文様
として友禅染を初め、数多の染め織り紋様の中に生きている。
ペルシア風の唐草(忍冬・にんとう--すいかずらの漢名---パルメット唐草風)の
中に、矢張りペルシア風孔雀が描かれてある。
両面刺繍の技術は至高の技である。
11 赤紫地水波魚鳥文昴窒しぎぬ(あかむらさきじすいはぎょちょうもんろうけち
のあしぎぬ)
水波と海藻は表から、鳥と魚は裏から蝋で防染されている。
濃淡をうまく利用した蝋染めの技法である。
スタンプ式ではあるが、まるで筆で線描したような軽やかさがある。
12 縹地大唐花文氈(はなだじだいからはなもんのせん)
氈---毛氈・フェルト
多彩と繧繝ぼかしで構成された技術的にも完成度の非常に高い逸品である。
花毛氈の細工の精緻さには、唸らされるものがsる。
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★メルマガ設定の制約上、実物写真を掲載出来ずビジュアルで鑑賞頂けない
のが大変残念です。
もしご興味がおありでしたら、是非一度図録等でご覧になって下さい。
お願い致します。
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【結論】
1 奈良時代・正倉院収蔵の染織品の全体を通じての特徴は、まだ強い
大陸風が残っている。
2 しかし、模様染の染色において、我が国独自のオリジナル品を、初めて
作り始めたことは特筆に値する。
しかし紋様自体は、あくまで唐風である。
3 昴秩E夾纈・纐纈の三種で染められた品は、ほぼ国産品と見て良いこと。
4 まだ中国風を真似てはいるが、細部の点で純中国風とは異なっていて、
多少雑であったり、又雑というよりは和風にやはらかい表現になっていたり
して、見た目にも日本を感じさせるものがあること。
5 上記の国産品と言える理由・根拠として、品物の中に正式の年号の記述が
明らかなものがsる。
例えば、昴兆風の一つに、墨で「天平勝宝三年」の年号が入っているものが
あって、これは地方から上納された調庸(税)の「あしぎぬ」であり、明らかに
国産品に間違いない。
そこから推し量って、同等の品やそれらに類する又準ずる他の品の諸条件、
諸事情などを類推して、多くのもの・・多少過言を許して頂けるならば、
大多数のものは国産品と見て差し支えないのではないか、との結論を見る
ことが出来る。
6 島国日本という我が国の地理的条件が、文化交流の上において一つの特徴を
位置づけているように思われる。
朝鮮半島、又直接大陸中国との交流・交易により、文化の流入が成されて来た訳で
あるが、それらは、互いの国情が良好であれば物流・交通があり、ひと度悪くなる
と、間にある「海」が絶好の障害となって遮り、文化の流入は停止する。
その結果、自国内での文化の咀嚼・消化・吸収が促進されて、爛熟し国風化が
進んでゆく。
7 上記の重要な好例として、経錦から緯錦への移行が上げられる。
ペルシャ・インドの思想----仏教の蓮華紋と連珠。
中国----唐時代大流行の牡丹愛好と唐草紋様。
上の二つが出会い融合し、牡丹と蓮華の絢爛豪華なる「宝相華意匠」の完成を
見るのであるが、経錦では紋様技術の制限制約があって、精緻な細工が困難
となるに至った。
つまり表現したいものが出来なくなったのである。
西域からもたらされた緯糸で紋様を表現する「緯錦」の技法こそがその用に
足り得るものであり、言い方を変えれば、新しいデザイン表現のためには、
技術を更新せざるを得なかったのである。
それがために、「経錦」という美しい織りの技法は、消え去ることとなる。
緯錦は大紋様の表現、自在な配色の変化に充分耐え得る技法として隆盛し、
我が国に入って来た。
そしてその後の我が国染織史に多大な影響を与えてゆくことになるのである。
8 文明技術・歴史文化というものは、決して一つことで語り尽くすことは出来ず、
様々な数多くの込みいった偶然・事情が複雑に絡み合いその結果、集大成されて
きたものであるという事実に、改めて気づかされる所以である。
9 ただ一つ述べれば、正倉院の御物が初めて一般人の目に触れたのは、昭和15年の
「紀元2600年式典記念行事」として、東京国立博物館に展示公開された時と、
されており、即ち遥か永きにわたってその意匠は、ごく限られた小数の人々の目
のみに触れるを許されてきた訳であるから、デザイン的には後世に対して、さほどの
影響力を持ち得なかった訳である。
しかし、人の世・歴史は歩みを留めないのであって、技法・技術的には多大な貢献を
与えてきたのであろう。
しかも保存状態という点では、これ以上望み得ない「正倉院」という場所で保管・
隔離され続けてきた訳で、今後も我が国の至宝というにとどまらず、東西文明の
宝庫----エジプト・東ローマ・ペルシア・アラビア・インドから中国を経て、
奈良・東大寺へと至るシルクロードの終着点として、又日本における染織作品の
オリジナルの出発点、我が国「染め」の源流としての貴重なる世界遺産として、
更に未来へ光を放って欲しいと望んでやまぬところである。
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【正倉院の染色】
○奈良時代の染色に関して、染料の実態を記述した貴重な文献として、
「延喜式(えんぎしき)」という書巻があります。
そこには、染料の材料として-----
ウコン・きはだ・茶・椿・五倍子・茜・桃皮・紅花・阿仙薬
紫根・漆・蘇芳などなど・・・
又、媒染剤(補助材料)として-----
酢・灰など・・・
が、詳細に記述されています。
それらは今日までに、様々解析・研究されて上代における「草木染」の
実情・実態が解明されつつあります。
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○昨日配信させて頂きました、「Vol.7〜2」の実物資料の記述に、
補足させて頂きます。
項目 10 花樹孔雀文刺繍
「デザインは今日でも正倉院風・職紋又は有職紋様として・・・ 」
と記述いたしましたが、厳密に言いますと所謂「有職紋様」とは、
平安以降の、例えば現在能装束などに見られる、定型・幾何学模様の類、
雲取り・雲鶴・菱・立湧・亀甲・七宝-----
などの紋様のことを指します。
日常、私どもが仕事の上で、細かい孔雀紋などの柄を、宝尽くしなどに
使用する折、十把一絡げに「職紋ふうで・・・」と言ってしまう習慣から、
ついそのように記述してしまいました。
注意不足でございました。
重ねてお詫びとともに訂正・補足させて頂きます。
失礼致しました。
申し訳ありません。
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○飛鳥時代から奈良時代へと、我が国染織の旅は進んで参りました。
次回は、平安時代へと移行してゆきます。
始めの百年ほどは、まだ奈良時代の美意識の踏襲といった趣ですが、
それでも段々に和風・和様の開花が見て取れる時代です。
≪参考図≫
緑地狩猟文錦
四騎獅子狩文錦
花鳥文夾纈褥(じょく)
赤紫地水波魚鳥文昴窒しぎぬ