染人への旅  Vol.9   平安時代の染織  目次  top


 奈良時代までの我が国の染織事情が、ほとんど、「正倉院」に残されている
 実物資料からの研究・推測に成り立っている事を、前回までに、解説して
 参りましたが、時代を追って、今回は、その後の「平安時代」の染織の模様
 に迫りたいと、思います。

<資料年表>

AD 752  東大寺大仏開眼

  759  万葉集集大成  唐招提寺創建

  782  室生寺建立

  794  平安京に遷都(桓武天皇) 平安時代始まる

  801  坂上田村麻呂の蝦夷地平定

  805  最澄帰朝 天台宗創立

  806  空海帰朝 真言宗創立

  858  藤原良房 摂政となる

  887  藤原基経 関白となる

  893  滝口武士を置く(宮中での武家の地位の確立)

  984  遣唐使廃止

  901  菅原道真 大宰府に左遷さる   *唐衰退・中国分裂時代に入る

  927  「延喜式」なる

  935  土佐日記(紀貫之)

  939  平将門・藤原純友の乱(地方豪族並びに武家の台頭)

  941〜1094 藤原全盛・摂政関白を独占す(荘園の増大と律令制の崩壊)

  940〜? 伊勢物語・竹取物語     *960頃 宋興る

  1000〜1014? 枕草子・和泉式部日記・源氏物語

  1077? 三十六歌撰(三十六人集)

  1084〜 院政始まる

  1091  源氏物語絵巻

  1124  中尊寺金堂建立

  1140  鳥獣戯画巻・信貴山縁起絵巻

  1156〜1159 保元・平治の乱

  1167  平清盛 太政大臣となる

  1181〜1185 源平合戦・平氏滅ぶ

  1190  東大寺再建

  1192  源頼朝 征夷大将軍となる


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○奈良時代までは、おおよそ、唐の文化を受容し、唐様の美の追求・・
 大陸への強い憧れという色合いが、濃厚であったのですが、それが
 国政の安定期に入り、貴族文化の最盛・絶頂期に至り、菅原道真の
 遣唐使派遣の中止と、遣唐使廃止による、唐との公式交流の断絶
 などから、平安の中期ごろより、我が国独自の「和様」と呼ばれる
 日本ならではの文化形式が、定着してゆく運びとなってゆきます。

 平安時代というものを、ごく簡単に言い表せば、飛鳥・奈良時代の
 おおらかさを受け継ぎながらも、最澄や空海による仏教の新しい流れ
 がもたらされ、仏教的・哲学的にも、ただ大陸の文化を受け入れ、
 追いかけるのみでなく、我が国独自の主体的価値観が確立してくると
 ともに、政治的にも爛熟し、律令制の再構築と崩壊、荘園の私有による
 豪族の台頭、藤原氏による摂関政治とそれに続く、上皇・法王らの
 院政の確立、それらの政治上の確執の合間を縫って登場して来る
 源氏・平家などの武家(豪族の棟梁)の台頭などなど・・・
 
 四百年という長きにわたって、安定と変化とが互いに交錯する、ゆるやか
 ではありますが、波乱に富んだ時代と言えるでしょう。

 服飾の視点で、奈良・平安時代を比較してみますと---


○飛鳥・奈良の服飾品の特徴は---
 
  おおらかさ
  スケールの大きさ
  技術の爛熟と豊富さ
  数の多さ
  圧倒的に大陸風

 その文様は---

  抽象的な花紋
  鳳凰・麒麟・龍・獅子などの超自然なもの
  スタイル化・パターン性

 などが、中心でした。

 又、その製作過程も、官製中心であって、宮中に召抱えられた職人達が、
 官の命令で製作にあたっていたと思われます。


○それが、平安期に入りますと、特徴的には---

 「有職紋様」に代表される、細かい割り付け形式の織り紋様
 (紗稜形--さやがた・卍崩し--、亀甲、七宝、立て涌--たてわく--
  、花菱などのパターン文様)
  具体的、身近な花鳥・風月を表したもの
  四季折々の・・桜、梅、藤、萩、すすき、水鳥、蝶、波模様など・・・
  いわゆる「日本的」と、今日称される紋様の完成を見る

 という風に変わって参ります。
 そして、その製作も一部は、官営の工房から、中世貴族達の私営工房へと
 移行していった、と思われます。

 阿波絹、越前絹、美濃八丈・・等々、各地の絹産地独特の名称が
 今日でも、残っている謂れです。

 ただ、ここでも大変残念、且つ謎の部分は、そうした染織品の実存資料が、
 ここでもほとんど、見当たらないという現実です。

 我々は、布というものの、その消耗の度合いの激しさに、常に泣かされます。
 歴史学と考古学に先ず欠かせないものが、残存している実物資料なのですから、
 それが無い、と言う事は、話の進めようがありません。


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○当時の有様を憶測するに、源氏物語や枕草子などの文学作品や、
 「延喜式」五十巻などの文献、絵巻物に描かれた人物模様、又
 一部伝承品として後世に残されてきた、ごく少数の実物作品などが
 ありますが、その実物作品も、平安時代から大分下がった、13〜14世紀
 のもの・・・
  たとえば、鶴岡八幡宮伝承の装束・「袿」(うちき--当時の女官の
  宮中以外での平常着で、一重・袴の上に数枚重ね着していた様子)
 ・・・などで、そこから、昔を推測するしかありません。
 
 奈良時代には、「正倉院」という、素晴らしい「保存庫」があったお陰で、
 その時代の様子を知るに、大変好都合だったのですが、それ以降になります
 と、布帛類の生産量はそれまでに比して、問題にならない程、大量生産
 されたはずですが、残そうとする意識の不必要からか、ほぼ皆無なのが
 今日の現状です。


○「延喜式(えんぎしき)」についてですが、それは、当時の宮中の神事・
 祭祀などの人事について記録された全五十巻にわたる大著で、染織文化
 考察の上でも欠かせぬ、一級資料のひとつです。

 その中の、重要な記述について、記します。

 1)女子の服装について

  表袷裙(うえのあわせのも)、下裙(したも)、比礼(ひれ)、といった
  奈良朝様のものも残っている。

  それに対して、単衣(ひとえ)、袿衣(うちき)など平安朝の重ね装束風
  のものも、ある。


 2)染料の記述

   染料  蘇芳(すおう)
       紫草
       紅花
       支子(くちなし)
       茜 
       かちつるばみ
       きはじ
       かりやす草
       藍 
       きはだ

            ・・・等々


   媒染剤  灰と酢
        薪と藁


 3)色の名称

   きはじ きあか こき紫 深けし紫 中のけし紫 うすけし紫
   こき緋(こきあけ) うす緋 こき蘇芳 中蘇芳 うす蘇芳 
   葡萄(えび) 韓紅花(からくれない) 退紅(あらぞめ)
   こきくちなし きのくちなし うすきくちなし つるばみ 赤白つるばみ
   こき緑 中緑 うす緑 青緑 こきはなだ 中はなだ つぎはなだ
   うすはなだ こき藍 中藍 うす藍 白藍 こき黄 うす黄・・・

   など。

   各色が、数段階にわたって、正確に記述されていて、それに対する
   材料の記述も書き分けられていて、色を正確に染め分けることの
   必要性・重要性が読み取れる。


○当時、高価な布帛類を身にまとっていた者は、平安貴族達でしたが、
 それを実際に製作していたのは、誰だったでしょうか。

 それは、下位の職人たちであり、又、調庸(税)の貢物として作らせられた、
 地方の庶民階層の人達であったでしょう。
 つまり、それが誰だったにせよ、一般庶民が「染」を行い始めたという事に
 ほかなりません。

 それらの技術は、強く民間の間に根を下ろし、工夫・試行錯誤を重ねながら、
 浸透し、拡大されていったことでしょう。

 それが、今日、我が国の染織文化の礎となっていることは、疑いの余地が
 ありません。

 即ち、どういう形であったか、という事は推測の域を出ませんが、布を
 染めて彩色を施し、更に四季美しい日本の美数々を紋様として、衣服に
 取り入れるという染の文化の形が、長い年月を経て、市井に生活する一般 
 の庶民の間に、少しずつ芽を拓いてゆく第一歩が、この時代であったと
 言えましょう。



○十二単衣(じゅうにひとえ)

  ここで、十二単衣について、触れます。
  十世紀中頃になると、貴族の女性たちの服装は、襲装束(かさねしょうぞく)
  の色合いが濃くなって参ります。

  広袖の袿を何枚も重ねて着るという、着方に移行します。
  それは、大量の布地を必要を意味するとともに、文様がかえって、色彩美学の
  邪魔をするという、結果も呼びます。

  何枚も重ね着した着物に、ごちゃごちゃした紋様は美しくなく、逆に、単色を
  重ねて、全体の色調にバランスを持たせたほうが、簡素ですっきりしてきます。
  第一、下着の模様は、隠れて見えないわけです。

  そこで、源氏物語に顕著な、この時代特有の「襲の色目(かさねのいろめ)」
  の発展が出現することとなります。

  襲の色目の実際に関しましては、諸説あり、ここでは詳しくは述べませんが、
  例えば---

    青紅葉  表・緑  裏・うす茶
    梅    表・紅  裏・うす紅
    桜    表・白  裏・赤

     (表・裏は、衣の表裏の場合と、衣と衣の場合あり)

  等々、それぞれの季節の移り変わりにより、またその時々の場面により、
  繊細に変化させています。
  日本人の鋭敏な感受性が、四季の移ろいに見事に反映した、美学の極地と
  言って過言では無いでしょう。


○こうして、奈良時代的な、豪華絢爛な、模様染の世界から、平安時代の
 どちらかと言えば、「単色染」へと、移行していったわけですが、では、
 模様染自体は、無くなってしまったのでしょうか?

 どうも、染模様に関しては、ほぼ姿を消してしまった感も無きにしもあらず・・
 というのが、率直な実感です。

 「模様の簡素化・色の単色化」に加え、十二単衣のように、大量に布を
 必要とするとなると、どうしても需要過多で供給が追いつかずに(?)、
 紋様までは、手が回らなかった・・とも言えますか。
 定かではありませんが。

 織においては、先ほどの「有職紋様」の発達で、繊細でこった模様のパターン的
 な織が主流になりました。
 染は、その織物一辺倒の時代の流れに、呑み込まれてしまったかのようです。

 但し、先の「延喜式」の記述に、「正倉院の三纈」が、それぞれ行われていた
 ことも記されてあって、模様染の実態が無かった、とするのは早急です。
 しかし、資料的には、その後、絞り染以外のものは、見つかっておらず、あまり
 はなばなしくはなかったことは、確かなようです。



○防染糊の使用

 平安末期の鎧の革染めに、型紙を使用した例があり、革を染めた以上は、
 布も多分染めたのだろうと思えるのですが、現物は残っておりません。

 只、面白い実例として、「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」
 などという、鎌倉時代の絵巻物を見ますと、藍染めで、家紋を白抜きに
 染め出したらしき直垂(ひたたれ)を着た、武将の姿があり、藍を染めた
 ということは、藍甕に浸し染めをしたということになります。
 (藍は、浸し染めでなければ、染めにくい)
 それが、白抜きになっている・・という事は、防染糊の使用があったのでは
 ないか、との期待を与えてくれます。

 先ほどの、革の型染めの事実と合わせると、型を使った糊染が、平安末期には
 行われていたのではないか、と思われます。

 その事は、手描友禅に使用する「防染糊」の、走りが、この頃既に萌芽して
 いたことを意味します。
 これは、大変大きな事実です。
 但し、防染法は、前述の通り、いろいろある訳で、いちがいに判断しかねる
 のではありますが。


○平安から、鎌倉時代に移行してゆく過程になると、元来は下着であった
 「小袖」が、上着的存在に変化してゆきます。

 そうなりますと、その小袖に、描き絵か、染め絵かは判然とはしませんが、
 絵紋様が現れて参ります。
 石山寺縁起(鎌倉中期)などに描かれた、人物の着物の紋様に、大胆な、
 又大柄な紋様が顕著になって参ります。

 貴族中心の文化から、武家と、庶民の文化が、いよいよ台頭して来る時代の
 幕開けです。

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 ○8月27日に配信致しました、Vol.8の記述に一部誤りがありましたので、
 訂正させて頂きます。


 資料年表


   984 遣唐使廃止



  とありますのは、


   894 遣唐使廃止


  の間違いでした。

○菅原道真が遣唐使に選任されたのですが、唐の衰退により航海の危険の増大や、
 公式交流の不必要(私的な交易で充分まかなえる実情)から、道真自らが辞退、
 その後、廃止となりました。

 お詫びして、訂正致します。
 申し訳ありませんでした。

 今後も、よろしくお願い申し上げます。


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○以上、やや足早ではありましたが、約400年の栄華を誇った、平安時代の
 染織模様について述べさせて頂きました。

 次回は、手描友禅染に最も影響甚大といわれる、「辻が花」の時代に至る、
 「鎌倉〜室町」の染織について、考察して参りたいと思います。


 次回も是非又、宜しくお願い致します。
 有難う御座いました。 
    
 

【参考文献】

染と織の文化史  切畑健編集   日本放送出版協会

日本の美術・染  山辺知行編   至文堂

日本の染織・全十巻        中央公論社

別冊・太陽
 源氏物語の色 清水好子・吉岡常雄監修  平凡社