染人への旅  Vol.10   鎌倉・室町の染織   目次  top


前回まで、奈良より平安期の染織事情を見て参りましたが、
今回は「鎌倉・室町期」として中世染織の状況に迫りたいと
思います。

平安・鎌倉〜 とするか、又は 鎌倉・室町〜 と括るか迷う処ですが、
武家の台頭という視点から、後者を取らせて頂きました。

〔年表〕

      日本          中国          ヨーロッパ

1192 源頼朝          南宋           ゴチック様式
   征夷大将軍となる    朱子の教え

1203 北条時政執権となる   テムジン蒙古統一     第9回 十字軍

1215〜            チンギス汗の西征     マグナ・カルタ制定

1232 御成敗式目制定

1268 北条時宗執権となる   フビライ・元を建てる   アルハンブラ宮殿建設

1274 文永の役        元軍・日本に遠征
   第一回 元寇

1281 弘安の役        元・日本再遠征    イングランドのウェールズ併合
   第二回 元寇

1331 楠木正成挙兵      元・南北に分裂

1333 足利尊氏・新田義貞
   挙兵
   鎌倉幕府滅ぶ

1334 建武の中興

1338 足利尊氏征夷大将軍となる    明興る
   室町幕府開く(南北朝)

1368 足利義満 三代将軍となる           オスマン・トルコ西欧進出

1394 義満太政大臣となる     明・義満に国書を送る

1467 応仁の乱起こる
   戦国時代の幕開け

1477 応仁の乱収束                  イタリア・ルネッサンス全盛
   京都荒廃す 各地で一揆巻き送る         

1486 太田道灌死す

1495 北条早雲小田原に入る              コロンブス北米に着く

1510 長尾為景、上杉顕定を破る

1516 早雲、三浦氏を滅ぼす            ルター95か条
                         トマス・モーア「ユートピア」
1524 今川氏親 江戸城に入る

1536 伊達家御成敗式目定む

1547 武田晴信 民生55条を定む

1555 信濃川中島の戦い

1560 尾張桶狭間の戦い 今川義元死す       フランス・イスパニア戦争

1561 長尾輝虎(景虎)上杉氏を継ぐ

1568 織田信長 足利義明を奉じて入京す

1570 近江姉川の戦い 浅井長政破るる

1573 足利幕府滅ぶ

1575 三河長篠の戦い 武田勝頼破るる

1576 信長 安土城に入る            キャプテン・ドレーク世界周航

1582 武田勝頼死 本能寺の変 信長死
   山崎合戦

1583 賎が獄の戦い 柴田勝家死
   羽柴秀吉 大阪城築城

1585 豊臣秀吉 関白となる


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1)鎌倉期

○鎌倉時代の衣裳の特徴は、室町時代のそれに比して「古様」と
 言われております。
 平安をそのまま受け継いでいる、と考えるのが通常です。
 言わば、平安とその後の室町以降花開く、桃山文化・江戸文化を
 繋ぐ架け橋、「つなぎ」とも受け取られがちです。

 長き貴族中心の社会から、平氏・武力を持った武家の台頭と隆盛。
 その武士の驕りから打倒平氏の趨勢に乗じて登場した、源氏という名の
 新しい武士中心の社会への目まぐるしい変化。
 戦さからの復興への長い苦しい道のりの中、勢い文化の停滞も余儀なく
 されたと言えます。

 然し、新しい時代は常に、新進の活気を含んでおります。
 それらは、現存資料としてより、文献の中により如実に垣間見られます。
 
○鎌倉時代の実物資料としては、鶴が丘八幡宮の五領の神服があります。
 これは、平安時代の面影を伝えるものとして、貴重です。

「小葵地鳳凰紋様袿・こあおいじほうおうもんよううちき」
(織紋様・鶴岡八幡宮---鎌倉時代)
 技術的にも高度であり、平安時代の古い特徴を持っている。
 和歌山の熊野速玉大社の神服(伝足利義満奉納--室町時代)
 などに比して、質的にも高い水準を維持している。

○新しい波・・としては、織部の司(おりべのつかさ)が廃絶したことが
 大きな事件として特記されます。(平安中期)

 律令政治のいタガが、時代の波の中で大いにゆるまり、かつて織部の司
(官職)の工人であった者たちが、官職を離れ自ら市井の職人となり、
 そこで織を始めたものと思われます。 

「壬生家文書(みぶけもんじょ)」永承3年(1048)、8月7日の制に、
 錦織の私織の禁令が、すでに見られております。

 代わりに、「大舎人の綾・おおとねりのあや」や「大宮の絹・おおみやのきぬ」
 などが登場します。(鎌倉時代)


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○官から私(民)への工房の移行。新しい時代の香り、新進の雰囲気は、
 文献の中に強く感じられます。

★健御前日記(けんごぜんにっき)
 藤原俊成の女(むすめ)・藤原定家の姉

 女が鳥羽天皇の皇女八条院に出仕した折の感想で、以前仕えた健春門院
(後白河院女御)の御殿と比し、八条院の女房たちが全く着衣の制をおろそかにし 
 好き放題に振舞っていることへの嘆きが書かれてあります。

 それは、ひとえにその御殿の事情というよりも、時代の流れ・変化の兆し
 と、とらえることが出来る好一例です。

★増鏡(ますかがみ)「十二・老波」
 弘安8年---1258
 西園寺実氏婦人の長寿慶賀の折の記述。

 ○めずらしき袖口を、思い思いにおし出でたり・・・
 ○紫のにほい、山吹のあを、薄紅梅、桜萌黄・・・
 ○かさねしろかうし(白格子)
 ○えびぞめにしろすじ(白筋)
 ○さくらあおすじ(青筋)
 ○うえ紫格子

 ----それらが、「めもあやなる清らを尽くし・・」とあります。

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○このように、新しい時代には新しい時代なりの、変化の兆しが
 随所に現れております。
 上記の新たな「名称」が、新時代の染織品として、登場してくる訳です。

○他に、鎌倉時代の資料としては、
「なよ竹物語絵巻」(香川県・金刀比羅宮蔵)
 に見られるように、「段」「格子」といった紋様が、よく好まれた
 ことが知られております。

○また、1334年、建武元年の東寺の塔供養に用いられた「法会用具」
 の水引の錦「蓮華紋様錦」のように、作期が記述され明らかなものの中に、
 室町期の「風通様倭錦」と同類のものが、次代に先駆けてすでに鎌倉期に
 あるというのも、鎌倉期が単なる「平安の写し」、又は「過渡期」に過ぎない
 時代とは、一言で片付けられない要素を含んでいる事実を、教えてくれます。

○もうひとつ、忘れてならないのが、大陸中国からの、舶来品の存在です。
 金襴・銀襴・緞子など、優れた絹が、渡来や帰朝する禅僧などにより、
 もたらされました。

 それらの中で、特に優れたものが後世に残り、茶道と結びついていわゆる
「名物裂」と呼ばれるようになることは、周知の事実です。


2)室町期

○応仁の乱(1467〜1477)により、京の都は廃墟と化します。
 然し、京の戦乱を避け、多くの織工たちは、対明貿易に利のある
 山口や堺に逃げ、かの地で機織を再開することとなります。

 やがて、戦さが収まり、帰洛した工人たちは、また旺盛に活動を
 始めます。
 明の新しい織物にも、更に刺激を受けた事でしょう。

◆細川勝元の東陣跡には・・・練絹方(ねりきぬかた)の絹布

◆山名宗全の西陣跡には・・・大舎人座(おおとねりざ)の綾

 が、復活します。
 大舎人座はやがて幕府御用達として認可され、以後500年間、
 西陣織としてわが国を代表する一大産地へと発展してゆくことと
 なります。

 しかし、戦禍により、中国古来の「羅」は、技法が途絶え、
 近代に復活するまで、日の目をみることはありませんでした。

○前述の「熊野速玉大社の神服」に見るように、室町期もまた、
 鎌倉期に似て、伝統尊重が文化の主体であると見ることが
 できます。
 然し、近世の有職紋様の類型化の兆しが露わとなり、明らかに
 技法も感覚も低下していると思われます。
 次代に花開く、桃山・江戸の文化的黄金期の「準備期間」と、
 言って言い過ぎでなかろうと、やはり述べておきます。

○然し、ここでも忘れてならないものが、再三繰り返すごとく、
 大陸・中国との関係です。

 日本を度々脅かした、元が南北に分裂し、やがて破れ、
 とうとう「大明国」が興ります。
 安定的に繁栄し始めた明との、今度は旺盛活発な貿易により、
 盛んに渡来品が入りだし、それをどんどん取り入れ始めたのです。

 奈良時代を「第一次請来時代」と言うならば、室町期は「第二次
 請来時代」と呼ぶことが出来ます。
 
 やはりいつの時代でも、大陸中国の影響なしには、我が国文化は
 語れないというのが、歴史の事実と教訓なのでしょう。

 しかし渡来品が入っては来ましたが、そこから新しい独自のものを
 創作するには至りませんでした。
 収集された"蕾"が"花"と開き、更に"実"をつけるのには、もう少し
 時を必要としたのです。

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○ここで、当時の染と描き絵について、少し述べます。

「しぼり染」
 平安期の記述に少し重複しますが、奈良期の三纈(さんけち)の内、
 板締め染とロウケツ染は、その後行われなくなる(現存資料がないため)
 のですが、しぼり染のみは、庶民の間に広く浸透してゆきます。
 これは、しぼりが技術的にも容易で、染め方の巾も広く自由が利いた
 ことと、ほかの二つに比べ、古くから絹以外の木綿などにも染められて 
 いたからと、思われます。
 木綿しぼりは、尾張地方をはじめ、全国各地に残っております。

「摺り絵」
 蛮絵と呼ばれるもので、低身分の役人や、舞楽の歌方の袍(ほう・・
 束帯などのときに着る丸襟の上着)に、墨で型摺りした、丸型の
 動物紋。

「描き絵」
 墨で直描きされたもの。
 先の速玉大社の神服中の、「海賦の裳(かいふのも)」と呼ばれる
 袴には、浜辺に松の絵が、墨描きされています。

○上記のしぼり染と描き絵とから連想されるものに、室町後期の
「辻が花」があります。
 が、それは又後ほど、詳しく述べます。

○上記、摺り絵、型紙、藍染・・・というキーワードから、ひとつの
 発想が生じます。
 それは「糊防染」です。

 平安期の項にも記しましたが、鎌倉初期の鎧の革染めに、
 「踏ん込み型」と呼ばれるものがあります。
 型を革に置いて、足で踏んで型紙を革に食い込ませ、
 平らにして刷毛で色を刷り込むというもの。

 革を染めたのならば、布にも・・ と連想される訳です。
 もし布に染めたのであれば、藍染めと思われます。
 藍に黒を入れた「かち色」は、勝ちに通じ、武家の色として
 広く愛用されたからです。
 鎌倉時代の絵巻物などに、紺地に白抜きで、家紋を染め抜いた
 直垂(ひたたれ)姿の武士が、描かれておりますが、藍は基本的に
「つけ染め」ですから、その意味するところは、「防染糊」を使用した
「型染め」という事になります。

 防染糊は、その後の「茶屋染」「友禅染」につながってゆく
 重要な技法でありますから、これらの想像が確かめられれば、
 史学上の大きなポイントとなりましょう。
 ここでも実物資料が無いため、推測の域をでることは
 出来ませんが。

≪参考図≫

hkm1.JPG 萌黄地小葵浮線綾二倍織物衵
                   (もえぎじこあおいふせんりょうふたえおりものあこめ)

                   和歌山・熊野 速玉大社(平安時代の特徴を色濃く残している)

hkm2.JPG 海賦裳(かいふのも)

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○新しい武家社会の到来の中で、歴史が大いに揺れ動いた 
 鎌倉・室町時代。
 それは、下克上、実力主義という「戦乱」の歴史の幕開け
 であったとともに、重ね着を脱ぎ捨てて、小袖一枚となり、
 軽やかに、自由に解放された、人間像を連想させます。

 群雄が入れ替わるごとに、文化も翻弄されますが、次第に
 まとまり定まりゆくおおらかな桃山時代と、それに続く永きに
 安定した江戸時代を迎え、一気に開花してゆきます。

 室町の最後を飾るに相応しい、我が国服飾文化に特筆すべき
 染法があります。
 「辻が花」です。
 しかし、辻が花はそれひとつで、一項目をもうけねばならない
 重要な染ですので、それは次回に譲らせて頂きます。

 鎌倉・室町期と一気に下ってきましたので、少々長くなりました。
 大変申し訳ありません。
 最後まで、誠に有難うございました。
 では、次回また、宜しくお願い致します。


〔参考資料〕

切畑 健監修 「染と織の文化史」  日本放送出版協会

山辺知行編  「日本の美術・染」  至文堂

山辺知行・神谷栄子編  「日本の染織3・武家の染織」 中央公論社