染人への旅  Vol.11  辻が花・1    目次   top


 前回、「鎌倉・室町の染織」として、大雑把ではありますが、武家の新時代を彩る
 染織事情を纏めてみました。
 
 その中でも、室町中期より桃山にかけて、実に特記すべき真新しい染織技法が
 花開いたのです。 「辻が花(つじがはな)」という、その名も今日の我々の心を遥かなる
 時代への憧れへといざなうような、浪漫的な名称の技法が、それです。
 この染法が生まれたことによって、その後の日本の染織は更なる新しい一歩を、
 歩み始めたと言って過言ではない程、我が国の服飾事情に多大なる影響を与えました。
 まさに、桃山から江戸期にかけて繚乱のごとく咲き誇り、今日に至るまでの長きに渡り日本の着物文化の
 "華"であり続けている、手描友禅染の「生みの親」とも言えるのです。
 
 その「辻が花」を、今回と次回の二回(二回に収まると思いますが、場合によっては数回)に分けて、
 考察してゆきたいと思います。
 今回は、「辻が花」発生の由来と、その具体的な染法についての概要を纏めてみたいと思います。

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〔年表〕

1334 建武の中興           鎌倉幕府滅ぶ
1338 足利尊氏 征夷大将軍となる
1368 足利義満 三代将軍となる  大明国興る
1392 南北朝の合一          元滅亡す
1397 義光 金閣寺建立
1402 世阿弥による花伝書なる  おとぎ草紙あらわる
1467 応仁の乱おこる  雪舟入明  戦国時代始まる
1477 応仁の乱終息  西陣織の萌芽(伝統の綾織の復活)
1481 一休宗純死(88歳)  
1488 加賀一向一揆
1491 北条早雲 伊豆を占領  コロンブス第一回探検
1543 種子島に鉄砲伝来(オランダ船の漂着)
1560 織田信長 今川義元を桶狭間に破る 木綿の衣服一般に普及し始める
1573 足利幕府滅ぶ
1582 武田氏滅ぶ 本能寺の変  グレゴリウス暦(太陽暦)なる
1585 羽柴秀吉 太閤となる
1588 刀狩礼発令  
1590 小田原征伐 秀吉の全国統一なる
1600 関が原の戦い   イギリス東インド会社設立
1603 徳川家康 征夷大将軍となる  江戸幕府開幕
1614 大阪冬の陣
1615 大阪夏の陣  豊臣氏滅ぶ

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<辻が花・つじがはな>
 室町中期〜江戸初頭にかけて盛行した絵模様染。
 技法には、主として縫い締め絞りを用い、描き絵、摺り箔の加わることが多い。
 時には刺繍も施される。  (広辞苑より)

<歴史背景>
 後醍醐天皇の公家政権再興への強い意志のもと、農業生産力の向上と貨幣経済の進展による有力名主や
 新興豪族の台頭といった、新しい社会変化に無策無能の鎌倉幕府に不満を持つ全国の武士勢力は、
 天皇のもとへと終結する。
 足利尊氏ら、武家の強力な援護のもとに、ついに鎌倉幕府は倒れ、建武の中興は成る。
 
 しかし、武家を冷遇した公家のやり方に更に不満を抱いた武士勢力は、それらの不満をうまく吸い寄せ纏めた
 尊氏のもとに再結集し、やがて公家を支えた新田義貞・楠正成らは尊氏に破れ、天下は天皇の南朝と、
 尊氏の北朝とに分裂する。 南北朝時代である。

 五十数年に亘る南北朝の対立も、室町三代将軍・義光の時に、和平が成る。
 尊氏から、第十五代将軍義昭までの、約180年間に渡る室町時代の幕開けで
 ある。
 しかし室町中期に起きた"応仁の大乱"により、政治は混迷し、社会は疲弊する。
 将軍の権威は地に堕ち、地方自治は勢いを増した地方豪族のなせるがままに任 
 されたのである。
 世は戦国に明け暮れる時代へと突入し、秀吉が関白として武家を統合するまで、
 100年の長きに亘り、戦乱が続くこととなるのである。

 翻り文化の側面でこの時代を考えてみると、決して殺伐・疲弊のみしていた訳ではない。
 金閣・銀閣の、北山・東山文化に代表される公武両統の文化の発展や、室町期の能の興隆、
 又禅宗や浄土真宗の庶民への普及、枯山水などの庭園美術や水墨画の発達、大和絵の土佐派や絢爛豪華なる
 新しい日本画・狩野派の確立、茶道・華道の成立など、文化史の中での大きな一エポックを占める時代でもあった。

 辻が花は、そういう歴史文化と時代の流れの中で生み落とされ花開いた、
 きわめて特異なる染色技法なのである。

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○絞りという染法は、正倉院の三染法としても盛んに見られるように、広く一般的であり、文様染の中でも最も
 素朴な技法の一つです。
 故に、平安期以降はどちらかと言えば、貴族階級よりも、下級武士や、一般の人々の生活の中により浸透普及
 していったようです。
 そういった中で、徐々に工夫がこらされて、より複雑な絞り独特の味わいを表現し得る高度なテクニックが
 開発されてゆくこととなります。
 〔例〕
 高野山天野社の一切経の舞楽装束の半臂(はんぴ--袖なしの胴衣)
 七宝繋ぎ文様・綾地花菱入り(享徳三年・1545年)
 縫い絞りの効果を遺憾なく発揮した名品である。

<辻が花染の技法>

絞りの普及の中で、辻が花という名の新しい形の絞り染めが現れてくる訳ですが、
一般的には、先ほどの広辞苑の解説にあるように、絞りで染め分け、また模様の染め出しをして、そこに墨の描き絵をほどこし、
摺り箔・刺繍などを加えたもの、ということになります。

具体的に述べてゆきますと、少し太目の糸による縫い絞りをほどこして様々なる文様(菊、藤、椿、菱、扇面、月、もみじ、
竹、波、千鳥・・)を染め現し、又松皮取りや斜め段などに地を染め分け、生地白上がりの草花模様の部分に
(一部に地の部分にも)、きわめて細い墨の線描きで、デリケートな花や葉、又若松の針葉などを、ごく丁寧に描き込み、
更に短い足のぼかしが、描き絵に加味されます。

それらの絵は、日本画的な象徴的表現でありながら、ある意味とても写実的・現実的な、見たままの感じを苦心して、
出そうとしているかのような、そこだけ見ると、一種シュールなグロテスクとも思える表現でありながら、全体の構成の中で、
よく絞りとマッチし、一枚の絵として見た場合、大変高雅で優雅、且つ「辻が花」という名の示す通り、浪漫的な、
たおやかな美に溢れる世界を、今日見る我々の眼と心とに与えてくれることに成功しています。
それは中世日本に咲いたシュールレアリスムの叙情絵画とでも言いたくなるような、深く、雅で且つ幽玄なる神秘性を
かもしだしております。

<辻が花の語源>

語源につきましては、はっきりとした由来は、まだ分っておりません。
「辻」というのは、道辻で、道の交差点のこと。
又、辻は「つむじ」の意味もある語で、髪の毛が、すじを巻いて中心から放射状に広がってゆく形です。
縫い絞りで糸目を絞ると、布はギュっと縮まり、糸を解いた後、絞られた布には、細かなスジ状の折じわが無数に出来ます。
それは、まさにつむじと見えなくもありません。
細い無数のしわ・・「道=辻」が交差する形状の中に、花を画き上げる描法。
それが、辻が花という名前の由来ではないか、と研究本の中で、切畑健氏が述べておりますが、恐らくはその様な
ことなのではないか、と思えます。

辻が花の資料は思いのほか豊富で、その名も著名であり、幻の辻が花・・などと、一時は持てはやされて、久保田一竹氏の
「一竹辻が花」が、一世を風靡したのも、そう記憶に古いことではありません。
そのロマンチックな名称と幽玄な風情から、空想をかき立てられるのですが、例えば、高野山・成慶院に伝わる
長谷川等伯筆とされる、武田晴信(信玄)像に見られる信玄着用と思われる辻が花の着物を初め、
上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康など、第一級の身分の人々に珍重されたものが、名だたる戦国大名ゆかりの寺社等に、
破損の少ない保存状態の良好なものとして、現存しています。

<基本的な辻が花染の工程>

○一例
 京都・瑞泉寺に伝わる裂れ(きれ)。
 寛文4年(1664)と元禄9年(1696)、同寺の住職に付与されたもの。
 小袖であったものが、裂れとして残っている。
 
 松皮取りに、紫と萌葱(もえぎ)に斜め段風に、染め分けられたもので、
 紫地は、菊と藤とを白上がりにし、萌葱地には、藤と椿を白上がりにした上に、
 椿には、墨の描き絵を加えている。

 生地は、径糸(たていと)に生糸(きいと)を、緯糸(ぬきいと--横糸)に連糸(ねりいと)を用い、
 平織り(ひらおり)に織った 練貫(ねりぬき)で、薄手のさわやかな風合いを持つ生地が、用いられている。
 桃山時代の辻が花は、ほとんどがこの練貫地を用いたものである。

 生糸---絹糸からとった糸をそのまま用い、まだ練っていない糸。

 連糸---絹の生糸を灰汁などで煮て、柔らかくした糸。
     現在では、生糸を石鹸やソーダの液で加工処理し、セシリン(たんぱく質の一種で、
     生糸に含まれていて熱湯中に溶け出す)を除去して、白いツヤのある光沢を出した絹糸。

 平織り---タテ糸とヨコ糸を一本づつ交互に交叉させて織る、織の基本形。

 練貫---タテ糸に生糸、ヨコ糸に連糸を用いて織られた絹織物のことで、
      生糸と練糸の絶妙なバランスの光沢が特色。

○工程の第一として、先ず初めにありきは、絞り染めです。
 花々は、白く花の形状に絞り抜かれます。
 枝やツルなどは、細目の線状に絞られます。いずれも、縫い絞りです。
 そのやり方は、絞りを縫い締めている針目は、かなり太目の針跡を残して
 おります。
 薄手の生地を縫うには適さない程の、太さです。
 従って用いられた絞り用の糸も又、太いということになります。
 その糸は、麻糸です。それは、縫い絞り用に用いた糸が、染めた後も抜き
 取らずに残したままになっていることから、分ります。
 生地の薄さに加えて、太い針目に太く強い糸で、細かく縫えばどうなるか。
 染液や水の中をくぐった布は、縮んで締まり、繊維が密になります。
 糸を抜くことが大変困難になるばかりか、無理に抜こうとすれば、薄手の
 生地が切れる恐れがあります。
 その証明に、実物資料の中には、糸を抜き損なって生地を傷めてしまい、
 たんねんに修復したものが、しばしば残されております。
 そういう訳で、糸を残したままにしてあるのだと思いますが、完成品に、
 染具の一部を残して納めてしまうことの大らかさには、現在の我々には
 感動を禁じえないものがあります。

○次に驚くべきことは、その針目の細かさ加減です。
 糸の縦・横二本ぐらいをすくって縫ってあるのです。
 薄い生地に、太い麻糸と太い針で、極端に細かに縫い絞られた絞り染。
 これが、辻が花の魅力の第一の秘密です。

 例えば、花の形にした円形のものなどを見ると、中心部から回りへ放射状に
 細かなシワがよっています。
 これは、中心へ向かって、生地を纏めて絞り上げたことによります。
 その技術は繊細且つ丁寧で、白上がりの模様部分は、まことに綺麗に白く
 染残されています。
 しかし、絞り染めというやり方での模様の出し方は、かなり困難且つ制約の
 ある方法であるのは事実で、自由自在に、好きなように形を表出することは
 中々出来かねます。
 
 本来、絞り染めというものは、正倉院時代から今日に至るまで、ものの形を
 具体的、綿密繊細に表す、という意匠のものではなく、糸や板などで布を締め、
 絞って染液に浸し、染まった部分と染残された部分とが、偶然に織り成す様々
 抽象的な面白さを味わう、というべき性質のものです。
 
 その絞りを用いて、花などの形状を表出するには自ずと限界が生じ、形は幾分
 稚拙な素朴さをかもし出すこととなります。
 辻が花染では、その素朴さを逆手に取り、そこに知恵を加え、工夫することに
 よって、それまでには無かった独自のデザイン性を生み出し得た、と言うことが
 出来ましょう。

 そして前述のように、それらの素朴な魅力をというものは、気の遠くなるような
 細かな作業の連続の上に成り立っているのであって、単に稚拙で無技巧の成せる技では
 決してないのです。
 このことが、辻が花をして、当時の数多くの武人たちの心を魅了し、今日私達の
 心をも遥かなロマンの羨望へといざなってくれる、最大の秘密なのでしょう。

○第二に、辻が花のもう一つの大いなる特色について述べます。
 絞りによって鮮明に染め残された花などの白上がりの部分に、重要な工程が
 ほどこされます。

 それは、墨による描き絵です。
 椿の花などをきわめて細かく骨描き(こつがき--面相筆などを用い輪郭などを
 細線で精密に描く事)した上に、花弁の重なりを表すために、短いぼかし足で
 隈取のようにぼかしを入れます。
 おしべ、めしべなどのシベを入れ、匂い(花粉)を点じます。
 葉には葉脈を引きます。それらが、白上がり部分としての生地白の明るさを、
 全体の中で決してそこなわないように、注意深く一見稚拙とも見てとれる程の
 丹念さで根気よく丁寧に、描き上げられています。

 江戸期の若冲や蕭白にも、どこか通じるようなグロテスクさを感じさせる程の
 馬鹿丁寧さも、しかし模様全体の絞り染による大らかさの中に置かれて、見事
 としか言いようのない、素晴らしい効果を上げていることを考え合わせますと、
 並々ならぬ卓抜した力量、達者と言うほかはありません。
 作者、と言うか工芸家、職人の感性の深さ、豊かさ、意匠の巧みさに思い至る
 ところです。
 即ち、辻が花を制作した工房の職人達は、それが誰かは全く分りませんが、
 絞りを多用して模様を出すことも、絞りによって染め分けることにより生ずる
 効果も、更に繊細な描き絵を加味して生まれる、大らかで大胆且つ情感溢れる
 新しい時代を映すに相応しい、全く新しい文様世界を表出し得ることを、すべて
 理解得心して、制作していたのでありましょう。
 優れた先人の知恵と見識、努力工夫の素晴らしさに、只々脱帽するのみです。
 これこそ真の工芸の精髄と言うべきものであり、現代の我々に通じて余りある近代工芸の
 精神性が、辻が花染の中に既に萌芽し、息づき始めていたことを、実感するのです。

 この細い墨の線描は、次第にその絵画性を強めてゆき、桃山時代から江戸時代へと受け継がれ、
 やがては江戸期の友禅染へと、その 大いなる大成への道を歩み始めることとなるのです。
 つまり、模様染と言えばロウや絞りや板締めのように、あるパターンの繰り返しや
 かなり手のこんだものでも、型の大きさや形上の制約を受けたり、又抽象性の枠内で興ろさを 競ったり、
 というものであったものが、描き絵がそのまま染め絵の模様として表現し得る技法の広がりの世界へと、
 発展してゆく初めの第一歩が、この辻が花染だ、と言うことが出来るのではないでしょうか。

○辻が花の、もう一つの工程として、金銀の摺り箔(すりはく)があります。
 漆、糊などの接着剤を模様の形にほどこし、金銀の箔を置いて乾かします。
 現在では、箔押しと呼ばれているものですが、時代とともに箔が摺れ落ちて
 剥落の美と化しております。
 そのため、逆にその効果をわざと出すために、押した箔を乾かした上、敢えて
 箔の表面を刷毛などで磨って、下の模様が浮き出して見えるほどに、剥落させ
 る技法のことを摺り箔と、今日では呼んでおります。(それぞれの染の生産地方
 独特の呼称もあり、一概ではありません。)

○さて、前述の通り、絞り染めの妙というものは、絞って締められた布の染め残された形と、
 布に生じたシワの立体的効果の面白さにある訳ですが、辻が花における 模様の表出の場合は、
 それらの効果が生かされているかと 言うと、実はそうでない"フシ"があります。
 と言いますか、逆にその効果を無視していると思われるのです。

 折角のぼかしの効果などを、面白く見せようとはせずに、白抜きを単に、はっきりと染め抜
 き出し、そこに描線をほどこすのみで、特に初期、室町期の辻が花においては、絞りの技法は、
 
 @文様を染め出すためのみの手段として用いられていること。
 A絞り特有の濃淡のある染み込み具合や、立体感のある布の折ジワなどの、
  絞り本来の造形を目的としていないこと。
 
 の、二点に集約されます。

 あくまでも、初期辻が花における絞り染の技は、模様表現の手段であり、出来る限り絵画的に、
 自由に染め描きすることを目指した 結果、考案されたものであったのです。
 これが、実は辻が花の最大の特徴であり、辻が花の本質と言って差し支えない、大切な要点です。
 後年になり、時代が桃山期から江戸期に入ってゆくにつれ、辻が花も様々な技法の中で更に
 発展し、進歩し、完成度を高めゆく中で、絞り独特の濃淡、ぼかしの面白さが加味され、
 又前面に出てくることになるのですが、それは又、桃山期の染として、次回の段に譲ることと致します。
 辻が花を一言で語り尽くすことは困難というより無理に近いものがあり、又第二回乃至は数回に渡って時代の変遷の中で、
 辻が花も含めた、型染めや、小紋染め、又、縫箔(ぬいはく--金銀箔と刺繍をほどこしたもの)の同服などについて、
 広く語ってゆきたく思います。

<辻が花が生きた時代風景>

○初期の辻が花の技法が、絹のみでなく、と言うよりも初めは麻地に染められたことが、「三十三番職人歌合」
(凡そ1394〜1428頃の作)という歌集中の和歌と、その判者の詞書きなどの記述により、うかがい知ることが出来ます。
 辻が花は、帷(かたびら=帷子・・ひとえものの着物)に染められたとの記述も、
 「宗五大草紙」(1528作)の中などにも、述べられています。
 帷は、ひとえの夏物で、麻地が主流でありますが、麻地ばかりでなく、薄地の絹の場合もあります。
 一般庶民は、絹を着用することはとても無理であったでしょうから、麻地に辻が花を染めたであろうことも
 充分考えられます。
 江戸時代の「茶屋辻(ちゃやつじ)」など、ひとえの帷のことを「辻」と言うのであり、
 室町以前からも、絞り染は一般庶民の中に普及し、庶民が帷に施工して着用して
 いたようであります。
 小袖の、表着としての着用も、本来、武家よりも先に、庶民間での風俗であったように、戦国の室町後期か
 ら桃山にかけては、時代の一大変化の中、古さを一蹴し次代の幕開けを予感させる、活気に満ち溢れた一般庶民の
 新たなる風俗を、世の上層部もどんどん取り入れたのでありましょう。

 ですから辻が花も、庶民間に始められたものが、武家社会の中心部にまで浸透していったと考えても不思議はなく、
 かえってそれは、とても自然な成り行きです。
 しかし今日、麻地の辻が花は、現存しておりません。
 それなのに、文献に登場する辻が花は、帷ばかりで麻地との密接な関係を思わせるものばかりです。
 それは何故なのか。
 庶民の衣服が残り伝わるのは、大変難しいことです。江戸時代のものでさえ、一般庶民の着物はほとんど
 皆無なのが現状なのです。
 絹地の高級品は、大大名や社寺によって、大切に保存されたから残っていることも、当然と言えば当然です。
 麻の辻が花が残っていないことは、仕方が無い事実ということになりましょうか。

 又、辻が花は・・・と言うよりは、絞り染は室町期、成年男子の正式衣服としては、
 禁じられておりました。
 
 〔例〕
 1548年 天分11年 貞順豹文書(ていじゅんひょうもんしょ)に、鹿の子や
 かたびらが、式服として相応しくない由が、明記されている。

 それは、絞りが、又本来の辻が花が、庶民中心に用いられてきたことと、あながち
 無関係ではないと思われます。
 服装を厳選し峻別することにより、身分の上下を明示したがるのは、いつの世にあっても、
 権力者の常套手段であります。
 ですが然し、それらの圧力や軋轢を跳ね返すがごとく、辻が花は、次第に武家の上層部へと浸透してゆきます。
 上杉謙信、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康など所用、又それら大大名よりの拝領品の辻が花の実物資料の存在が、
 それを見事に物語っております。
 
 辻が花の繊細且つ高雅で、しかも堂々たる存在感の中に光る、素朴な麗しさ。
 それらの類まれなる意匠の力が、生と死の中に命を燃焼させる戦国武士や、
 一般庶民の逞しく純な感受性に、強い共感と大いなる刺激を与えた事は想像に
 難くありません。
 
 やがて、江戸の染にその地位を譲り渡すこととなる、室町・桃山期に花開いた
 一種独特なる個性的な絞り染め・・・「辻が花」。
 それは、多くの謎を我々に投げ与え、底知れぬ深い興味と強い感動を、今日まで
 残し伝えてくれております。
 
 辻が花は、桃山期を頂点として、その姿を消してしまうのですが、やがて生まれる
 友禅染の大先輩として、又その後の自由な模様染の原点として、次代を生み、
 次代の中に息づく、我が国染織史上に最も格調高く輝ける美の光を、今日も放ち続けて
 いるのです。

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○次回は、「辻が花・U  辻が花と桃山期の染織」 と題したテーマで、
 辻が花を中心に、辻が花の周辺に咲きほこりつつ、やがては辻が花をも陵駕
 してゆく染織技法について、レポートして参ります。
 宜しくお願い致します。

 どなた様もお元気でお過ごし下さい。
 有難う御座いました。  

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〔実物資料〕

○松皮取りに菊藤文様裂(京都・瑞泉寺蔵) 1664年(寛文4年)
 辻が花染の裂れとして代表的な資料。
 松皮取りに紫と萌葱に斜めに染め分けた地に、紫には菊と藤、萌葱には
 椿と藤が白抜きに絞りで、染め上げられていて、椿の花には墨で細い線描
 にぼかしが入れられている。
 地の染め分けも、模様の白抜きも共に、縫い締め絞りが用いられている。
 辻が花の美しさを最も顕著に表している。

○藤と波岩文様裂(のぼり仕立て) 1530年(享禄3年)
 袖地に藤模様を表した小袖裂で、幡であったもの。
 緑、藍、紫、紅、などで、草花や岩を染め出し、それに銀の摺り箔をほどこした
 もの。朱と墨の細線描が加えられている。
 室町の辻が花として、最古の資料。

○草花扇面文様胴服の襟(室町 上杉謙信所用 上杉神社蔵)
 謙信所用の重文の胴服の襟に、鹿の子匹田絞りや松皮取菱取り、扇面などを
 染め分け、墨の細線で花文が描かれている。

○白地若松文様辻が花胴服(豊臣秀吉所用 重文 )
 白の練貫地に紅で、肩と裾に、肩には二つ引き、裾には作土(つくりつち=耕作土
 の表現)が縫い締め絞りで、朱地に大胆に表現されている。
 その土から上部へと、若松が墨の細線描(葉)と、縫い絞り(幹)とで、伸びやかに
 描かれている。
 秀吉の家臣、古田大善太夫重治が、太閤より拝領し、後に重治が石見の国に
 封ぜられた際、浜田城造営に当たって、その家臣の今村六左衛門一正にこれを
 与えた。後に一正は高松藩の人となり、代々高松藩・今村家の家宝として伝えられたとある。

○黄紅段地丁子文様辻が花染胴服(徳川家康所用 重文 島根県清水寺蔵)
 黄と紅の段を山道(ノコギリ歯形)に仕切り、紅には亀甲と円文、黄には丁子文
 散らしを大胆にあしらっている。
 これも、文様と段の染め分けは、すべて縫い締め絞りが用いられている。
 ここに来ると、絞り染の立体的な質感が、はっきりと意識され、絞り特有の面白さ 
 の追求が意図されてきている。

 慶長8年(1603)、家康が伏見城において、自ら着用の胴服を、石見銀山の山師、
 安原伝兵衛に与えたものとの記録がある。

≪参考図≫
tt1.jpg  松皮取りに草花扇面散らし

b1.JPG 白地若松文様同服(豊臣秀吉所用)

b3.JPG 黄紅段地丁子文様胴服(徳川家康所用)

b4.JPG 白地矢襖文様胴服(秀吉所用)

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〔参考文献〕

染と織の文化史         切畑 健著    日本放送出版協会
日本の美術「染」        山辺知行編   至文堂
日本の染織「三」        山辺知行監修  中央公論社
染織の美 創刊号「辻が花」 切畑 健概要  京都書院