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日立鉱山1


久原房之助翁以前の日立鉱山  

日立鉱山が歴史に初めて顔を出すの天正19年(1591)のことである。この年佐竹義重は、常陸国のほぼ全土を領有、羽柴秀吉の配下に入り、小田原攻 めに参加した。戦国はまさに終わらんとしていた。戦国の間、各大名は富国強兵のために鉱山開発に力を入れた。常陸国の国主、佐竹氏の鉱山技術は全国屈指とされていた。


太閤秀吉御朱印状「其の方領分中金山の事預かり置かれ候条例執る沙汰有様可き運上候外聞の儀候間仰せられ付け候」(あなたの領内の鉱山を開発したいという請願は、要求のとおり受理されました)猶浅野弾上少弼(浅野幸長)石田治部少輔(石田光成)申す可く候也
天正十九年卯正月廿八日(朱印)            羽柴常陸侍従とのへ(佐竹義重殿へ )
 


佐竹義重によって開発された山域は、大久保、金沢、成沢、赤沢(日立鉱山)、滑川、砂沢、石瀧(高萩市)に及んだらしい。赤沢鉱床中の御岩山西南裏手に佐竹坑という遺跡がある。佐竹氏は採掘業者に請け負わせ、彼らに課税することによっ て収入を得ていた。徳川氏になってからは見るべき業績がない。佐竹氏が記録や技術者を根こそぎ秋田まで持っていってしまったのかもしれない。


しかし、甲斐の国から流れてきた武田氏の技術者の末裔、永田茂右衛門、勘右衛門父子の開発が記録されている。彼らの開発は成功しなかったようだが、鉱山での排水工事の経験が、後に彼らの久慈川の治水事業に活かされたであろう事は固い。辰ノ口堰、岩崎堰、赤沢堰、笠原水道など、永田父子の治水の業績は現在でも県北全域で感謝されている。  


しかし永沢勘右衛門のときに既に公害は始まっていた。重金属を含む鉱水が入四間と宮田部落に流れて、農業に打撃を与えた。激怒した農民は水戸藩に訴え、勘右衛門は一時投獄され、鉱山は廃墟に帰した。水戸藩がその後も赤沢鉱山を開発しなかった原因は鉱水問題であった。朱子学を信奉し、農本主義であった水戸藩にとって無理からぬ事である。


紀伊国屋文左衛門も鉱水によって開発に失敗している。幕末になり多賀郡赤濱村の、大塚源吾衛門によって開発され軌道に乗った。鉱毒問題も話し合いの末、賠償ということで解決した。しかし、天狗党の敗走路にあったたことがすべての不運であった。天狗党の残党は、食糧を源吾右衛門に要求されたが、吾右衛門は拒否、逆上した天狗党の残党は、鉱山の設備を破壊、火を放った 。  


明治になり、赤沢鉱山は所有者を転々とした後、明治34年(1901)にボイエス商会の手に渡る。ちなみに、「ある町の高い煙突」は、ボイエス商会の赤沢鉱山における実務担当者ノルウェー人、シ・オールセンが日立にやってきたあたりから始まる。彼は明朗闊達で労働者に大変慕われていた。  


明治38年(1905)ついに赤沢鉱山は久原房ノ助の手に渡る。明治期の起業家らしく、磊落な人物であったが、反面昭和前期の政治において「妖怪」とも言われ、2・2 6事件においても民間人としてはただ1人逮捕され(後釈放される。首謀者が天皇陛下を呪ったり、青年将校が有りもしない希望にすがりつく中、拘置所内で終始毅然としていたのは久原翁だけで、看守も賛嘆の声を漏らしている)、満州事変や日華事変にも深く関わっていたらしい。


久原房ノ助は長州系の土木会社藤田組に勤めていた。藤田組は明治前記日本一の産出量を誇った小坂鉱山を経営していた。ここで鉱山経営のノウハウを身につけた久原翁は、日立鉱山が買い手を探していると聞きつけ、30代の若さで独立して買い取った。久原翁は、日立鉱山の経営を拡大、おりしも日清・日露戦争後重化学工業の発展期を迎えた時流にも乗り日立鉱山は大発展を遂げる。新技術を多く取り入れた。労 働者の扱いも、当時としてはよかったらしい。しかし、大発展は公害の未曾有の拡大を意味した…