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煙害の広がり
軌道に乗った日立鉱山であったが、公害が其の前途に重くのしかかる。水戸藩時代以来何度も鉱毒によって開発が妨げられたのは前記の通りであった。日本鉱業による経営が始まってからも(つまり久原房ノ助翁による経営が始まってから)鉱水の被害はあった。しかし、補償額も当時の日立鉱山の規模からすると軽微なものであった。なぜかというと、渡良瀬川という大河川の源流に位置した足尾と異なり、日立鉱山の排水が流れ込む宮田川は全長3kmに過ぎず、また日立市は海岸段丘に位置して河は峡谷をなして流れ、水稲栽培には適していなかったので、水質汚染の被害は広がらなかったからである。宮田川流域の主な耕地の買収も行われた
。
問題は煙害である。海からの風に乗って県北全域を這った亜硫酸ガスを含む排煙は、県北3郡の林業と農業に大打撃を与えた。それまで採掘場のすぐそばの本山で精錬が行われていたが、明治41年(1908)大雄院に精錬所が移された、山間部の本山ではとても大規模な工場は建てられなかったからである。しかし、それまでも富山と入り試験当りにしか及んでいなかった被害は、県北3郡(多賀郡、久慈郡、那珂郡)全域に広がった。かつて連山和尚が植林
した森林も一転禿山となってしまった。
久原翁の「地元住民を泣かせるな」との方針と、庶務課長の角弥太郎氏の「鉱毒被害は、鉱業家がその道義的責任において保証し、負担すべきである」方針堅持によって、被害に対して綿密な調査が行われ、実際よりもやや多く補償された。足尾
などのように、警察や軍隊で鎮圧するのが普通という当時の風潮からすると、画期的なことといわねばならない。
煙害の状況はどうだったかというと、大煙突ができた後の煙害の話からだが、たまに代煙突からの煙が拡散しないでまとまって入四間(中里村)、中里村、里美村のほうに流れてくることがあった。煙によって山が紫にかすんでくるほどで、のどが痛くなり、咳き込む。楢やクルミのような広葉樹は煙害に弱くて一網打尽にされた。ソバ、タバコ、果樹、桑の被害が出た。老樹だけでなく、幼樹の発育阻害も著
しかった。大雄院から本山にかけては完全な禿山となり(このときの状態は、大正期の写真からよくわかる)澤平、笹目、金山、黒田では、部落を上げて移住する計画まであ
がった。
このころの鉱山と農民の間の殺気立った雰囲気は「ある町の高い煙突」によくあらわされている。日立鉱山に於ける交渉は、他と比べてお互いに奇跡的なほど紳士的であったが、大正初期には日立鉱山付近の農村は壊滅せんとしていた。明治42年(1909)1月、日立鉱山に鉱毒問題解決のために地所係が創設された。多数の技術者を網羅して、煙害の調査が行われた。入四間では、関右馬允さんが中心になって、粘り強い交渉が行われた。関右馬允さんは、「(鉱山側の人が)こっちに来たら文句を言ってはだめだ、文句を言うと
きは事務所に行って言う。いじめるときは会社側を。こちらに来たときは絶対いじ
めちゃだめなんだ。そうでなくちゃ交渉は下手なんだ。」とよく言っていたそうである。(「鉱山と市民」より)
農民個別で交渉せず、村で団結して交渉に当り、村民から信用されるために、鉱山側からは弁当ひとつ受け取らなかった。明治41年には2万円であった補償総額は、43年には13万円、大正3年(1914)には23万円となり、日立鉱山の経営を圧迫するまでになった。煙害は、鉱山側おもジリ貧に追い込んだのである。