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源氏物語試論3


では源高明と源兼明がどういう人物であったか見てみましょう。

源高明は、藤原氏とも、皇室とも姻戚関係を持つ人物でした。それを背景に、966年には右大臣、967年には左大臣になります。968年に冷泉天皇が即位しますが、帝は病弱で、為平親王に皇位がまわる可能性が高くなりました。源高明の勢威が伸び ることを嫌った、実頼(当時関白)と兼家兄弟は為平親王を飛び越えて、守平親王 (村上天皇)を皇太子にします。源高明一派はそれが大変に不満で、しかし兼家らはその不平を聞き逃さず、源満仲の密告によって、太宰権ノ帥に左遷させられます。これを安和の変といいます。  


源高明の腹違いの兄で、源高明に数年遅れて昇進してきた源兼明も、安和の変で一時殿上を差しためられます。しかし源兼明は復活して971年に左大臣になります。翌年、源高明は筑紫から京に召喚されます(しかし政界に復帰はしなかった)これは恐らく源兼明の処置でしょう。しかしその源兼明も、977年関白藤原兼通の讒言によって失脚し、中務卿に左遷されます。源の兼明は鬱憤の情を「莵表賦」に綴った後、嵯峨の別邸に隠遁します。


「国史大辞典」の源兼明の段の末尾を抜粋します。  
「親王は博学多彩で詩文をよくし、わが国第1の皇室詩人といわれた。しかもその悲劇的生涯は多くの同情を生み、多くの伝説が生まれている。中世において「源氏物語」ゆかりの地として嵯峨山荘が見倣され、近世の詩人たちは親愛の心で、兼明親王を詩賦として読み込んでいる。」  


これが賜姓現時の中で高官まで登り、かつ無実の罪によって藤原氏に追い落とさ れた2人の生涯です。

※きんたろう
系図についてはどうしようか悩んでいるところです。(^^)