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藤原氏と賜姓源氏の権力闘争
各時代の大臣の在任期間に占める各氏族の割合を調べてみました。
飛鳥時代(642〜710)皇極天皇の登位からです。これは資料の都合です。
太政大臣、知太政官事―15年 皇族―15年(100%)
左大臣(置かれたのは合計19年) 阿倍氏、巨勢氏、蘇我氏、多治比氏(皇族)、石上氏(物部氏)−19年(100%)
右大臣−29年 蘇我氏、大伴氏、多治比氏、阿倍氏、石上氏、−25年(83%)
藤原氏(中臣氏も含む)−4年(17%) 内臣―23年
藤原氏―23年(100%) 天皇親政(大臣が置かれなかった期間)−17年
左大臣、右大臣など表の権力にはまだ藤原氏は進出していません。
しかし、中臣鎌 足の内臣23年が気になります。孝徳天皇、斉明天皇の御世(17年)の実力者は皇太
子であった中大兄皇子ですから、その側近であった内臣の中臣鎌足は実質的には23
年間2であったと言えます。 鎌足の死後、藤原不比等が右大臣として政界で藤原氏が復活するまで30年たってい
ます。
奈良時代(710~794) 法王―5年 道鏡―5年 太政大臣、知太政官事、大保、太師、太政大臣禅師―45年
皇族―36年(80%) 藤原氏―7年(16%) 道鏡―2年(4%)
左大臣―37年 皇族(橘諸兄を含む)−21年(57%)
藤原氏―8年(22%) その他―8年(22%) 右大臣―65年
皇族(橘諸兄を含む)―11年(17%) 藤原氏―48年(74%)
その他(吉備真備)―6年(9%) 内臣、内大臣、忠臣―12年
藤原氏―12年(100%) 太政大臣に皇族の割合が高いのは、703〜745年にかけて、刑部皇子、穂積皇子、舎人
皇子、鈴鹿王等、天武天皇の皇子(鈴鹿王は長屋皇子の弟なので、天武天皇の孫)
が、知太政官事についていたからです。 橘奈良麻呂の乱(757年)以前に限ってみれば、
太政大臣級―36年 皇族―36年(100%) 左大臣―29年
皇族―21年(72%) その他―8年(28%) 右大臣―34年
皇族―10年(29%) 藤原氏―24年(71%) 橘奈良麻呂の乱以後は
太政大臣級−9年 藤原氏(藤原仲麻呂)―7年
道鏡―2年 左大臣―8年 藤原氏―8年(100%)
右大臣―31年 藤原氏―25年(81%) その他(吉備真備)−6年(19%)
となり、奈良時代の後半になって皇親政治が崩れて藤原氏が勢力を伸ばしていくこ
とがよくわかります。特に、光仁天皇と桓武天皇の御世(771~794)は、左大臣と右
大臣はすべて藤原氏であり、道鏡事件で天武系の王朝が廃されることによって藤原
氏が復活したと言えます。
平安遷都から、藤原良房が摂政になるまでの期間(794〜858)
天皇親政色の強かった時代です。 太政大臣―1年
藤原氏(藤原良房)−1年 左大臣―29年 賜姓源氏―15年(52%)
藤原氏―14年(48%) 右大臣―64年
賜姓源氏―4年(6%) 藤原氏―48年(75%) その他(橘氏を含む)―12年(18%)
藤原良房が摂政になってから、菅原道真が失脚するまで(858〜901)
摂関政治が始まる時期です。天皇親政と摂関政治がせめぎあった時期といえるでし
ょう。 摂関時の官職 藤原良房(太政大臣)、藤原基経(右大臣*この時左大臣も太政大臣も置かれなか
ったので最高位である、その後太政大臣となる)
太政大臣―28年 藤原氏―28年(100%) 左大臣―15年
賜姓源氏―11年(73%) 藤原氏―4年(27%)
右大臣―52年 賜姓源氏―3年(6%) 藤原氏―45年(87%)
その他(菅原道真)−4年(8%) 菅原道真失脚から源高明が失脚するまで(901〜969)
従来、藤原氏と賜姓現時の勢力争いが行われたとされる時期です。
源高明失脚によ って、藤原氏の他氏排斥は完了したとされています。
摂関時の官職 藤原忠平(左大臣*太政大臣がいなかったので最高位、太政大臣)、藤原実頼(太
政大臣) 太政大臣―17年 藤原氏―17年(100%)
左大臣―54年 賜姓源氏(源高明)―3年(6%)
藤原氏―51年(94%) 右大臣―64年 賜姓源氏(源高明)―2年(3%)
藤原氏―62年(97%) それ以後の時期も、賜姓源氏が左大臣や右大臣になるのですが、
摂政関白時の官位 藤原伊尹(右大臣*官位は3)
藤原兼通(内大臣*4、太政大臣) 藤原頼忠(左大臣*1、太政大臣)
藤原兼家(左大臣*3、太政大臣) 藤原道隆(内大臣*4、後半は無官)
藤原道兼(内大臣*4) という風に、官位と最高実力者は全く対応しなくなっていますので、賜姓源氏は藤
原氏にとって変わるほどの勢力では、全くなくなったといえます。全く実力がなく
なったわけではありませんが…
藤原氏の勢力伸張の過程 こうしてみると、奈良時代の前半まで左大臣以上は皇室によって占められていて、
藤原氏には入る余地がなかったことがわかります。それに初めて挑戦したのが藤原
仲麻呂です。彼が皇帝になろうとしたか、平安時代の摂関政治と同じ事をしようと
したかは不明ですが、彼が太師(太政大臣)になったことは破天荒のことであった
ことは間違い有りません。 桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の御世(781~823)には太政大臣と左大臣は置かれて
いません。天皇陛下の権限がとても強かった時代といえるでしょう。
淳和天皇、仁明天皇、文徳天皇の御世の最高位は左大臣ですが、賜姓源氏と藤原氏
の力は拮抗しています。そうすると、「国史大辞典」の藤原良房の段にある以下の
記事が重みをまします。 「…やがて文徳天皇は良房の権力を厭い、第1皇子惟嵩親王を皇太子にしようと企て
、良房との間に激しい暗闘があったようであるが、これは成功せず、真相は国史に
も隠蔽されている。…」 最終的に文徳天皇は退位を余儀なくされ、幼少な清和天皇が即位、良房は人臣では
じめて摂政になります。六歌仙はあるいは井沢先生のおっしゃるように、その時文
徳天皇側に立った人々かもしれません。
藤原氏は、左大臣、太政大臣、摂政と、皇 族の権力を徐々に奪っていきました。
良房と基経の時代はこの2人が最高権力者でした。しかし基経の死後は、藤原氏の権
力に空白が生じて、そこに学者官僚(平安時代の日本には科挙に似た役人採用試験
があった)である菅原道真が右大臣まで上る余地があったのでしょう。しかし、学
者官僚も藤原氏に敗れます。菅原道真の追い落としは、藤原氏と賜姓源氏の共同作
業でした。 菅原道真失脚から源高明登場までは、大臣はほぼ完全に藤原氏によって独占されて
います。まだ官位の順番と権力の順番は対応しています。天皇を頂点とする律令官
僚制度がやっとのことでその表面を維持しています。賜姓源氏はこの時点で藤原氏
に敗れたとも言えます。
源高明は半世紀間藤原氏によって政治が独占されてきた後、藤原氏と天皇との血縁
によって彗星のように現れて左大臣まで上り詰めます。彼には摂関になる資格があ
りました。藤原氏は10世紀前半までに官位を独占し、その外にある摂関も独占した
わけですが、その摂関の地位に挑戦する人物が現れたわけです。しかし源高明も安
和の変によって失脚します。 その後は官位の順番と権力の順番は全く対応しなくなります。最高権力者である摂
関の地位は、藤原氏の都合で決められるようになったということです。遂に藤原氏
は国家の私物化まで成し遂げたのです。