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藤原頼道の時代
以下の文は「藤原頼道の時代‐摂関政治から院政へ」(坂本賞三・平凡社)からまとめたものです。
現状維持さえ祈っていれば良かった平安期族の黄金時代は,藤原道長の死とともに終わります。末法がやってきました。
まず,藤原良房から藤原道長にかけてはどのような支配体制だったか見てみましょう。
奈良時代と平安時代初期の律令制が崩れ,前期王朝国家支配が作られました。そのポイントは,
(1) 租庸調が実質的に廃止され,官物と臨時雑役の新税制体制となりました。
租庸調は,人に対してかけられましたが,田地に対して税がかけられるようになります。
(2) 国ごとに中央進物の額が固定され,国史はその定額を中央政府に進納することが求められるようになりました。
つまり,国司はいわゆる徴税請負人となりました。
しかし,前期王朝支配体制のほころびが11世紀に顕著になります。
中央政界と関係する権勢者に取り入って,雑役を免除されようとする農民が激増しました。
また,開墾地の名義を摂関家とし(その文書の多くは偽造で摂関家はあずかり知らなかったとされる)税を逃れる者が続出しました。
また,国司の不法を訴える行動も増えます。
このようにして,国衙の収入は減り,地方は日常業務の遂行さえ滞るようになりました。
このような操作は,法律に対して相当の知識を持つ者でないと出来ません。これらを指導したのは,在地の領主層および中央から下ってきた貴種だったらしい。この2勢力が合体して,武士が出来ます。
藤原道長の時代にはまだ表面化していませんでしたが,藤原頼道の時代になると,取り繕うことが不可能になり,国司達は中央政府に現状を訴え始めます。
事態の深刻さに,貴族たちは愕然としました。
この困難な政局を指導したのが藤原頼道です。彼は,凡人では有りましたが,何とか王朝体制を再編しなおしました。おかげで,平安貴族は鎌倉幕府が出来た後も命脈を保ちつづけ,室町時代の中期まで生き残ることが出来ました。
11世紀後期以降の王朝体制を後期王朝体制と呼びます。その仕組みは大筋で以下のとおりです。
(1) それまで,国司に一任されていた税率の決定を,中央政府との相談によって決めることとしました。
これによって,国司が不当に私腹を肥やすことを防ごうとしました。
(2) 非合法的に荘園を支配していた武士層を,支配体制末端の行政官(郡司・郷司。保司、村司など)として取り込みました。
また,奈良時代に決められたまま,有名無実となっていた郡,村などの行政単位を現状に合うように再編しなおします。
(3) 内裏、寺社の修理などのためにかけられる国への割り当てに対して,免税特権を無効とする、一国平均役が公認されるようになりました。
(4) 荘園に関する訴訟を,中央政府で行うこととしました。地方では,権門盛家に遠慮して十分な審議が出来ないからです。
(5) 官職の世襲が増えたことです。
11世紀後半から13世紀初期(藤原頼道の時代〜院政期〜鎌倉時代初期)は,このような支配体制が敷かれた時代でした。