2001/5/18
近世政治思想に大きな影響を与えた要素として「太平記読み」が挙げられます。太平記読みとは、「太平記」「理尽鈔」をテキストとして、近世初期に為政者に政治思想を説いた人々の事です。以下、太平記読みを中心にして、近世政治思想を見てみようと思います。なお太平記読みに関しては「「太平記読み」の時代―近世政治思想史の構想」(若尾政希 平凡社)を参考にしました(というよりほとんど写したようなもの、著作権に抵触するかな…しかし石田梅岩や鈴木正三などは自分で調べた事です)
●「太平記」が描く寺社勢力
中世の政治は宗教と密接していました。政治と宗教の密着は古代王朝国家以来のもので、王朝国家を比叡山と高野山を中心とする顕密仏教が祈祷によって守るという、仏法王法相依論は王朝国家を支えるイデオロギーでした。これは中世も続きます。
王朝国家、権門盛家と寺院勢力から地主の所有権を守るために出来たのが鎌倉幕府でした。鎌倉幕府は仏法王法相依論にたいしては、つかず離れずの態度を取りました。つまり、これら古代的な勢力と武家との間に土地争いのような世俗的な紛争が起こったときに、教義などには立ち入らずに慣例や所有関係といった「理」に基づいて、紛争を調停する立場を取りました。さらに武士は戦争が仕事です。祈祷では戦いには勝てないわけで、武士が合理的嗜好を重んじるのは、これは当然であろうかと思います。
「太平記」の描く山門を見てみましょう。まず後醍醐天皇の子供である護良親王は天台座主(比叡山の最高指導者)を勤めていました。その関係もあって、後醍醐天皇は倒幕のために山門(比叡山)の僧兵の力を借りました。その後建武の新政に対する不満を背に、足利尊氏が反旗を翻して鎌倉から上洛すると、後醍醐天皇は比叡山に引きこもって抵抗しました。足利尊氏が九州から東上すると、後醍醐天皇は再び山門に拠りました。
足利幕府は禅宗を保護します。その一環として、足利尊氏は深く帰依した夢想礎石の勧めに従って、後醍醐天皇の霊を慰めるために天竜寺を建立しました。足利尊氏は天竜寺を勅願寺にして権威を付与しようとしますが、それに対して山門は強硬に反抗しました。天竜寺の勅願寺停止を勝ち取ります。
所領を巡って、山門は足利幕府の実力者佐々木道誉、斯波高経と争います。足利尊氏&佐々木道誉VS足利直義&斯波高経という観応のじょう乱の対立も絡んでこの紛争は複雑に推移しますが、山門は両者を屈服させます。ここで「太平記」はこれを山門の呪力のためとしています。つまり、「太平記」は寺社勢力の霊的権威を否定してはいないと見て取れます。「太平記」は後半部も前半部も武家政権に対して自己主張をする勢力として顕密寺社勢力を描いています。
●太平記読みが描く寺社勢力
これに対して、太平記読みは顕密仏教、禅宗ともに痛烈に批判しています。
武芸を誇る悪僧を本家「太平記」が褒めるのに対して、寺社とは学問の場であり、そのような侮言を誇るのは本末転倒で、そのような僧は数百人なりとも誅殺してしまえと言い切っています
また寺社勢力の呪力を否定します。権力者の興亡と祈祷には関係はないとしています。
さらに顕密、念仏、禅宗全て仏教の中の一派に過ぎず、顕密がことさらに正統意識を持つのはおかしいと主張し、宗派論争にも否定的です。足利幕府の保護のもとの、禅宗の経済的繁栄も批判します。空を説いて、神や仏もないと教説するから、「地獄に落ちるぞ」と民衆を教える事が出来なくなって、国中に無道・不忠のものが増えたと禅宗を非難します。どんな大罪を犯しても往生できると説くから人は前非を悔いなくなってしまう、と念仏も非難します。(この強烈な宗教批判は、近世後期の思想家安藤昌益に影響を与えたと考えられます)
太平記読みの宗教観は、秩序が崩壊して、実力が全てである戦国時代をくぐってきただけあって、大変合理的になっていると言えます。
●太平記読みの言うあるべき「仏法」
太平記読みが言うあるべき「仏法」とは、領民を教導して正しい道(この正しい道とは、仏教的な考えと儒教的な考えが混ざり合っています)に導くことであると言います。自分の与えられた仕事を誠実に行います。支配者には従順であれ、そして、このように生活していれば現世も死後も安穏であると教えるべきだといいます。
僧は学問に専念する。寺の別当(管理者)としては領主の次男・三男を置き、領民の尊敬を得させるべきだと言います。これによって、領主の権威も寺社の権威も上がるというわけです。僧の妻帯も勿論禁止します。
●太平記読みと鈴木正三
この宗教観は、近世の民衆的な思想に大きな影響を与えた鈴木正三の思想によく似ています。鈴木正三は元々徳川家康の旗本で、ゆえあって出家し、大変ユニークな思想を作り上げました。また鈴木正三は板倉重宗と関係がありました。
彼は士農工商それぞれの職業に専念することが宗教的な修行と同等であると説きました。特にそれまで宗教的には下等と見られていた商人の利殖をコストダウンへの不断の努力を続けた結果であるならば、正統な利益であると肯定しました。近世の商業発展を支えた思想とも言えます(他に心学が鈴木正三の影響を受けて同じことを説きます)。利益をあげることを、宗教的に肯定したのです。イギリス近代資本主義を支えたカルヴァンの思想と似た面があります。
この鈴木正三は面白いことに、宗教者は本来はいらない、役立たずの「泥棒」と規定しているのです。彼によると、宗教者は、領民を教導して治世を円滑にすることによってのみ、存在が認められるとしています(これを僧侶役人説という)。
太平記読みと鈴木正三の職業観と宗教観は良く似ています。この類似は、近世初期(元和・寛永年間)に、中世とは違った新しい事態に対処するために、一種の宗教改革が日本の仏教界に起こるのですが、禅宗の改革に「太平記読み」が関わっている可能性があることに理由がありそうです。「太平記読み」の始祖である大運院陽翁は法華経の僧であり、「太平記鈔」の著者と伝えられる円智院日性も、法華宗京都要法寺の第21代住職であり、鈴木正三は禅僧でした。太平記読みと仏教界は世界観を共有していました。
●太平記読みと織田信長・豊臣秀吉・徳川家康
勘の良い方は気づかれたかもしれません、この宗教観はまさに織田信長のものです。太平記読みが生まれたのは近世初期ですから、太平記読みの念頭には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら近世を切り開いた政治下の宗教政策があり、これを思想的に後追い承認したと言えそうです。あるいは彼等のブレーンとなった僧侶の思想が太平記読みの思想になったのかもしれません。
近世の思想家の楠木正成像
林羅山には、仏教信者としての楠木正成像は認めてはいないものの、「太平記」の評価をほぼ踏んでいます。山鹿素行は武略の師として楠木正成を上げています。熊沢蕃山は名君として楠木正成を絶賛しています(これは史実の楠木正成ではなく「理尽鈔」に言う楠木正成です)。
戦国時代、武士は武芸に偏重していましたが、近世になって武士の仕事は安定した治世の中で、有能な為政者たることになります。楠木正成像の転換はここにあり、武士達を太平記読みに引きつけたのは、既にヒーローとして定着していた楠木正成に新たなる評価(ほとんど創作)をした事にあるといえましょう。池田家などは、楠木正成の孫が先祖である(養子として入ってきた)と主張しています。