2001/10/07



尊王思想の研究12―国体と忠孝一致の発明


18世紀後半に幕藩体制は行き詰まりを見せ始めました。19世紀になると矛盾はますます蓄積されていきます。しかし、最も大きなインパクトは西洋近代の脅威でした。


通商を求める西洋の使節が日本近海にやってくるようになります。近海に出没した捕鯨船団はもっと多かったことでしょう。長崎から輸入される文物からも、西洋近代の優位はわかりました。西洋から帰還した漂流民からまたらされる情報もありました。西洋近代の脅威は、やはり国内の矛盾のために増幅されたと思われます。19世紀の日本人はヒステリックなまでに攘夷を叫びましたが、圧倒的な西洋諸国の力もさることながら、国内の不安が増幅され、西洋に投影されて、ヒステリックな攘夷感情となったのでしょう。そして、18世紀後半から、数十隻の船団を組んだ捕鯨船団が、鹿島灘を埋め尽くすのが眺められたといいます。これは大変なプレッシャーであり、近世政治思想の中でも特異な性格を持つ後期水戸学が生まれたこととは無縁ではないでしょう。


● 後期水戸学の危機意識
前期水戸学が、正閏論と大義名分論によって日本史を再編するという、純粋に学術的な面の強い学問であったのに対して、文政・天保年間(1818〜43)に水戸藩の藤田幽谷とその門流によって形成された後期水戸学は、19世紀の社会問題・対外危機に正面から向かい、また志士達を行動に駆り立てたイデオロギッシュな思想でした。


後期水戸学は藤田幽谷(1774〜1826)がその創始者とされ、尊王敬幕論を唱え、経世論と攘夷論を説きました。その高弟の会沢正志斎(1782〜1863)は著書の「新論」によって独自の国体論を構想し、尊王攘夷の理論を確立し、後期水戸学の理論的完成者とされます。幽谷の子藤田東湖(1806〜55)は、藩主徳川斉昭(烈公1800〜60)とともに、こうした水戸学の理念を天保の水戸藩政改革という政治実践の場に生かし、幕政にも働きかけ、さらには国事に目覚めた全国各地の若者達に、藩を越えて尊王攘夷思想を吹き込んでいきました。なお、安政の大地震で藤田東湖が圧死した後、烈公は影が薄くなってしまいますが、これはおそらく東湖が烈公の知恵袋であったことによるでしょう。


「新論」から、西洋近代への危機意識を見てみましょう。会沢正志斎は、西洋諸国の強さの理由は勇気や知恵、政治制度、超自然な力が日本に卓越するからではなく、キリスト教のみであると考えました。キリスト教自体は大した教えではないが、人の心に突け込む力があり、他国への侵略もまずは貿易によって様子を見、隙を見て軍事侵攻する、それがうまく行かなかった場合はキリスト教の布教によって徐々に民心を掌握して、植民地化するとしました。


(どうもこれは通説で豊臣秀吉や徳川幕府がキリスト教を禁止た理由とされているものに似ています。近世を通じてそういった考えがあったのか、あるいはわれわれ近代人が後期水戸学に影響された目で近世初頭を見るからこう考えてしまうのか、どちらでしょうか。)


西洋はキリスト教によって国内を思想的に統一している、だから強いのだとも会沢正志斎はいいます。しかるに日本は諸宗乱立、新興宗教も乱立しています。金光教や天理教は19世紀前期に出来ました、それ以外にもいろいろな宗教がこの頃できます。平田篤胤の神道もその一つでしょう。古代、中世以来の土着の信仰は、神仏分離令、廃仏毀釈、国家神道など、明治政府の宗教政策(これも尊王思想と密接な関係がありますが、話が広がりすぎますので割愛します)によって壊滅的な打撃を受けますが、近世後期からその破壊は始まっていました。このような現状のもとに、西洋諸国の侵略を受ければ日本はひとたまりもないだろう、と会沢正志斎は考えました。


しかし、会沢正志斎はいいます。宗教によって民心を収攬するのは、元々は神武天皇以来わが国古代の祭政一致の方法だったのだ。国内を思想的に統一するための、わが国本来の姿を提示しなければならない、会沢正志斎の国体論はここから始まります。


●国体と現人神の誕生
先に、朱子学においては、天に道徳が備わっていると書きました。会沢正志斎は、この儒教的「天」を、日本の天孫の神「天祖」と同一視しました。日本の神々にはギリシャ神話の神々と同じように、元々道徳的価値観とは無縁です。おそらく自然崇拝、アミニズムが日本の神道の起源だったからでしょう。中国人の「天」は道徳的価値観と一体です。会沢正志斎はここで「儒教的天=天祖」の読み替えを行います。


これは既に本居宣長によって行われています。賀茂真淵と本居宣長の「国学」は近世に圧倒的であった儒学に対するアンチテーゼとして始まりました。本居宣長は、「日本の天祖は、世界中に普遍的な神であり、それを世界中の人間が崇拝するべきだ」としています(私はここに「同化政策」「皇民化教育」のはしりを見ています)。それに対して上田秋成(怪奇物語が有名ですが、国学者でした)は「日本の神は日本人特有のもので、各民族はそれぞれの神を崇拝するべき」と反論しています。ともあれ、本居宣長に既に「儒教的天=天祖」が始まっています。会沢正志斎はおそらく国学の成果を知っていたでしょう。


こうして、日本の天祖に道徳的至高性が付与されました。天祖の尊さは、天祖の子孫である天皇に受け継がれていると正志斎は主張しました。ここに、天皇が道徳と同一視されるのです。現人神誕生の瞬間です。


後期水戸学の説く天皇は、儒教的徳目があるから帝王になったのではなく、綿々と存在しつづけていること自体に価値があることになりました。むしろ天皇個人が意思を持って行動などすると不都合ですらあります。


このため、後期水戸学においては天皇に対する批判的言辞は皆無になりました、天皇の存在自体が規範であったからです。前期水戸学が、自由に天皇も批判していたのとはえらい違いです。易姓革命などもってのほかになりました。皇国史観が始まります。


天皇の正統性は、道徳的天である天祖からの霊力を、三種の神器の継承を通して受け継いでいることに求められました。天祖天照大神が降臨する依り代である神器(とりわけ宝鏡)を、天祖の血がつながる子孫である天皇が擁して祭祀(とくに大嘗祭)することによって、天皇は天祖と一体化できる。それは天皇が天祖の「気」を継承しているからに他ならないとしました。これは全く中国的な生命観です。私の感覚では、日本人にとっての「霊」とは、個人的なもので、例えば後醍醐天皇の霊が誰かに憑依することはあり得ても、天皇一族の霊がなにかに憑依したりするような発想は日本にはなかったはずです。


天皇の役割は、一個の政治主体として政治を行うことではなく、ひたすら天祖を祭ることとされました。それ以外の政治的責任からは超越していました。政治的責任は、臣民が無限責任で負うべきものとなりました。これは大日本帝国憲法第一条の天皇の神聖不可侵の元になりました。


20章において詳しく説明するつもりですが、これは近世的世界観が崩壊して、圧倒的な西洋近代の前で自らが相対化されてしまうことに対する、心理的防御であったと私は考えています。無謬を天皇に転化して、日本人は伝統を捨てて近代に飛びこむのです。これはどこか律令制度が導入されたときに似ていないでしょうか?


●忠孝一致
近世は戦争がなく社会が安定しましたので、武士の君臣関係は先祖代々の宿命的なものとなりました。儒教では親子の関係は宿命的で絶対に従うべきとしていますが、君臣関係は解消可能としています。しかし会沢正志斎は、わが身は父母から頂いたものであるので、わが身が栄達することは、父母への孝である。たとえ、志に殉じて、父母への孝養を欠くこととなっても、そのかわりに父母の志しを達成したのであるからむしろ「大孝」であるといいます。これが「忠孝一致」です。父母の主君に「忠」を尽くすことが、父母に「孝」を尽くすことと同等になったのです。


父母と自己の同一化が起きていますが、これを順繰りに遡っていくとすべての先祖と自己の同一視となります。これと平田篤胤の神道が説く、「日本人は全て天皇の子孫」という考えが合体すると、天皇に対して没入的に忠義を尽くすことが最高の道徳的実践となります。


このように後期水戸学は近世後期から近代にかけて日本人に強い影響を与えています。後先考えずにとにかく行動に駆り立てる力を持っているといえるでしょう。私達が今日言う意味での尊王思想の始まりは、後期水戸学にあるといえましょう。


「日本の近代13―儒学・国学・洋学」9.儒学の幕末―西洋近代への思想的対峙 辻本雅史、を参考にしています。