2001/9/21



尊王思想の研究11―光格天皇


●近世の朝幕関係

後陽成天皇(在位1587〜1612)、後水尾天皇(在位1612〜1629)の頃には緊張感のあった朝幕関係でしたが、明正天皇(在位1629〜1644)以降は朝廷も完全に幕府の管理下に置かれました。


朝廷の所領は十万石と決められ、儀式などの全ての費用は幕府が出すことになりました。「禁中並びに公家諸法度」において、天皇は「天下御芸能の事、第一御学問也」と定められました。武家の官位は、公家の官位と全く別とされ、朝廷の官職の人数に関わりなく、幕府の命令で任免できることになりました。幕府と朝廷の意思疎通・交渉のルートは次の様になっていました。


将軍→老中→京都所司代→禁裏付→武家伝奏→関白→天皇


また幕府は天皇に(地位の割りには)薄く報い、最高位の公家である五摂家には厚く報い、下級貴族に薄く報いるという分断統治を敷きました。公家の団結を防いだのです。


文章の書式は天皇と将軍は同等に扱われました。将軍と五摂家・宮家は、将軍と御三家・御三卿の関係と同じ。それ以下の公家は一般大名と同じ臣下扱いでした。将軍宣下の儀式においては、将軍が上段、勅使が下段になりました。旗本から任命される禁裏付は、武家伝奏を、用があれば呼びつけることが出来ました。貴人が死んだときに出される鳴り物停止令(お祭りごとの自粛令、昭和天皇御病気から崩御を思い出してください)は、将軍・大御所が49〜77日、それに対して天皇・上皇が3〜7日(京都では50日)ととても軽いのでした。


全く幕府に頭を押さえられた天皇のすることは故事の研究と朝事の再興くらいのものでした。


<江戸時代皇室系譜>
番号は代数現在の南朝正統の数え方に従っています。しかし江戸時代においては北朝正統でした。

後水尾(108)

明正(109)、後光明(110)、後西(111)、霊元(112)(全員後水尾天皇の子)

霊元(112)

東山(113)

中御門(114)、直仁親王(閑院宮家創設)

桜町(115)

桃園(116)、後桜町(117)

後桃園(118)

<閑院宮家>
東山天皇(113)

直仁親王

典仁親王

光格天皇(119)

仁孝(120)

孝明(121)、和宮(徳川家茂夫人)

明治(122)


●光格天皇誕生
光格天皇(1771〜1840、在位1779〜1817)は、理念的な天皇像を求めた人でした。在位は39年、譲位後も院政を23年敷きました。彼は典仁親王の第六子として生まれました。当時養子にいけなかった皇室の男子はほとんどが出家させられましたので、祐宮(さちのみや、光格天皇の幼称)もまた聖護院に送られることになっていました。


しかし、後桃園天皇が男子を残さないままに崩御、急遽祐宮が後継に選ばれました、時に9歳。宮家から来たため、回りの人間から軽く扱われることがあったといいます。そのため母代わりとなって見守ってくれた後桜町院(女帝でした)から学問をするよう諭され、うち込みました。長じてこれが役に立ちます。


●御所千度参り
先に、18世紀広範囲なって幕府の統制が緩み出したと書きましたが、京都でもそれは同じでした。天命の大飢饉による食糧不足に対して京都の町民は京都所司代に対策を求めましたが全く反応はありませんでした。京都所司代を見限った町人達は、1787(天明7)年の夏、京都御所の築地塀を廻り、御所に向かってお祈りをし、門から賽銭を投げ込み始めました。やがて上方中から人が集まり、数万の民衆が御所千度参りを始めました。出店まで出て、たいそうな賑わいだったと言うことです。


これはこれまでの常識からして、大変なことでした。正式な政府である幕府権力を民衆が見限り、朝廷に救いを求めたのです。


16歳の光格天皇は彼らを何とか救済できないかと考え、関白と武家伝奏を通して処置を京都所司代に申し入れました。朝廷の方から幕府に政治の指示をするなど、前代未聞のことです。案の定関白と武家伝奏は「前例にない」と心配し、恐る恐る京都所司代に提案しましたが、案外あっさり受け入れられ、千五百石のお救い米が支給されました。朝廷は特に前例が物を言う世界ですから,この前例が出来たことによって、朝廷が幕府に政治で口を挟む道が開けました。


お陰参りと同様の現象であると考えられます。しかし、民衆の意識の何かが変わったといえるのではないでしょうか。


●天皇権威の強化
光格天皇は、強い君主意識を持っていました。君主は仁を第一として、一身を顧みることなく、天下万民に仁を施さなければならない、そうすれば神の加護により天下泰平を維持することが出来る、という趣旨のことを書いています。しかし実際に行ったことは天皇権威の強化で、民衆の苦しみを考えずに内裏の復元などをしたりしています。これは貴族の限界というべきでしょうか?しかし主観的には仁君を目指していました。


光格天皇はまた強烈な皇統意識を持ち、綿々と続いた天皇歴代に連なるという意識がいろいろなところに出てきます。


これらの意識は、若いときに学問に熱中したことから身についたのでしょう。


現在の御所は、1854(安政元)年4月に焼けて再建された物ですが、これは1788(天明8)年に焼けて、1790(寛政2)年に造営されたものをほぼ再建したといわれています。したがって、現在の御所は光格天皇のときに造られた物とほぼ同じです。


御所の焼失に際して、光格天皇は復古的な御所の造営を幕府に要求して、松平定信との粘り強い交渉の末、要求通りの御所を作ることを勝ち取りました。


ただし、その仕返しから、父親の典仁親王に上皇位を与えることは幕府から拒絶されてしまいました。


また1807(文化4)年幕府はレザノフとラックスマンの事件(通商を要求したレザノフに対して、当時の日本人も非礼と糾弾したような扱いをし、ラックスマンには通称許可をほのめかしたくせに全面的拒否解答。これに対してロシア艦隊が樺太・択捉・利尻の日本側施設や船を攻撃)の報告を朝廷に行っています。今にもロシアが日本に攻めてくるといったような、流言蜚語が飛び交っていてそれを否定するのが理由でした。これを前例にして、朝廷は対外情勢の報告を幕府に求めるようになります。やがて外交に口を出し始めます。


1817年光格天皇は譲位しますが、このとき天皇号を第62代村上天皇(摂関時代の天皇)以来900年ぶりに復活しました。この間冷泉〜後桃園は「院号」が与えられていました。しかし院号は、金を出せば庶民でも戒名としてもらえるもので、ありがたみに欠けていました。


そして死後には、醍醐とか白河といった地名を使った追号ではなく諡号が与えられました。これまた第58代光孝天皇以来900年ぶりのことでした。天皇号も諡号の復活も幕府との交渉の結果実現したものです。


光格天皇以降、天皇には、天皇号と諡号が贈られています。


天皇と公家の教育軌間として学習所(学習院とも、明治の学習院の基)を計画し、死後に実現されました。学習所では「六国史」などがゼミ形式で講義され、公家の政治的自覚を高めました。


●光格天皇の野望?
水戸学の栗山潜鋒は「保建大記」において、「天皇は、保元・平治の乱のときに悪逆非道の行いをしたので、徳を失って政権を失ったのだ」と主張しました。また潜鋒の同僚三宅観欄は、後醍醐天皇の失政を遠慮仮借なく批判しています。しかし、彼らの主張が持つもう一つの意味は、「もし天皇が前非を心を改めて徳を持った君主に戻ったならば、政権は天皇に戻るはずである」となります。光格天皇が潜鋒や観欄の著作を読んでいたかどうかは不明ですが、もし読んでいたとしたら自ら理想的な君主たることで朝廷に実権を戻そうと考えていたのかもしれません。潜鋒は元々皇族に見せるために「保建大記」を記しましたから、その可能性は高いでしょう。


このように、光格天皇は近世の天皇像を一変させました。光格天皇によって、天皇は理論上だけではなく、実際に君主としての容貌を帯び始めるのです。


「日本の近代2―天皇と将軍」
「幕末の天皇」藤田覚
「現人神の創作者たち」山本七平
を参考にしています。