2002/1/19



尊王思想の研究15―明治国家への道


●吉田松陰
吉田松陰(1830〜59)の役割は、水戸学の尊王敬幕を排して、国体を直接に絶対化してその実現を求めたことにあります。松陰は、幕藩制ではなく、天皇一人によって表象される「国体」を守ることが、国家として民族を守ることになると考えました。そこで、身分を越えてひたすら天皇へ忠義を尽くすことを求めました。こうして尊王思想が倒幕の思想となりました。そして「一君万民」構想となります。


松陰は、儒教的な普遍的「天」概念を排して、日本人の内面的な規範を天皇に形象化しました。儒教的「天」が求める規範は、儒教の経典に書かれていて、外律的です。この場合道徳の実践とは、儒教の経典の内容を自覚して守ることになります。


しかし松陰においては、自己の内面的な規範が絶対化されます。日本人固有の規範は決して無秩序なものではありませんが、体系的に記述されたことはありません。したがって、松陰のようにして天皇に仕えると言うことは、自分が納得できることを絶対化することになってしまいます。幕末の長州藩のヒステリックな行動、西南戦争の鹿児島士族の冷静な戦略を欠いた行動、ニ・二六事件に代表される青年将校の身勝手さ、およそ彼らは人の冷静な意見に耳を貸しませんが、それは自己の要求を天皇に投影して絶対化しているためです。結局自分を現人神として絶対化しているのです。そこには、天皇個人が何を考えているかなど意味を持ちません。八・一八クーデタ(1861.8.18に会津藩と薩摩藩を主力とする部隊が、孝明天皇の承認のもとに、尊攘派の公家を朝廷から締め出した事件、幕末政局最大のターニングポイント)、ニ・ニ六事件、終戦の聖断と、つねに尊王家が天皇に裏切られるのはこのためです。


このように、尊王家にとっての「天皇」とは生身の天皇ではなく、尊王思想から導き出される架空の実在なのです。


また、松下村塾塾生にとっての吉田松陰、薩摩藩士にとっての西郷隆盛、この2人に共通するのは「無私」と「包容力」ですが、この2人こそ尊王思想の天皇像の体現者でしょう。


●佐久間象山
松代藩の佐久間象山(1811〜64)は、朱子学者でした。彼は朱子学的枠組みで西洋近代を理解しました。象山の出発点は、アヘン戦争(1842年)での清国の敗北にあります。儒学の君子国清国は何故邪教の英国に負けたのか?これに彼はこだわりました。


その結果彼我の力の差の原因を、砲術に代表される実用的技術面での優越性に見出し、さらにそれが近代科学に基づいていることを見抜きました。彼は数学と物理学を、具体的な事物に即して一つ一つの「理」を極めていくという朱子学の事物の認識方法に読み替えたのでした。


しかし、ここには西洋の政治のあり方や人間のあり方への視点を欠いていました。これは、「精神的なものは学ぶに足らないが、実用的技術さえ学べば西洋に勝てる」、という考えにつながります。これは日本固有の国体主義のもと、西洋近代の科学や技術の積極的な導入を図る、明治国家のあり方につながります。


こうして日本人は危ういところで自分のプライドを保つのです。虚勢と言えましょう。


民主主義や自由に対して、明治国家は拒否反応を示しますが、天皇制を維持したままでも自由や民主主義は導入可能なはずです。民主主義や自由は実際導入は行われましたが、そこにはどこか後ろめたさが付きまとっていました。明治国家がこれら西洋近代思想を導入することに対して、いまいち素直になれなかったこと、そして軍部が社会主義者よりも自由主義者を敵視したことは、外面は西洋には負けたが、内面はまだ負けてはいないという虚勢の呪縛ではないでしょうか。


●横井小楠
熊本藩儒者横井小楠(1809〜69)は、儒学普遍主義によって西洋の政治体制やそれを支えるキリスト教などへの精神文化への理解を示した数少ない思想家でした。


小楠は、伝統的な「尭舜三代の治」(中国古代の聖人による理想政治)に理想を設定し、その理念実現のための実践的な学を「経綸の実学」と称しました。そして天を敬う聖人(君主)が、自然の働きに即した生産と交易によって「民生日用」の世話をして民の生活を豊かにすることを、具体的にはイメージしました。


そして、西洋の豊かさと、それを支える共和制という政治制度、さらにそれを可能にしたキリスト教の倫理、等の近代西洋諸国のあり方そのものに、「尭舜三代の道」の実現を見出しました。アメリカへ留学した2人の甥に、「異国の山川草木は、全て日本とは異なっているが、人の心は皆同じ兄弟である、誠心誠意付き合えば、外人にもそれは通じるはずだ…」と書き送っています。


横井小楠の高弟の由利公正が、新政府の理念を記した「五箇条の御誓文」の第一起草者であることと無縁ではありません。明治期のキリスト教受容にも小楠は影響を与えていると言われています。そして初期の日本の社会主義が、キリスト教と密接につながっていることとも関係があるでしょう。私は初期の日本の社会主義者は社会主義を「経綸の学」と考えたのではないかと思います。また、明治天皇、昭和天皇御自身が自らに科した役割は、小楠の君主像に近かったのではないでしょうか。


「日本の近代13―儒学・国学・洋学」9.儒学の幕末―西洋近代への思想的対峙 辻本雅史、を参考にしています。