2002/3/31



尊王思想の研究20―そして国体は護持された


アジア太平洋戦争を終結させるチャンスはいくつかあったといわれています。サイパンが陥落して東条内閣が更迭された時点、沖縄が占領された時点、ポツダム宣言が出された直後、広島に原爆が投下された日…


最終的に終戦は8月15日となりましたが,それまでに日本中が焦土となり、沖縄は占領され、広島と長崎に原爆が投下され、満州は蹂躙されてしまいました。本土決戦という最悪の事態は避けることはできましたけれども、それ以外の惨禍は全て実現してしまった観があります。なぜもっと早く戦争を終結させることができなかったのでしょうか。


●戦中の宮中

終戦工作をリードしたのは宮中でした。宮中とは、天皇、宮内の中のことを取りしきる内大臣・宮内大臣・侍従長、それと首相経験者で構成される重臣たちです。東条内閣を更迭させて終戦への道を開いたのは宮中の工作でした。その後、宮中が早期講和に踏み切れなかった理由は2つあります。


まず第1に、陸軍を押さえられるかどうか自信がなかったことが挙げられます。


陸軍が余力を残しているうちに講和(もちろん敗戦)となると、陸軍が暴発し、2・26事件のテロとクーデターが再現する恐れがありました。しかも今回陸軍がクーデタを起こすとしたら、それは一部隊の暴発にとどまらず、陸軍全体を巻き込んでの謀略になる可能性が高く、その際、昭和天皇は良くて幽閉、最悪の場合殺害されてしまう可能性は濃厚でした。


そうなってしまえば、完全にブレーキを失った日本は本土決戦まで突き進んでしまって、完全に壊滅して、民族滅亡になると宮中は心配しました。


第2に、国体護持です。戦争に負けた場合、連合国が天皇制の存続を許すかどうか、最後の段階まで宮中は確信が持てませんでした。


ポツダム宣言(1945年6月27日)以前に講和が遅れてしまったのは第一の理由が主でしたが、7月以降は国体護持の見極めに宮中がこだわったのことが戦争終結が遅れてしまった主因です。これがなければ広島と長崎それと満州の悲劇は避けられたかもしれません。


東郷茂徳外相、宮中(近衛文麿元首相・木戸幸一内大臣・岡田啓介元首相・若槻礼次郎元首相)らは、ポツダム宣言が無条件降伏の体裁を取りつつも、交渉の余地があることを嗅ぎ取り、国体護持は可能であると判断して何とか終戦にこぎつけました。


● なぜ国体護持にこだわったのか

天皇制がなくなってしまうと、明治国家は糸がほぐれたようにバラバラになってしまう可能性があります。「天皇性無責任体制」で見たように、明治国家は各部分が同等の権利を主張し、常にバラバラになろうとする危険性を持っていました。象徴的存在とはいえ、統合の中心である天皇が消えてしまうと、日本政府が消滅してしまうと当時の人々は恐れていました。


● 大日本帝国憲法と日本国憲法の連続性

大日本帝国憲法が廃されて、日本国憲法が制定されて国体はどうなったのでしょうか。


国家意思の統合は内閣総理大臣に収斂することになりました。そして国家の最高意思決定機関は国会となりました。軍は総理大臣の指揮下に置かれてシビリアンコントロールが徹底されることになりました。内閣総理大臣の権能はかつての天皇に近いものがあります。


しかし、その総理大臣を任命するのは天皇であり、国会を開会閉会するのも天皇であり、法律の公布も天皇の名で行われます。日本国憲法では天皇個人の意思が国政に介入する余地は全くなくなりましたが、これは大日本帝国憲法にある内閣の輔弼(ほひつ)と国会の協賛を徹底したのであって、天皇の委任を受けて政府が国政にあたる立憲君主政体は戦後も続いています。ただし、国民の意思を反映する衆議院が天皇に最も近い位置に上り詰めたので、国民が政治の主体となることができたと言えましょう。