2002/2/9
明治国家は、その正統性の根拠を尊王思想の天皇象に求めました。そして、大日本帝国憲法により、国家の無謬性は天皇に仮託しておきつつも、国政の責任を政府が負うという形で、柔軟に政治を行うシステムを作り上げました。国政に失敗があったとしても、政府の責任として内閣が辞職するなどの方法でやり直しが利くので、全ての責任を政府が負うよりも、ある意味気楽に政治ができるわけです。これはそれなりに良くできたシステムだったのではないかと思います。でなければ、失政は社会制度そのものの失敗とみなされ、国家が転覆してしまう可能性も無きにしもあらずです。天皇は明治国家存続の印でした。
それで、当の天皇陛下はどうだったかと言うと、明治天皇は自ら立憲君主たろうと努力したようです。明治の国家の最高意思決定は元老が握っていましたが、この元老は明治天皇よりも年齢は上で、明治維新において明治天皇を取りたてた功労者でしたので、彼らの決定には天皇も従わざるをえませんでした。日清戦争の開戦と南北朝正潤論争の時以外は、政府と明治天皇の意思疎通はうまくいっていたようです。
大正天皇は、元々英明であったともいわれていますが、天皇御不予(私は若年性のアルツハイマー症だったのではないかと思います)になりました。イギリスの立憲政治がドイツから来たジョージ1世の時に進んだように、大正期に日本の立憲政治も根づきはじめました。
昭和天皇は、明治天皇から立憲君主たるように教育されました。しかし、軍部が大日本帝国憲法の抜け道をたどって国政を握っていこうとする中、天皇は立憲君主として自らの意に添わぬ決定でも承認するべきか、あるいはリーダーシップを発揮して国政に参加するべきか悩みました。昭和天皇は、天皇が国政に口出しすることを憲法違反と捉えており、そこに苦悩がありました。昭和前期に、暴走する軍部は、初め昭和天皇を取り込もうとするのですが、2・26事件によって、天皇が土壇場では軍部の側に付いてくれないことを知りました。その後軍部はむしろ天皇の目に付かない方法、天皇の承認のいらない方法で国政を牛耳ろうと努力します。
尊王思想と軍部独裁ですが、軍の首脳は、尊王思想の天皇象を完全には信じてはいなかったでしょう。国政に参画するほどの位置に昇れば、天皇が感情を持ち、自分で判断する一人の人間であることは分かります。しかし、青年将校は信じていたろうと思います。そして、その将校らを統御するために、前時代的な尊王思想の天皇のイメージを訂正しようとはせず、軍部とそれに追従した政府はむしろ喧伝していったと考えられます。
また、軍部の倒錯は、自らの決定を天皇の決定としてしまうところにありました。日本軍では、上官の命令は天皇の命令と言うことで忠誠心を作り上げようとしてきました。しかし、本来これは、前にも言ったように責任は天皇まで及ぼさず、失敗は臣下がその責を負う形ではないといけません。しかし、アジア・太平洋戦争中の軍部は、天皇の名で出された決定である以上、それが間違いであるはずが無い、と言う立場を取りました。これは、明治国家ではルール違反です。どんな決定でも、それを作るのは政府や軍ですから、失敗はあります。そしてその責任は政府や軍が負うべき物です。しかし日本軍は自らの失敗を、上に述べたような論理で、負いませんでした。
かくして、天皇の名において、日本国中が自らの責任から逃れる事態が発生しました。
これを解消する方法は、天皇本人が、「自らの行動は間違いであった」と言って、上からすべての決定をリセットするしかありませんでした。これが聖断です。つまり、戦中に出された「天皇の決定」が「不渡り手形」であったことを宣言したといえます。
とは言え、終戦の詔勅(ポツダム宣言受諾の声明)を良く読めば分かりますが、実は昭和天皇は「自分が間違いであった」とは一言も言ってはいないのです。「我々の行動には間違いが無かったが、あまりにもひどい状態に陥ってしまった、このままでは国民がかわいそうである、よって不本意であるがポツダム宣言を受諾する」これが私なりに解釈した大意です。
まあ、戦争に負けたからと言って、全て自分が悪かったです、と宣言した国は未だかつて無いでしょう。そんなことをすれば、ただせさえ不利なのに、ますます不利になってしまいます。交渉はまず相手をぶん殴ってからと言います。この終戦の詔勅の内容自体はそれほど責められるべきものではありません。しかし、私はこれは尊王思想の天皇の無謬性を維持するために、かような内容になったと考えています。