2001/6/26
さしもの強盛を誇った明帝国も、14世紀後半以降は、内憂外患に悩まされるようになります。すなわち内憂とは、宦官の専横と官僚の党争、官の収奪による民衆の疲弊です。外患とは北虜南倭と呼ばれる周辺民族の侵入です。
北虜とは北方の遊牧民で、モンゴルの末裔であるオイラートとタタール(韃靼、シベリアのトルコ系タタールとは別)です。彼らは時には華北を荒らしまわりました。明朝は彼らの侵入に対して万里の長城を修築したり外征をして防ぎました。
南倭とは、日本人の倭寇のことで、13〜16世紀にかけて朝鮮・中国沿岸で猛威を振るいました。13〜16世紀にかけて宋代の江南における農業技術の進歩(水利技術の進歩と施肥術の進歩による休閑農法からの脱却)によって、東アジア(中国、日本、朝鮮)の農業生産力は飛躍的に増大しました。これによって東アジアの経済活動は活発になります。しかしそれに対して明は海禁政策(鎖国・主眼は国家による貿易の統制)をとって、自由な貿易を制限しました。そのため貿易を求める日本の商人、海民は密貿易をし、時には海賊となって沿岸を荒らしました。これが倭寇です。倭寇も後期になると、貿易を求める中国人の方が主体となっていきます。明代における日本の主要な輸出品目は銀と刀剣でした。刀剣は、社会の不安定性を増します、それもあって明は日本との貿易を制限したがりました。
明は豊臣秀吉による朝鮮侵入(文禄の役1592〜93と慶長の役1597〜98)により財政的に壊滅的な打撃を受けました。中国王朝の末期には必ず起こる民衆の暴動も常態化します。そして1644年に李自成によって滅亡します。
これより先、満州に女真族というツングース系の半農半牧の民族が居住していました。女真族はかつて金(1115〜1234)を建国し、華北を占領しましたが、滅亡後は元・明に服属しました。その間分断統治を敷かれ、諸部族に分かれて相争っていました。しかし、豊臣秀吉の朝鮮侵入に明が気を取られているうちに、支配が緩み、ヌルハチ(1559〜1626)によって女真族は統一されました。1616年に、ヌルハチは推戴されてハンとなり後金を建国しました。ヌルハチとその第8子ホンタイジ(清の太祖)は満州・内モンゴル・遼東を有し、1636年女真族・モンゴル人・満州や遼東の漢人に推戴されて皇帝を称し、後金から大清に国号を改称しました。これより清は一過性の略奪から、本格的な中国への侵略を開始します。
呉三桂(1612〜1678)は明の武将で、初め山海関地方(万里の長城の東端、満州から華北への通り道にあたる重要な地)で清と対峙していましたが、李自成によって明が滅亡されたことをきくや、清に下り清軍を先導して北京を回復しました。強力な八旗と呉三桂などの服属明将の協力により、清は短期間で中国全土を制圧しました。
明帝国は「漢民族の中華王朝」、という姿勢を前面に押し出していました。そして朝貢関係を周辺地域に強力に押し広げました。14〜16世紀の東アジアは、華夷秩序によって律せられていたのです。しかし、その当の中国が、蛮族である女真族の王朝によって占領されてしまいました。これを「華夷変態」と呼びます。これは日本と朝鮮の知識人に大きな衝撃を与えます。
異民族王朝に従うことを潔しとしない人々は、清に反乱を起こしました(復明運動)。清の前期の治世は、安定し中国は繁栄しますから、この反乱は純粋に異民族支配に対する反発からのものです。そのためこの反乱は民衆とはあまり関係がありませんでした。三藩の乱(1673〜81)、鄭成功(1624〜62)の反乱、舟山列島に拠った朱舜水(1600〜82)、これらの反乱が起きます。鄭成功は元々は科挙に通った秀才で、そのため朱子学的な大義名分論、華夷秩序に殉じた人物でした。朱舜水は学者でもありました、そのため鄭成功同様大義名分に殉じました。
鄭成功は日本人とのハーフであったため、彼の活躍は日本にも伝えられました(近松門左衛門の国姓爺合戦等)。彼は4度日本に救援を要請しましたが、朝鮮の役の失敗に懲り、とにかく安定を旨とした徳川幕府によって拒絶されました。朱舜水も日本に協力を要請しました、そして何度も日本と中国を往復しています。インゲン豆、現在の綿を詰めた型の布団など多くの文物を日本に伝え、日本の黄檗宗の祖であり、宇治の万福寺を開いた隠元和尚は彼の協力者です。朱舜水は復明運動に失敗し、1659年に日本に帰化しました。1665年、水戸光圀は彼を客として招き、師事しました。
水戸光圀は、朱舜水を唯一の師としました。朱舜水の存在は、水戸学の発展に大きな影響を与えます。
日本では、源頼朝、足利尊氏、豊臣秀吉、徳川家康にしても、その支配者としての理論的根拠はなく、「世の中を丸めたから」と言うことでその支配者としての正統性は常に時後承認の形で与えられてきました。そしてそのことに疑問を持つ人はいませんでした。「世の中を安定させればそれで良いではないか」、これが日本人の昔からの認識でした。
しかし、朱舜水や鄭成功は、「世の中を丸めて」実際に政治の上でも成功している清王朝を、「異民族王朝である」と言う理論的理由のみで拒絶しました。この姿勢は当時の日本の知識人に衝撃を与えます。理論に殉じる人間を、一種の理想とする考えが日本に生まれるのはこの頃からです。