2001/6/4
●武将・領主にとっての学問
太平記読みが言う武将・領主にとって必要な学問とは以下のようなものでした。
「将は智なくんばあるべからず。智というに万巻の書を学びたりとも云へども行末の善悪を科らず、諸人の根性の風を知らざれば愚とする也。喩へば書を学ばずと云へども、当時諸人の風を知て是を量りて随はしむ、又其の行ひ当時は善なれども、後に返て悪とならんと思えば其の行いを止む。其の時宜しからずといへども、向後に善ならんを思はば是を行う。亦諸人の心を良く知て、其の器に随て其の事を司どらしめ、顔色に和して礼儀を乱さず、能く人の忠と不忠とを量りて、賞罰を法に任せて乱さず、是を将の智と云也」
訳:武将は知恵を持ってなければいけない。聡明といっても、万巻の書を読んでも、先々の予見がきかず、人々の性質を見分けられないようでは愚かである。例えば、書を読んだ事がなくても、その時代の人々の心の赴くところを知って、人々をして進んで言うことをきかせる、あるいは、今現在は良いことであっても、後にひっぺ返しを食うようなことは止めさせる。今現在悪いとされていることでも、後々によい結果を生むと分かれば、実行する。また人々の心をよく知って、その能力にあわせて仕事を任せる。TPOをわきまえる。人々の組織への忠誠度を見分けて、賞罰の原則をしっかりする。これが武将が必要とする知恵である。
これに賛同される方は多いと思います。
●石田梅岩
さてこの知恵は、近世中期の思想家石田梅岩の思想と似ています。
石田梅岩は、1685(貞享2)年丹波の国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市)に生まれ、11歳の時京都の商家に丁稚奉公に出ますがその商家が立ち行かなくなり、一時実家に返されます。再び京都の呉服屋に出るのですが、この時点で彼は当時の出世コースからは外れてしまい、彼の心は内性的なっていきます。彼は物事を突き詰めて考える性質でした。例えば若い頃「天地開闢の物語は間違っている、何故なら、天地が造られる様を誰が見て記録したというのだ」。彼は当時の世の中の風潮になじめないで悩みました。ノイローゼになって、主人に休養を勧められています。しかし30歳になって小栗了雲という一居士に会って多年の疑団が一気に氷解しました。そして1729(享保29))年、45歳にして居宅を京都車屋町通御池上の東側に構え、講義を開きました。石田梅岩は町人でしたから、もちろん説いた相手は町人です。彼の講義は誰でも聞くことが出来ました。
石田梅岩が説くに、天地の性理は善であり、無意識のうちに呼吸するように善に従えば(自覚するようではいけないと彼は言っています)、満足して生きられるといいます。理論的には難しそうですが、彼が説いた人が生きるべき道というのは、現在でも日本人が「よい生き方」としているものとまったく同じです。誠実に仕事をすることの大切さ、親孝行、理論に走って現実を無視することを戒める、家業を大事にする、家族を大切にする…彼の思想のテキストである「都鄙問答」を読んでいると、そのあまりの変わらなさに驚きます。石田梅岩は、近世の庶民が大切に思ってきた当たり前のことを説いた人だといえましょう。
石田梅岩は、全ての人々は何らかの能力を元手に商売をしているようなものであると説きました。武士は禄をもらって、国を富ませて主君に利益を与えるのが仕事。農民は農産に励むのが仕事。職人は物を作るのが仕事。商人は流通を司って、物価を下げ、人々の生活を豊かにするのが仕事。全ての人々は自分の能力にしたがって仕事をしており、それに対して報酬をいただくのは当然であるとしています。鈴木正三の職業倫理に似ています。石田梅岩の弟子が、鈴木正三の解説書を書いていることから、石田梅岩は鈴木正三の事を知っていたと考えられます。
石田梅岩のことを詳しく説明したい気持ちもありますが、近世政治学の発展を追うのが「尊王思想の研究」のテーマですから、石田梅岩の学問観・忠義観に話をすすめましょう。
上の太平記読みの学問観、忠義観は、石田梅岩著の「都鄙問答」巻一「武士の道を問うの段」「播州の人学問を塔の段」とよく似ています。
「下を使ふは君の道をもって治むべし。古の聖人の御世には、君としては万民を子の如くに思し召し、民の心を持って御心となし給ふ」「心正しく直ならば、他に不足ありともなお士と云ふべし」「聖人は我が心を以って天地万物を貫く」「聖人は四海の水太船を浮かべて天下の財を通用し、万民を養ふがごとし。」
しかし、太平記読み、江戸時代の古学、鈴木正三、佐藤直方、石田梅岩全て嘆いているのは、学者が象牙の塔に篭って世間になんの益ももたらさずにただ威張っていることです。近世の明君の一人は「学問などしていたら、返って人情の機敏が見えなくなってしまう。」「人情の機敏を知り実際に世間で役に立つ方法を知りたいが、世間ではそのようなものは学問とは言わないらしい困った」、などと言っています。これは現在にも通ずるのではないでしょうか?